第五夜

第17話 消失

 十月の半ばというのにこの一週間、ずっと雨が降り続けていた。別に雨が嫌いなわけじゃないけれど、登下校で鞄は濡れるし、クラスの空気も重たくなるし、そういう面で早く上がってほしい。


 放課後に残って勉強するのも飽きたが、この雨の中帰るのも面倒くさくて、ただ窓の外の雨を眺める。


「昴介、俺帰るから。じゃあな、また明日」


 目の前の席の魚沼がそう言って鞄を持つ。俺もそれに「おう」と軽く手を上げ、ついでに伸びをしてみた。


 辺りを見回すと、教室に残っている四人のうち廊下側の席の二人も帰り支度を始めており、荷物をまとめ終えるとすぐに出て行ってしまった。これでまだ教室にいるのは、二人。俺と琴だけだ。


 二つ前の席に座る琴の背中に向かって俺は話しかける。


「琴はまだ帰らないのか」

「私はもう少しだけ勉強してから」

「勉強って、どうせ本読んでるんだろ」

「まあね」

「やっぱりな」

「別にいいでしょ。そういう昴介こそ帰らないの?」

「なんか面倒くさい」

「私も同じ」


 俺は席を立ち、琴の前の席の椅子を出して、琴の方を向いて座る。


「何読んでるんだ?」


 表紙を覗き込むと、『七夕物語』と書かれていた。俺たちが文化祭の劇でやったアレだ。


「またそれかよ」

「この話、本当に好きなんだよ。すごく織姫に感情移入しちゃう」

「別に織姫に似た境遇ってわけでもないじゃんか。俺たちは毎日会えてるし」


 そういうのじゃないんだよと琴は笑いながら本を閉じ、俺の顔をまじまじと見てくる。


「私さ、昴介と会えて幸せだよ」

「何だよ、突然」

「ちょっとね」


 と、今度は机にうつぶせになる。


 いつもとは違う琴の様子に俺は違和感を覚えた。


「何かあったのか?」


 俺は琴の頭を撫でながら、優しく訊いた。しかし、琴は何も言わない。


 教室の明かりがまぶしく感じ、俺は蛍光灯のスイッチをオフにして、琴の前の席に座る。


 暗くなったことで、体の感覚が研ぎ澄まされる。雨音がさっきよりも大きく聞こえるし、雨の匂いもわかるようになった。


「私たちもさ、いつか彦星と織姫みたいになってしまうのかなって思うと、なんか気持ちが暗くなっちゃってさ」


 彼女がそんなことを思っていたなんて考えもしなかった。


「俺はずっと琴と一緒にいるよ。絶対に離れたりなんてしない」

「私もそうしたい」


 彼女は体を起こすと、「あのね」と話を続けた。


「他にも聞いてほしい話があるんだけど」

「何? 話してみなよ」


 俺は椅子に跨るようにして座りなおす。


「私、実はお母さんが病気でさ。結構状態も悪くて。それなのに私だけこんな風に幸せでいいのかな、って時々不安になる。家に帰ったら、気性の荒い父さんがいて、なるべく帰りたくない。だから、余計に外で過ごして、もっと楽しい生活になってしまう。私、こんな人でいいのかな」


 彼女の顔が窓に反射して映っている。上から下へ流れていく雨の水は、琴が涙を流しているようにも見えた。


「いいアドバイスとか、上手いことが言えるわけじゃないんだけど」


 俺は丁寧に言葉を選ぶ。


「俺さ、両親がいないんだ。父親は事故で死んだらしくて、母親も俺が生まれてすぐに失踪したんだと。だから、親のことってよくわからないけど、親がいるっていることはすごく幸せなことなんだと思う。どんな人柄かは別として。もちろん、それは琴が楽しんじゃいけない理由には絶対にならない。自分の幸せは自由に願っていいし、追求すべきだよ。でも、親のことを忘れちゃいけない。俺も今日まで育ててくれた叔父さんにとても感謝してる。親への気持ちが心の中にちゃんとあるなら、琴は今のままでいいんじゃないか」


 だんだん自分でも何を言っているのかわからなくなってくる。しかし、琴には届いたようだった。


「ありがとう」


 と、琴は背中を伸ばす。


「やっぱり雨は嫌だね。気分が最低になっちゃう。変な話してごめんね」

「むしろ、ちゃんと話してくれて嬉しいよ。まあ、雨ってそんなものだし」

「やっぱり、雨はそうなの?」

「そうだよ。俺だって嫌な気持ちになることがある。日頃の不安が、雨のせいで大きくなるんだよ」

「昴介でもそんなことあるんだ」


 俺を何だと思ってるんだよ、と声に出して笑う。


「琴に会うまでは、俺って何で生きてるんだろうとか、勉強なんかしたっていつか死んでしまうのになとか、毎日楽しみを見い出せずに生きてた。すごく息苦しかったんだ。一生懸命に毎日を生きていたら気づいたら死んでしまいそうで、頑張ることができない。でも、琴に会えてから生きやすくなった。世界が変わったわけじゃないけど、琴は俺に夢のような世界を見せてくれる。ありがとうな」


 実際に口にしてみると、とても恥ずかしい。でも、こういう普段言えないようなこともたまには言わないとな、と思った。今の流れなら言いやすかったし。


「もう!」


 頬を染める琴が俺の左肩を叩いてくる。


「私もだよ」


 俺は琴の背中に手を回し、机越しにこちらへ抱き寄せる。


 こんなことをするのは琴が初めてだった。


 琴の体温が制服越しにこちらまで伝わってくる。


「昴介、あったかい」

「外が寒いからそう感じるだけだよ」


 椅子に座ったままずっとハグとも言えないような微妙な体勢を続けていると、


「おいそこー。そんなの学校でするな。勉強しないなら早く帰れ」


 と、担任が入ってくる。


「はい、すみません」


 すぐに体を琴から離し、お互い顔を見合わせると、なぜだか笑えてきた。

「帰ろうか」


 俺がそう言うと、


「そうだね」


 と琴は答え、俺たちは学校を出た。


 これを機に俺たちの仲はさらに深まった。


 お互いのことをもっと知ろうとして、色々なところへ行った。


 その年の冬のクリスマスも一緒に過ごし、町にあるのケンタッキーに入って二人で箱一杯のチキンを食べた。食べきれなくて一本残してしまった。


 春には山の方へ行き、川に入った。別に水着を着て泳ぐ、とかそういうのはなくて、足だけ冷たい水の中に浸けて、保冷バックに入れていた冷たい缶コーラで乾杯をした。


 雨が降った七夕の日には少し町を出て、隣町の大きなショッピングモールに行った。朝から映画を二本見て、お揃いの服を買って。一緒に「いつまでも二人でいたいです」と七夕の願いごとをした。付き合あって一年となる日も近づいていたので、そのときのプレゼントのためにお揃いのミサンガもこっそり購入していた。


 とにかく楽しかった。琴と一緒に過ごす時間が、今まで生きてきた時間の何十倍も、何百倍も密度が濃かった。まるで今まで空っぽだった分を補うように。


 ショッピングモールからの帰り、次は月末の花火大会だね、と約束をした。


 けど、その次が来ることはなかった。


 電車を降りて、いつも学校から帰るときに通る道を二人で歩く。


 雲のせいで夏にしては薄暗い午後七時。


「昴介」


 突然、琴が立ち止まる。


「どうかした?」


 俺を見る琴の目が潤んでいた。何かしただろうか、と俺は一日を振り返る。しかし、何も思い当たることがない。


「琴、どうしたんだよ」


 荷物を地面に置いた琴は、公道であるにも関わらず俺を力強く抱きしめてきた。教室のときとは違う、確かな抱擁だった。


「ありがとう」


 俺はただ両腕を琴の背中に回すだけで何も言えなかった。


 琴のその言葉の意図がわからなかったのだ。今まではそんなことなかったのに。琴のことは何でもわかると思っていたが故に、すごく衝撃的だった。


「ごめん、私、今日はこっちから帰るね」


 俺から離れた琴は、隠すように涙を手の甲で拭く。そして、すぐさま横断歩道を渡って、向こう側の路地へ消えていった。

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