風吹く展望台から 明日へと向かう君へ

如月 兎

風吹く展望台から 明日へと向かう君へ

 「お前ら、分かってるな。この夏休みが勝負だぞ」


担任が他人事のように放った言葉が、一夜明けてもまだ頭に鈍く残っている。とうとうこの時期がやってきたのだ。七月も半ばに入ったある土曜日の朝、高校三年生の新太はこの事実から逃げるように家を飛び出した。友人の友介を誘い、二人で延々と自転車をこぐ。


 「暑いな。今日はどこ向かう?海か、山か」


 友介は相変わらず低いテンションのまま、新太の斜め少し後ろを走っている。


 「うーん、じゃあ山!あそこ行こうぜ!秘密基地!」


 新太はとっさに思い浮かんだ場所に行き先を定め、ハンドルを大きく切った。行く道のまだ随分と遠く、いくつも連なる深緑の山々を目指して。


 「風の城か。かなり遠いってのに、お前も好きだな」


 友介がフッと笑う。あきれたような、それでも嫌味は一切ない。


 「遠いからいいんだよ!特に今日は。うん、今はとにかく遠くに行きたい気分だ」


 からっとした青空の下、すでに熱を帯び始めているアスファルトの上、青い稲のさんざめく田んぼに囲まれながら、新太は勢いよく自転車を走らせた。ペダルを踏み込むたびに、胸に熱いものがこみ上げてくる。進路希望とか受験とかいう言葉は去年から聞いていたし、それなりに勉強もやってきた。だけど新太にはそれが、どこか自分とは遠い存在のようにしか感じられず、また、そうであってほしいとどこかで願っていた。ずっとこのままでいたい。どこにも行きたくない。心から切に願うほどに、新太にとってこの高校生活はかけがえのないほどに眩しく、幸せな時間だった。


 「程々にしろよな。俺たちはもう受験生だ」


 少年のように叫ぶ新太を横目に見ながら、友介はまたフッと笑った。友介は冷静だった。彼は、いや彼に限らず大抵の同級生たちは自分の今の状況をちゃんと受け止めて、必死に未来へ進もうとしている。それがまた新太には苦痛だった。新太と同じ部活で、バカみたいな話ばかりしていた友人たちだって、各々に進路を決め始めており、なんとか大学やら、なんとか専門学校といったワードがやや頻繁に日常会話に紛れ込むようになっていた。そしてその異物が耳に入ってくるたびに、新太は顔にこそ出さずとも憂鬱な気分になるのであった。


「分かってるよ」


 新太は小さくそう呟きながら、一層ペダルを強くこいだ。友介もスピードを上げ、その後に続く。車輪の回る音が、一斉に揺れる稲穂のさざめきに心地よく調和して響いていた。


 「でも、今のままがいい!!」


 開き直ったようにさっきとは真逆の大きな声で新太は叫んだ。それからまた、二人は心地いい音楽に抱かれながら鮮やかな田園の田舎道を駆け抜けていくのだった。


  しばらくして二人は田園風景を越え、大通りに出た。この道路を真っすぐ進んでいけば、いずれまだ遠くに見える山々まで辿り着ける。いくつもの車が行き交う道の端を、新太と友介は一列になって進み続ける。途中、コンビニに寄り、飲み物を買う。ついでに少し休憩することにした。


 「にしても、あと一年で俺らも卒業かー。ほんと、あっという間だったよなー」


 コンビニの壁に背中をもたれ、麦茶をゴクゴクと飲みながら新太が言う。


 「正確にはあと八ヶ月な。まあ、あっという間だったってのは同感だ」


 友介が炭酸ジュースを片手に冷静に言葉を返す。


 「相変わらず細かいな笑。別にいいけどさ」


 少しの間を置いて、新太が続けて話し始める。


 「まあ、それなりにいい高校生活だったよな。自転車で色んなとこ遊びに行って、たまに砂浜で自転車走らせてみたり、マウンテンバイクでもねえのに山のひどいじゃり道を走ってみたり。お前の自転車が山の中腹でパンクしたときはさすがに絶望したぜ」


 「あったな、そんなこと笑。結局、二人で長い下り坂を手で押して帰るはめになって、まあ新太にとってはとんだ災難だったな」


 「何度友介を置いて先に帰ろうと思ったことか・・・なんて冗談、冗談笑。いい運動にもなったし、いい思い出にもなった」


 「そう言ってくれると俺も助かる。そうか、こんな日常もあと一年で終わりか」


 「おいおい、あと九ヶ月、だろ笑」


 心の底から滲み出てくる憂鬱を掻き消すように、新太は大きな声を出して笑った。友介もつられて少し笑い、それからまた、二人は黙って手に持っているペットボトルを口に運んだ。


・・・


 「もうすぐだな!」


 コンビニを出発してから一時間ほどが経ち、道はだいぶ細くなっていた。すでに山の地形に入り、木々が道路の脇を覆っている。しばらくして左側に脇道が現れた。そこを曲がり、坂道を駆け上る。荒い息遣い、滴る汗、夏の匂い。今この一瞬が新太にはたまらなく愛おしかった。そして、悲しかった。すべてが過ぎ去っていく。遠い過去に変わっていく。それが分かっていながら、抗えない自分がどうしようもなく悲しかった。

 坂道を登り切り、二人は広く平らな場所にでた。低い山に囲まれて、畑や水田が延々と広がり、昔ながらの大きな家が点々と建っている。平らな土の道を、二人は並んで走った。新太はほぼ真上に向かって、ゆっくりと顔を上げた。そこには濃淡の入り混じった厚く大きな雲が、視界いっぱいにゆったりと流れており、その隙間からは青い青い空が優しく顔をのぞかせていた。


 「なあ、新太はさ、進路とかもう決めてんの?」


 ふいに友介が口を開いた。感情をさとられないよう、平静を装って返事を返す。


 「いやー、全然。別にやりたいこともないし、なりたいものがあるわけでもないしな笑。そういう裕太は?」


 「俺もそんな大層な目標なんか持ってねーよ。まあ、とりあえず国公立大学入っておこうぐらいかな。国公立なら金銭的にも親にそんな迷惑かからんだろうし、就職先も広がるだろ」


 「そんなもんか。俺は別に短大でも専門でも、なんなら就職でもなんでもいいけどな。てか、やっぱお前もちゃんと考えてるんだな」


 「ちゃんとって程じゃねえよ笑。でも、夢とかあるならともかく、なんの指針もねえ状態で路頭に迷うのは嫌だなって、ただそれだけだ」


 「夢」という単語に、ふと昔の情景がよぎった。母親の運転する車の中、後部座席で何か熱く語っていたような・・・。未来に対する情熱。それが今の自分にはない。今しか見ていないんだ。今この瞬間を全力で楽しんでいるんだ。それはきっとすごく大事なことで、でも、その「今」には必ず終わりが来て、そしたら俺は一体どうしたら・・・


 「どこにも、行きたくねえな」


 新太の口からポロリと言葉が漏れた。友介は聞こえなかったのか、その言葉に返答はせず、ただ、もう着くぞ、と静かに言った。気づけば目の前には、風の城へと続く比較的幅の広い坂道があった。

 坂道をなんとか登りきり、駐車場の端に自転車を止める。ここから山頂までは階段が整備されていて、新太と友介は少し休憩を挟んでから、階段を上り始めた。歩みを止めることなく、一歩ずつ。光る大粒の汗を、いくつも落としながら。

 十分ほどで二人はついに山頂へと辿り着いた。目の前には堂々と設置された風の城がある。銀の輝きを放つその変わった姿は、城というよりも新太の呼ぶ「秘密基地」という雰囲気に近かった。新太が初めてここを訪れた時に友介とこの話をした時は、かつてここに本物の城があったからそんな名前にしたんだろうという結論に落ち着いたが、新太はやはり腑に落ちず、勝手に秘密基地と名付けたのだった。


それからもう、それはもうあっという間に二年あまりが過ぎ去っていた。


 友介は、いや友介だけじゃない、他の同級生たちはこの事実を当たり前のように受け入れているんだろうか。俺だけが未練がましく、この終わりゆく今にしがみついているだけなんだろうか。


 そう思うと新太はどうしても自分だけが取り残されているような、そんな孤独を感じずにはいられなかった。


「行こうぜ」


 友介はそう言ってまた歩き出した。新太も後ろからついていく。二人は展望台に登り、並んで風に吹かれた。柵に手をかけ、広い田園風景を、その奥に見える故郷の町並みを、そして遥か遠くの海までを漫然と見渡す。新太はその果てを見据えようとしたが、遠くになればなるほど、世界は白飛びしたように色を無くし、新太にとってそこは、想像すら寄せ付けない超常の世界のようにも感じられた。


 「いやー、やっぱこの景色は最高だよな!ほんと、どれだけでも見てられるぜ!」


 分かってる。いつまでもここにいられるわけじゃない。でも、その当たり前の事実を、この心がまだ、受け入れられていない。


 「ここ前に来たの去年だったよな。いやー変わらんな、ここも、ここから見える景色も」


 俺も、変わりたくねえな・・・


 「変わったよ」


 友介の唐突の一言に、新太はハッと横を見た。隣に立つ彼は、相変わらず柵の向こうをじっと見つめている。そして少しの沈黙の後、静かに言葉を続けた。


 「目で見るだけじゃあ分からないかもしれない。でもな、生い茂る草木も、空に浮かぶ雲も、ここから眺める景色だって、本当はあの日とは違うんだ。ここから見渡す全ては、絶えず変わってるんだよ。・・・変わってくんだよ」


 「・・・それでも、それでも!、俺は・・」


 「なあ、新太。俺たちは今、すっごく幸せな場所にいるんだよ。幼い子供みたいに管理されることも、大人みたいに義務やら責任に押しつぶされることもない。まさに理想郷だ。その上、家族や学校にも恵まれた」


 「それももう終わるから、駄々こねてないで受け入れろって言いたいんだろ。頭では、分かってる・・・」


 「いんや、半分合ってるけど半分違う」


 「え?」


 「仮に、受験とか、就職とか、大人とか、そういう未来全部全部切り捨てて、今の環境のまんま、永遠に高校生活送れるとしたらどうだ?」


 「そんなの、最高に決まって・・」


 「でも、きっと窮屈だ」


 「・・!!」


 「どんなに居心地のいい場所でも、ずっと変わらない生活を送っていたらそのうち窮屈になる。そんで、新しい場所に行ってみたくなるんだ。少なくともお前はそういうやつだろ。お前はいつだって遠くに行こうとしていた。新しいことに挑戦しようとしていた。ここじゃないどこかを、もっと明るくて楽しい場所を目指していた」



 遠い昔の記憶。小さな車の中でまだ幼き少年は、運転席の母に向かって声高らかに叫んだ。

 「俺、ギムキョウイク終わったら旅に出る!世界を見に行くんぜ!」



 「・・・俺には、見通せない。受験してその先に何があるのかとか、就職した後の人生とか」


 「見通せないなら思い描けばいい。常識とか現実とか全部無視した、お前だけの理想を」


 友介は新太の方を見てニッと笑った。友介にしては珍しい、いい笑顔だった。


 「これでも認めてるんだぜ、お前の行動力」


 爽やかな山風が、優しく二人の体を吹き抜けていく。

 新太は少し顔を下げ、小さく笑った。それからもう一度顔を上げ、眼下に広がる富山平野を眺めた。やはり、その果ては見えない。でも、もう不安はなかった。だってそれは、自分で思い描くものだから。


 「もっと、楽しい毎日になるかな」


 「なるさ、きっと」


 風の吹く銀の展望台に、少し軽くなった二つの足音が響いた。

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