吐き出せない苦しさは、背中をトントンして出した方が良い。

 朝起きて、まず最初に思ったのは、熱っぽいなということだった。体温計を探して家の中を歩き回ってみても、数年前に壊れて以来買い替えていないことを思い出してあきらめた。


「どうしました?顔赤いですよ。」

「ああ、やっぱりわかっちゃう?まぁ、マスクすれば誤魔化せるかな。」


 味のしない朝食をモソモソと食べていると、不意に悠の手が額に押し付けられる。いつもなら暖かいと喜ぶところだが、頭痛と倦怠感のせいで彼女の感覚が伝わらない。存在すらあやふやになってしまう彼女の手を握り返すと、少し悲しそうな眼をしてため息をついた。


「休んでくださいってお願いしても、休んでくれませんよね。」

「社会人ならこのくらい平気だよ。それに、期日が近い仕事があるからな。」


 今日は陰山が得意先に行っていないということなので、彼の分の仕事を一部引き受けなくてはならない。そうなると、俺が休んだ時に困るのは陰山だ。


「くれぐれも気を付けてくださいよ!!限界だと思ったら無理しなくていいんですからね。」

「大丈夫。一日ぐらい平気だよ。」


 いつもより重い足取りだが、あそこまで悠に心配をかけたとなると、多少無理をしたくなってしまう。あの娘の前ではきちんとした社会人でありたいのだ。


「虹村!!お前ちょっとこっち来い!!!」


 出社してすぐに響く部長の罵声。

 普段ならば何とも思わないのだが、今日に限っては頭に響いてつらい。若干顔をゆがめながら向かうと、数枚の書類を投げつけられた。


「なんだその不貞腐れた顔は。お前俺を馬鹿にしてんのか?」

「いえ、そういうわけではありません。すみませんでした。」


 もし仮に体調が悪いと告げたら、「体調管理は社会人の基本で……」と非合理的なお説教が始まるだろう。そしてその言葉は俺の体を心配してのことではなく、ただの嫌味である。


「ああ、あとこの案件もやっとけ。」

「……部長、それはさすがに多すぎじゃないですか。虹村は古村商事の案件も背負ってるんですよ?」

「うるせえな!!部長補佐が口答えしてんじゃねえよ。それとも、もう一回飛ぶか?」


 新たに投げられた仕事に花寺が突っかかったが、部長の首を切るしぐさに黙ってしまう。彼女がこの部署に来たのは大量の仕事を投げられた陰山をかばったからだ。その時はぎりぎり見逃されたが、確実に次はないと分かる。


 もしこれ以上何か言うようだったら、さすがに止めるつもりだ。


 しばらく部長とにらみ合った後、「差し出がましいことを言ってしまいました。すみません。」と頭を下げて自分のデスクに戻った。そう、それでいい。


「虹村すまん……。」

「お前な、発言には気をつけろよ。俺のカバーなんて今更なんだからやめておけ。」

「本当にごめん。埋め合わせはいつか必ず…。」

「ああ、今度飯おごりな。」


 体にのしかかる倦怠感に耐えながら仕事を進める。風邪気味の体にパソコンの光は応えるようで、いつも以上に目がチカチカしてやまない。昼食を何とか胃に収めたまではいいが、ぐちゃぐちゃと混ざり合って吐き気も催してくる。


 やっと仕事が終わって帰路につくも、たった一日ながら疲労感はマックスで、ずるずると足を引きずるようにして暗い夜道を歩いていた。

 定時に会社を出たはずが、一時間残業した時よりも遅い帰り時間に悠が心配そうな顔を浮かべる。


「大丈夫ですか?ご飯食べられます?」

「今日の……ご飯、何?」


 ああ、だめだ。彼女の顔がぼやける。作ってくれたおかゆの味がわからない。

 俺は今、どこにいるのだろうか。


「吐きそう…。たす…けて…。」


「量さん!?量さん!!」


 悠の肩を借りながらなんとかトイレまで向かう。便器に顔を突っ込んですぐに先ほど食べたものすべて吐き出してしまう。吐しゃ物で窒息してしまいそうになりながら、全身に回る苦痛を耐える。

 汗が吹き出し、体の中心が暑い。けれど、指先の血色は薄くなっていき、手足が震え始めた。


「量さん。大丈夫ですからねー。一回全部はいて楽になりましょうか。」


 せき込む俺の背をさすりながら、やさしく俺の手を握ってくれる。

 彼女の献身が身に染みて、とても暖かくて、一切の不安なんてものが吹き飛んでいった。


 吐き気が収まってリビングに戻る。食べかけのおかゆが残っているが食事を続ける気にならず、彼女の手をつないだまま自分の寝室に向かった。


「シャツ、汚れちゃってますね。着替えちゃいましょうか。」

「……うん。」


 朦朧とした意識の中、悠が誘導するままに体を動かす。着替え終えてベッドに座らせられると、正面からハグをされた。


「つらいですよね。苦しいですよね。逃げてもいいんですよ?それとも、一緒逃げますか?」


 一定のリズムで背中をたたかれ、吐き出しきれない苦しさが零れていく。彼女の魅力的な低アインに思わず飛びつきたくなるが、俺は大人だ。いくら悠に甘えても、逃げることは許されない。


「俺は……逃げられないから。そばにいてほしい。」

「……いいですよ。でも、逃げるときは、私も連れて行ってくださいよ?」


 頭を抱かれながら耳元でささやく。

 素直に返事をすると、かすかにほほ笑んだ後、俺の額にキスをした。


……to be continued

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