恋人の聖地に寄り道したら、目的地の水族館に入れなかった話

けい

本編



 肌にべたつくような蒸し暑い風に目が覚めた。

 カーテンが閉まったままの寝室には、その蒸し暑さから予想出来る陽の光は入り込めておらず、隙間からちらりと攻撃的なまでの白が一瞬顔を出す程度だ。

「……っ、朝……いや、昼か?」

 うめき声とも欠伸ともつかないなんとも言えない声を発しながら、俺――優利(ゆうり)は上体を起こした。

 乱れたベッドに腰掛けて、少しばかりぼんやりとした時間を楽しんで、それから気合を入れて立ち上がる。優利の朝のルーティンは、平日でも休日でも変わらない。平日なら朝に行うこの行動も、休日には昼近くになるなんてよくある。

 ベッドの横に備えてある目覚まし時計の表示は、十一時となっている。さすがにこの光の加減は昼間に間違いない。今日は休日だから遅刻の心配もなし。遅刻の心配なんて社会人になってようやく身に着いたことだが。

 薄暗い寝室の扉を開けて、キッチン――単身者用のこの家は1Kの間取りなので、寝室から出たらそこにはキッチンと室内設置の洗濯機、そして風呂場と洗面所に繋がる扉があるだけだ――の室内灯を点ける。カーテンを開ければ良い話だが、この寝ぼけた頭にあの陽光がいきなりはキツイ。もう少し頭が動き出してから、せめて洗顔はしてからにしないと。

 洗面所の扉を開けながら、妙に自身の口が臭うことに気が付いた。自分でも臭いなとわかるのは、おそらく昨日のニンニク料理のせいだ。確か海鮮居酒屋で飲んで帰った。頭は痛くないから、アルコールはもう抜けているのだろう。仕事帰りに友人と待ち合わせて、飲んで帰って……あれ?

「車……?」

 頭に過ったその疑問は、洗面台に向かっていた小さな頭によって掻き消えた。いや、解決した。

「ぉふぁもー」

 歯ブラシを突っ込んだ泡だらけの口からモゴモゴとそう“朝の挨拶”をした“彼女”は、口に水を含んでべっと泡を流してから、もう一度優利に向き直って「おはよー」と言い直した。

 昨日一緒に飲んでいた相手の、智夏(ちなつ)だ。智夏は女友達だが、男っぽい性格と趣味のせいで、ほとんど同性のように接することが出来る相手だ。だから二人きりで飲みに行くことも多いし、お互い『恋愛沙汰』には首を突っ込まないようにしている。

 社会人になって、異性の友人というものがとても大事なものだったと気付いた時には後の祭り。異性どころか同性の友人だって、仕事の占める時間のせいで新たに作ることが難しくなるとは思ってもみなかった。

 学生時代の友人達とも、卒業から数年も経てば疎遠になってくるものだ。幸い優利には車という趣味があったので、その関係の友人達は繋ぎ止めることが出来たが、それでもその界隈だけでの交流では、なかなか『支障が出る』というもので。

 “なかなか気難しい車”に乗っている優利は、そのせいか軽い関係の恋人を切らしたことがない。だが、それはあくまで『軽い関係』の恋人だった。人生を共にするわけでも、ましてや財布が一緒になるなんてことになったら、自分以上に相手の方が『こんなに車に金も手間もかかるなんて信じられない』と逃げ出すだろう。

 女は『奢られて当然』で、『カッコいい車の助手席担当』。『高級車を乗り回す彼氏が欲しい』それだけの存在なのだ。優利だって『飲んで寝て楽しみたい』し、『自慢の愛車に並べて映える女』が写真投稿の為に欲しくなるぐらいにはクズな自覚はある。

 そんななかでこの智夏は、『助手席担当』ではない珍しい、車趣味の女友達だった。小柄な身体は成人していてもまだ学生のような見た目なのに、どこか諦めの空気が漂う企業戦士。お互い趣味にお金が掛かるので、残業上等の正社員である。家族と実家のご近所さんの理解がなかなか得られないので、お互い同じ府内に実家がありながら、一人暮らしをしている。

「……おはよ。えーと、昨日……もしかして、ヤってもた?」

 狭い洗面台に並びながら、彼女の返事も聞かずに歯ブラシに手を伸ばす。いつ誰が置いて行ったかも定かではないピンク色の歯ブラシには使用された形跡はなく、彼女はどうやら携帯用の歯ブラシを持参していたようだ。

「あんた、マジで酒弱すぎひん? 完全に記憶飛ばすんやったら、盛るん無駄なんちゃう?」

 呆れたような溜め息とは逆に、彼女の表情にはニヤリとした悪い笑みが浮かんでいる。営業職のくせに赤茶に染めたロングヘアが、これまた気だるげに揺れた。男は黒の短髪じゃないと『清潔感がない』だとか言われるのに、女は『オシャレ』の一言で片付けられるのが気に食わない。

 彼女もまだ起きたところのようで、いつもは完璧に施されている化粧はまだだ。寝起きの気だるげな顔を見れるのは、彼氏と家族、そして優利のような“関係”の男だけだろう。

「智夏相手やと酒強いフリもせんでエエから、つい。遊びの女相手なら、適当に車乗せて流すだけやしな」

「うっわ、ほんまこいつ女の敵やで。普通の女あんな車乗せても、ケツ痛い言うだけやろ」

「それは仕方ないよなぁ。見た目だけで喜ぶ女が多すぎて」

「それはあんたの顔のことも言ってんのか?」

「バレたかー」

 歯磨きと洗顔を済ませながら、ふざけ合って笑う。

 智夏とは恋愛の絡んだ関係ではない。彼女とは、悪友なのだ。親友で、恋人ではない。愛や約束は交わさないが、身体は時たま交わしている、そんな存在だ。二人で飲みに行った帰りや、終電を逃した退避場所として、またはどうにも一人では手が回らない『改造』の後に、二人きりで、時折その時を楽しんでいる。

 お互いの恋人のことは何も言わないし、聞かない。どちらかが愚痴をこぼした時には大人しく聞く。聞くだけで何も言わない。そうやって、お互いに恋愛沙汰には首を突っ込まないようにしていた。これが大人というやつなのだろうと、優利は一人で納得していた。

「それにしても、えらい早起きやん?」

 彼女の言葉に優利は笑った。もう時刻は十一時を過ぎている。それでも早起きと言ったのは、彼女なりのジョークだろう。

「なんか、車走らせるにはエエ天気やと思って」

 優利は嘘をついた。天気がどうかなんて、カーテンを開けるまでは判断出来ない。隣にいた温もりが消えたから、優利は目を覚ましたのだ。彼女は、まるでスポーツのように夜を楽しみ、予定があれば朝からでもそのまま帰ってしまうような人間だ。

「あー、それは確かに。今日予定ある?」

「久しぶりの休みやから寝てよか思たけど、智夏も予定ないなら、どっか行く?」

「ほんま? それやったらちょっと行きたいとこあるんやけど、一緒に行かん?」

 思っていたよりも輝いた彼女の瞳に、優利も思わず微笑んでしまう。社会人になってから知り合った彼女とは、まだ年月で言えば一年程の付き合いだ。それでも出会った時からなんら変わらない純粋な笑みに、穏やかな日常を感じられる。

「行きたいって、どこなん? 遠出?」

「ま、遠出やね。沼津やし」

「は? どこ?」

「沼津市の深海水族館。静岡県」

 場所を聞いた優利は、準備はさっさとしてしまおうと考え直した。

 今は午前十一時過ぎ。これから二人で用意をして――優利は髪を整えるだけで済むが、智夏は化粧もするだろうし、出るのはきっと昼になる。昼飯はどこかのサービスエリアで食べるとして……とにかく、京都から静岡なんて、高速飛ばしても四時間は掛かる。

 ゆったりなんてしていたら、目的地に着く頃には日が暮れてしまうだろう。







「つーか、なんで沼津なん? 水族館行くだけやったら、海遊館でエエやん。ジンベエザメおんで?」

 計器の針に目を走らせながら、優利はついついそう愚痴ってしまった。昨夜の帰り道の記憶はないが、どうやら智夏が運転してくれたようだ。

 昨夜は優利の方が仕事が早く終わったため、彼女の家の近くの居酒屋まで優利が向かったのだ。車趣味の仲間内で飲む時は、『飲む』と言いながら飲まない運転手がいることも多い。愛車が大好き過ぎて、そもそも電車に乗るなんて選択肢はない。酒よりも運転の方が好きなのだ。

 彼女の家から優利の家までは、同じ府内と言っても車で三十分は掛かる。深夜の車通りの減ったその道を、彼女はしっかり“気を遣って”運転してくれていたようで、エンジンの調子は悪くない。それに高速道路が続く方が、下手に下道ばかりの近場よりもこの車には向いている。

「海遊館なんて歴代彼氏共と腐る程行ったわ。てか、距離で言うなら京都水族館やろ」

「アホ、京都水族館こそ近過ぎて行き飽きたわ。近くのラーメン屋は美味いけど」

「あー、あっこな。店の前停めれたら文句ないんやけどな……深海水族館やと冷凍シーラカンスが見れるんやって。気にならん?」

「いや、ならんかな……」

「古代生物と乗りモンと女は、男のロマンやろ?」

「最後雑念混ざっとんぞ」

 洗面所と同じくふざけたやり取りを交わしながら、二人は優利の愛車が奏でるロータリーサウンドを楽しむ。手間も金もつぎ込んだ自慢のカスタムだ。

 愛車は新名神高速道路を機嫌良く走行中だ。信号のない高速道路はエンジンにも優しい環境である。あまり目立つ運転をしているのも車好き仲間達の品位が下がるので、優利は基本的には安全運転を心掛けている。迷惑を掛けない範囲でも、充分にスポーツカーは楽しめるのだ。

「うんうん、法定速度ピッタリやな」

 隣で智夏も満足そうだ。彼女も見た目こそヤンチャな愛車を所有しているが、その運転は穏やかそのものだ。性格とは真反対だとは口が裂けても言えない。

 法定速度で左車線を穏やかに。見た目やエンジン音はどうしようもないので時たま他のドライバーの視線を感じることもあるが、むしろ中途半端な煽り等は受けたことがなかった。

「そりゃなー、最近は色々物騒やし」

「アホ、物騒な顔つきしてよお言うな」

「待て待て、俺ってけっこうイケメン言われんねんで? 真面目な営業マンやってるし。同じくらい厳ついとも言われるけど」

「最後のが真実やろ」

 ゲラゲラと笑いながら、智夏が缶のココアを飲み干す。先程寄った草津のパーキングエリアで買ったのだが、彼女は昼飯もどうかと聞いても「食べたいものがあるからここでは食べへん」と言い張った。

 スポーツカーの車内は一般的な車に比べて狭く、そして座り心地もあまり良くない。シート自体の造りもそうだが、何より低めの車高のせいでガタガタとよく揺れるのだ。本来ならばバネによって殺されているはずの走行中の衝撃が、そのまま身体に響いてくるのである。初めて乗った女が一日掛かりのドライブに行きたいと言い出し、その翌日身体が痛いと言っていたのを思い出す。

「もうええわ。んで? なんで浜名湖のサービスエリアなんて寄りたいねん?」

 草津にて智夏がいじくった愛車のナビには、経由地として静岡県西部にある浜名湖の文字が躍っていた。浜名湖と言えば……鰻、だろうか? あまり詳しくない。多分隣の彼女もそうだろうが。

「鰻が美味かったって会社のオッサンが言っててん。どうせ方向一緒やったら『私も食べたでー』って言えた方が話題になるやん。ついでにうなぎパイでも買って帰ろー」

 なるほど。社内営業のための話題作りか。なんとも彼女らしい。自身の高い営業成績を支えるものの一つが円滑なる社内の人間関係であることを、彼女はちゃんと理解している。工夫出来ることは工夫する。それは勉強の成績でも人間関係でも同じことが言えるだろう。

「鰻かー。俺も有名なとこで食うん初めてやし、それはそれでエエとして……俺らの昼飯、三時頃になんぞ?」

「やんなー。このペースで行ったらそうなるよなー……優利って明日休み? どっかで泊ってく? あ、さすがにこれは私の我儘やから金は私が出すわ」

「いや、昼から出なあかんだけやから泊まるんは問題ないし、金も自分の分は出すって。俺も来たいから来たんやし」

「んー、悪いな。ごめん。なら鰻代は私が出す! んで帰り道は運転するわ」

「それで問題なしやな。今夜帰れそうなら、向こうの美味い酒でも飲んで帰ろかなー」

「あんたは酒禁止にしなあかんな」

 敢えて酒の話を出してみたら、案の定彼女は大笑いしてくれた。優利が酒に弱いのは学生時代からだったが、社会人になってから酒の席が増えたものの、身体は全く受け付けないままであった。あまりに悪酔い――基本的には絡むのではなく爆睡して動けなくなる。そして記憶がなくなる――するので、入社して一年も経てば飲み会の席で酒を勧めれることもなくなった。パワハラ、アルハラ上等な上司達にそこまでさせるとは、いったいどれだけ面倒な酔い方を自分はしているのだろうか。

 上司達とはそんなこんなで飲むことは少なくなってしまったが、友人達とは別である。特に親友とも呼べる智夏の前では、優利も安心からか酒を楽しむことも多かった。恋人には大失敗になるであろう事案も、智夏に対してなら失敗にはならない気楽さがあった。

「まー、とりあえず……まだまだ距離もあるし、暇なら寝といたらエエで」

「アホ、せっかくオーディオいじってんねんから、楽しまな損やろ」








 それから特に渋滞することもなく、優利達の乗る愛車は東名高速道路の浜名湖サービスエリアに到着した。上下線共通のサービスエリアなので、優利が密かに危惧していた『実は上司が言っていたお店は下りにしかありませんでしたー☆』という恐ろしいオチも回避されていた。素晴らしい。

 車内にてカラオケ大会を満喫していた智夏――何故か選曲が古いロックばかりで、優利とは趣味が合わない――が、ぐいっと伸びをしているのを横目に、優利は駐車場に車を停めた。エンジンを切る寸前に見たナビの時刻表示は十五時半。まだまだ太陽は現役なお時間だが、このままのペースでいけば目的地である深海水族館には十八時に着けば良いところか。これから鰻を食べるのだが、そろそろ無謀な時間配分になってきた。

「広いとこやなぁ。それになんか……公園みたいなんあるやん」

 優利がドアを開けるのに合わせて、智夏も車から降りる。彼女の荷物は小さな鞄一つだけだ。むしろ車にいつも積んでいる工具箱の方がデカい。財布と化粧ポーチとハンカチとポケットティッシュ数個(何故だろう?)とスマートフォンが入れば良いと言ってたが、改めて挙げるとそれでもそれなりに入ってるんだな……

 大型のサービスエリアらしい広い駐車場は、中途半端な時間のためか混んでいるという印象は受けない。快晴とまではいかないまでも天気も良いので、家族連れらしい和気あいあいとした声があちこちで上がっている。親子やカップルに混ざって施設に向かって歩く自分達も、きっとカップルに見えているに違いない。時々店員に間違われるのでそういう空気が漂っているのだろう。

 このサービスエリアはその名前の通り、静岡県西部に位置する浜名湖に接するサービスエリアである。飲食店や土産物屋といった基本的な施設の他に、このサービスエリアには湖畔に面した芝生の公園のようなスペースがあり、日本で唯一、ここから遊覧船も出航しているのだ。

 まだ高い位置にある陽に照らされて、芝生の緑が優しく揺れている。思わず大きく息を吸っていると、隣の智夏が屈託なく笑った。緑の匂いを嗅ぐには少し距離があったため、どちらかというと雑多な人工の匂いが先に鼻を撫でた。

「公園、鰻の後に行ってみる?」

「ああ。浜名湖もめっちゃ綺麗やし、写真撮りたい。あー、カメラ持って来たら良かったー」

「それ、草津でも言ってたやん。水族館行くのに忘れるとかほんまアホやん。漁港やから車とセットでエエ写真も撮れるかもやのに」

「もう言わんといて……」

 普段だったら絶対に忘れない『忘れ物』だった。自分の愛車にそれなりの金も手間も注ぎ込んでいる優利は、もちろん愛車のことをこの上なく愛している。そして愛しているその姿を美しく残したいというのも、男のロマンというものだろう。先程の彼女の言葉も頷ける。

 『男の趣味は金がかかる』とはよく言ったもので、車とカメラを趣味に持ってしまった優利の財政は正直言って苦しい。しかし、一人暮らしに車持ち、そしてそこそこ遊んでもいるので、真の意味で生活が困窮しているということはない。稼いだ額から生活費以外の金額が全て、趣味に掛かる金額に流れてしまっているだけだ。

 貯金はない。だが、それでも周りを見ている限り自分は稼いでいる方だろう。派手な趣味が多いため、女達が寄ってきているのも自覚がある。貯金がない者同士気楽に遊べればそれで良いのに、何故か「男のくせに貯金もないの?」と言われて喧嘩になった記憶が蘇る。貯金がない自分に非があるのはわかるが、『将来を見据えた付き合い』ではない相手が何を言っているのだろうと本気で驚いた。目的地が違う相手に『男=夫はこうであれ』と言ったところで、優利が求めている『女』は『妻』ではないのである。

 いつかは結婚したくなるのだろうが、『今』や『近い将来』ではないのだ。目的地≪結婚≫に向かって連れて行く女は、まだ優利の手を取ってはいなかった。そもそも貯金という概念に『男女』を出してくる理由がわからない。悪いのはお互い、ではないのだろうか。

 けっこうな額をつぎ込んで購入したカメラを忘れた優利がその事実に気付いたのは、ココアを購入した草津でのことだった。運転中に何度かスマホが振動していることにはお互い気付いていたが、ハンドルを握る優利は当然確認出来ず、智夏もまた、会話や食事中やドライブ中には極力スマホには触れないようにしているらしく、車を停めたタイミングで二人共通知の確認をしていたのだ。

 十数件の“急用でもなんでもない通知”は無視。その下に埋もれるように、智夏も仲良くしている共通の友人から『今どこおるん?』とメッセージが通知されていたので、スマホでツーショットを撮った――この友人は二人の関係が悪ノリが過ぎる冗談だと思っている――後それだけ送り付け、ついでに愛車の写真を撮ってやろうと思ったところで、悪夢のような現実に直面したのであった。

 もうここまで出たら引き返している時間はない。泣く泣くスマホで撮ると決意してアイスコーヒーを自棄になって飲み干したので、まだ少しだけ胃の調子が悪いのは秘密だ。一時間おきにポケットから振動音が聞こえるのも原因の一部かもしれない。昨夜からもう二十時間程、『求める答え』が返ってきていないのだから当然か。ちゃんと生存確認の連絡は入れているというのに、どこまで縛れば気が済むのだろうか。

 上下線共通のサービスエリアらしく、施設数が多く、そして広い。土産物屋もなかなか面白そうだが、それよりもまず『昼飯』だ。もうランチタイムからは遠く離れてしまった時計の針は目に入れないようにしつつ、優利は元気な足取りでパタパタと走る智夏の後を歩いて追う。普段の悪友らしい表情も見ていて飽きないが、こういう女の子らしい仕草には思わず目を逸らしてしまう。『愛される』という言葉を、“努力して”得ている女だと思う。気遣いは大切だ。

 彼女の駆け寄ったその施設は、フードコートとなっている建物のようで、所々にこの地域らしい『鰻』や『餃子』の文字が躍っている。彼女の目にもそれはしっかりと映ったらしく、そのうちの一つの店に猪突猛進だ。

「そんな急がんでも鰻は逃げんって……どないした?」

 苦笑しながらそう声を掛けた優利だが、智夏の様子がおかしいことに気付く。彼女は店のメニュー表を拡大した看板の前に立ち、がっくりと肩を落としている。そしてそのままの姿勢で、後ろに立った優利を力なく振り返って言った。

「……鰻ってこんな高いん? いや、もちろん高いんは想像してたけど、予想以上のお値段やったからさ……」

「……あー」

 メニュー表を見て優利も納得した。ここにある店の鰻は、そこいらに溢れるチェーン店等の鰻とは違う。厚さも量もさることながら、そのお値段も然りだった。それでも優利からしたら安い方だと思ったが。きっと彼女は牛丼屋や和食チェーン店の値段の延長で想像していたのだろう。

「……えーっと」

「俺が食う分は自分で払うから、とりあえず鰻食おうや。その代わり食後の甘いもん奢ってや」

「……ごめん。任された!」

 智夏に両手で思いっきり拝まれたものだから、優利は店の前だということも忘れて大声で笑った。










「あー、やっぱ値段だけあるよなー。めっちゃ美味かった」

 店の前での情けない顔等一切忘れたような感想の智夏に、優利はまた店前で笑わされることになった。

「誰のせいで割り勘なったと思ってるねん? ここって有名なソフトクリーム売ってるらしいやん? 楽しみやわー」

 少し意地悪でそう言ってやると、案の定彼女はまた両手をバシンと合わせて謝って来た。腹も膨れた状況では優利もこれ以上意地悪な気持ちも起きないので、その活発そうな頭をガシガシと撫でてやる。

 優利の手つきでからかわれたのだと智夏も悟ったのだろう、明るい笑顔で駐車場とは反対側を指差した。

「せっかくやし浜名湖、見て行かん?」

 彼女の指差すその先には、緑に輝く芝生の先に、浜名湖の湖畔が広がっていた。少し傾き始めた陽射しに、穏やかな湖面が照らされている。湖と言えば琵琶湖な優利達だが、この湖もまた違う魅力を感じさせた。遊覧船でのクルージングもあるとネットの情報には書いてあったが、確かに気持ちが良さそうだ。

 手入れの行き届いた芝生の上には足を踏み入れずに、二人で湖畔に近づく道を歩く。駐車場と同じく中途半端なこの時間には、人影はまばらだ。

「エエ景色やな」

「ほんまにな……穏やかな、エエ空気や」

 思わず零れたその言葉に、隣で智夏も静かに同意する。カメラを忘れたことが本当に悔やまれるが、それでもこの時間を、この空気を二人で感じることが出来たのは、きっと大切な宝物になる気がした。

 湖からの風は穏やかに、二人を撫でて、そして抜ける。

 沈黙が――これ程までに愛おしい。

 ふいに心に湧いた感情に、優利は慌ててその考えを振り払おうとする。

 沈黙。

 二人が歩く足音だけが、この空間を包んでいるようだ。何も言葉を発しないこの時に、心が穏やかに溶けていく。

 自然に二人で横に並んで、不自然に触れ合わない手が、なんだかもどかしく感じた。

 身長の違う二人だが、歩幅はいつも同じだった。

 これまでは……

 これからは……?

「なあ! 鐘みたいなもんあるで? なんやろ?」

 隣からのその声に、優利の意識は現実に戻った。足は自然に彼女の隣を歩いていて、その彼女は湖畔を見渡す展望台のような場所の一角に、何かの建造物を発見したようだ。

 それは簡略化された教会の鐘のような形をしていて――なんだか似たようなものをどこかで見たような気がする。

 その鐘の前に、説明文の書かれた看板があった。

「……あー、恋人の聖地か。マジでどこにでもあんな」

 看板に書かれていた文字は『恋人の聖地』で。その言葉になんだかどっと身体の力が抜けた優利は、溜め息を一つついてから、智夏に「誰もいいひんからちょうどエエし、そこで写真撮ったるわ」と言ってスマホのカメラアプリを起動する。

「りょーかーい。さすがに彼氏とじゃないと一緒には撮れんしなー」

 ゲラゲラと笑う彼女にポーズを取らせて、シャッターボタンを押す。

 撮れた写真には愛おしい彼女と、その上に今日の日付の情報が浮かんでいる。

「せやなー。さすがに彼氏じゃないと一緒には映れんなー」

――いつか映ったる……か。

 覚悟しとけやと口には出さずに優利は笑うと、そのままスマホを湖面に向けた。展望スペースになっている舞台の柵に身体を預けながら、煌めく湖畔に向かってシャッターを切る。カシャという音と共に、振動音が小さく響いた。

「……寄り道も、して良かったやろ?」

 智夏が優利の隣に寄り掛かる。湖面はもう堪能したのか、彼女は柵に背を預けてその悪い笑みを優利に向けている。きっと振動音に苦笑しているのだろう。

――まさか寄り道だと思ってたものが、目的地になるなんてな。

 もう、そんな顔させねえからと、優利は心に誓ってスマホを少し操作してから、愛しい彼女の手を取って愛車に向かうのだった。






 寄り道だと思ってたところが実は目的地になってしまった優利だが、もちろん当初からの『目的地』にも入れなかった。

 目的地が浜名湖よりもっと先の深海水族館ということは、到着時間も更に遅くなるということで。

 目的地に着いた時にはもう、深海水族館の入場時間は過ぎていた。そのため優利達は漁港の海鮮を夕飯としてまだ満腹に近い腹に捩じ込み、そのまま帰って来る羽目になったのだった。

 それでも車内には笑い声が絶えず、優利にとってこのドライブは自身の心に本当の愛が芽生えた、そんな思い出深い出来事となるのだった。

 その次の日、振動音の送り主に別れ話を切り出して、これまた思い出深い一日を送ることになるのは、また別のお話。






 END

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恋人の聖地に寄り道したら、目的地の水族館に入れなかった話 けい @kei-tunagari

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