第38話 百年戦争の終結
かろん。
いつものカウベルが「夜に鳴く鶏亭」に響く。
だが、それをハルは店内ではなく入り口の外で聞いていた。
どうする。どう言葉をかける。
いつも通り「よ」か、いやいや、女性にかける言葉としてそれはどうなんだ。かと言って「今日もきれいだね」とか気障ったらしい言葉は言えないぞ、なら「こんばんは」とかか、それも他人行儀じゃないか、何かこうちょうど良い言葉はないものか。
アルノが男装を止めたことは聞いている。無意識に精神魔法をかけていたこともわかっている。そしてそれを受け入れたという時点で、自分がアルノをどう思っているかも自覚できている。
問題は、アルノがなぜそうしたのかを本人の口から聞いていないことだ。
拗らせた素人童貞であるハルには、本人以外からの情報で女性の気持ちを忖度するというのはレベルが高すぎて対応を決めかねる。かと言って自分の気持ちのままに突っ走ると、引かれてしまうのではないかという恐怖心がある。
恋愛経験のなさが、齢九十歳近いおっさんを面倒臭い思春期みたいにしていた。
「いやだってしょうがねぇじゃんよ……」
かろん。
また一人あの世界に引き込まれていく客を見送りながら、思わず呟く。
夕闇の妖族の街は街灯で明るく、短い滞在制限を楽しもうという人族や魔族が行き交い賑やかだ。
中には夫婦や恋人同士で呼び込まれた幸運な連中もいる。手を繋いだり腕を組んだり、相手がいるだけでも幸福絶頂なのに加えて、妖族の街に二人で来るという誰もが羨む幸運に恵まれた彼らを見ていると、そう言えば商売女以外とああやってくっついたこともなかったな、と日々に追い立てられていた自分が情けなくなってくる。
いったい、六十年もこの世界で何をやってきたのか。
常識も教養も技能も金も人脈も、服すらない状態で放り出され。
草やら木の実やらを食いつないで街道に出て、初めてみつけた人族であるヴェセルに拾われ。
意思疎通すら怪しい状態だったのを、武装した王国軍偵察小隊に何とか身振り手振りで害意がなく言語不通であることを伝え。
言葉を学びながらヴェセルに師事し、隊の雑用をこなしつつ知識と技術を習得。
五年ほどで何とかこの世界の成人と同じ水準に達したところで、ヴェセルからこの先の選択肢を突きつけられた。当たり前だ、素性も知れない異界人、それも召喚に成功したと報告のあったダルビニエキとか言う勇者であるならともかく、妙な能力しか持たない人間を養う義務は彼にも王国にもない。
だから市井にて自力で生きていくか、軍人として国に貢献するか、その選択は必須だったのだ。
迷うことなく軍人を選んだ彼を、ヴェセル……当時は金髪も豊かな平民にしては整った容姿の小隊長であった彼は驚いた目をしたが、ハルからしてみればいくら知識と言語を身につけたからと言って駐屯以外で接触のない市井に放り出されても生きていける自信はなかった。それに、五年にも渡る彼のこの世界におけるモラトリアムの間、身の回りの必需品から食費など全てをヴェセルが自分の財布から出してくれていたことを知っている。
その恩くらいは、自分の能力で返せるだろうと思ったのだ。
それからは能力を存分に発揮して戦場で過ごした。
いつしかヴェセルを抜いて中隊長となり、今まで上だったヴェセルが副官となり。王城でのカノ王女への教導でいっとき離れたものの、五十年もの間ずっとアルノとの戦いに明け暮れた。
正式に軍属になったはじめの五年ちょっとは別の戦線にいたが、平定した後に勇者軍参謀として激戦のセーガル河戦域でアルノと対峙するようになってからは、それこそ全身全霊を掛けて当たらなければならないほどの強敵に苦しめられることになる。
常に武技を磨き、戦術を駆使し、情報を集め分析し、自軍の最大効率を図る。日々そればかりを考え一進一退の攻防を繰り広げていたある日、自室から足を踏み出したら妖族の街の入り口に立っていた。
呆然としながら街の入り口と衛士を見ていたら、隣に人の気配を感じた。目線をやると、その昼まで殺し合いをしていたアルノが立っていたことに驚く。向こうも同じだったようで、だが少なくとも妖族のことを知っていたからか、促されて街に足を踏み入れる。
花が咲き鳥が鳴き、街の中央広場で輝く噴水は柔らかな陽光にきらめく。石畳の道にはゴミひとつ落ちていない。臙脂や青の屋根に深く落ち着いた濃茶の木目を活かした木と石または漆喰の白い壁、街路に瑞々しく枝葉を広げる銀杏や楓が美しいコントラストを成す。
まさしくエデン。
お互いに、次に目の前に現れたら必ず殺す、と誓っていた相手と連れ立って歩く不思議さに何の疑問も持たず、目についた店に入って何となく食事と酒を楽しんでいる内にぽつりぽつりと話すようになっていた。
通常であれば連続した三日のみという滞在制限があるその街から、戦いがあるからとその日のうちに市門を出た二人は、なぜか翌日もその場所でお互いの顔を見合わせることになった。その時にはもう笑うしかなく、「夜に鳴く鶏亭」で肩を抱き合って大騒ぎする関係になっていた。
五年近く過ごした初めての小隊にはこういった関係の戦友もいた。その後の南部戦線でも自分の隊員とはこんな関係だった。
だが、戦友ではなく敵の総大将とこんな関係になるとは思ってもみなかったハルである。しかもそれが、こんなにも心置きなく楽しめる、この世界に来て初めて自分が世界に存在する意義を感じられるような時を過ごせるとは。
ただの相性だったのかも知れない。
永久を共にする共感だったのかも知れない。
今まではわからなかったけれども、今となってははっきりとわかる。自分はアルノが好きだったのだと。
だから無意識に弾く自分への魔法を、アルノのものは受け入れたのだ。
後はもう、その気持ちを伝えるだけで良い。今更隠したり誤魔化したりするのはなしだ。それこそ思春期の一教生でもあるまいし、モラトリアムはとっくに終わっているのだから。
ただのクソガキだったカノ王女も、劣勢の融和派を率いて人族と魔族の在り方を変えようとしている。成功すれば歴史的偉業となるそれを、わずか十五の少女が成そうとしているのだ。それを支えるアリアもヴェセルも、そして魔族側から……こちらはその本心まではわからないけれどもカレンだって何かを成そうと動いている。
二百歳のアルノと九十歳のハルだけが、その永遠性に胡座をかいて何もしないなんて恥ずかしいだけではないか。
しかも彼らが成そうとしているような世界を変えることではなく、ただ自分の気持ちに沿うだけの簡単なお仕事だ。
そうだ、ただ正直に言えば良い。
何をどう言うかなんて瑣末なことだ。
よし、と気合を入れたハルの肩にポン、と小さな手の感触があった。
「何してるの、ハル」
「どわああっ?!あ、アルノ?」
思わずびくんとなってしまったハルが慌てて振り返ると、
「え、アルノ?いや……え?」
ハルの目に映るアルノは、確かにアルノだ。
最後にあった半年前より少し伸びた紅茶を思わせるような透き通った栗色の髪は、相変わらず細いのにふわりと柔らかく肩口にかかっている。真っ白な肌は今までのように陶器の冷たさではなく、薄っすらと頰に血の気が巡り、人族でも魔族でもあり得ないほど真っ赤な目と強いコントラストを成す。
転移か転生か知らないが、この世界に落とされる際に声しか聞いたことのない女神より、絶対に美しいと自信を持って言える造詣の最高峰がそこに立っていた。
「なによ。たった半年で見忘れたとでも?こんな絶世の美少女を?」
「ああいや、忘れる訳が……てお前、自分のことを絶世の美少女とか」
「間違っているかしら」
「あー、うん。間違ってはいないな、うん間違ってない」
改めて上から下まで見渡して深く頷く。
そう、まったく間違っていない。今まで美少年だと思っていたのが不思議なくらい、目の前に立つのは異次元の美少女だった。
何しろ、
「その、似合ってるなその格好も」
いつもの軍服ではない。黒地に襟や縫取りで朱を使った魔族司令官のそれではなく、立襟の白い半袖シャツの上から濃紺のワンピース、どこからどう見ても少女のそれだった。
「な、何よ気持ち悪いわね」
「うっせ」
睨み上げてくる赤い目から思わず視線を逸らすが、寸前に見えた肌は桃色に色づいていた。
そうだ、最大の違和感はそれだった。ただ白いだけでなく、血の気の通ったそれ。
そうか、とハルは気がつく。
自分だけではなかった。
アルノもまた緊張と覚悟を持ってここへ来たのだ。
だとしたら口火を切るのは自分でなければならない。
確かにアルノの方が人生の大先輩、倍以上生きている化物ではあるが、ここは譲れない男の矜持というものがある。
「くくっ」
「へ?何、どうしたの」
「いやいや、はははははっ」
合わせて三百年近く生きている化物が、初めて恋をした少年少女のように顔を見合わせて立っている。喜劇じみたその様子を客観的に見て思わず笑ってしまった。
「はっはっはっは、いやいやまったく、あはははは」
どうしようこいつ遂にイカれたか、とアルノは不安げに赤い目を瞬かせた。
しばらくして笑いを収めたハルは、がしがしと頭を掻いてアルノに向き直る。
「いやあ、まったく。お前ってほんと美少女だったんだな」
「今更気付いたのかしら、審美眼のない男ね」
「まったくだ。グゥの音も出ねぇよ」
肩を竦めて肯定すると、ぽん、と左手をアルノの頭に置く。
「愛してるぜアルノ。この先の永遠を一緒に生きてくれ」
ぼ、と物凄い勢いで顔に血が集まるのがわかる。
呼吸が浅くなってしまうほど、血の巡りがおかしい。
だが、これは待ちに待った言葉だ。じっと見つめてくるハルから、目線を逸らしたいけれども吸血鬼の意地として絶対に逸らさない。目を見て言うのだ。しっかりと。
「し……仕方にゃいわね」
噛んだ。
びっくりしたような目をしたハルが、笑いを堪える表情になる。
「……んぷっ!」
「な、何よ!」
「ぷっ……ぐ……か、噛んだ、お前この大事な場面で噛むとか……くくく、は、はっはっはっはっは!」
「わ、笑うなバカ!」
「いやだってお前、二百歳超えのババアのくせに、大事なところで噛むとか、わははははは!」
「うっさい!ババア言うなクソジジイ!」
「あ?ジジイじゃねぇし。お前に比べりゃガキだし」
「ならクソガキよクソガキ!」
「おお?調子に乗るなよクソババア」
「ああん?存在全て喰い尽くすわよクソガキ」
いつもの応酬が、カウンターではなく入り口で繰り広げられる。行き交う人々も、何事かと思わず足を止める。
だが照れ隠しのためなのか本気なのか、言い合う二人の目に野次馬は入っていなかった。
「やってもらおうじゃねぇか。喰い尽くせるものなら喰い尽くしてみろよ。ただし」
にやり、とアルノが戦場で飽きるほど見た悪い笑みを浮かべる。
「俺はもう覚悟決めたからな。お前のためなら世界を覆い尽くすほどの実在になってやる。この世界丸ごと喰い尽くすつもりで来い」
うわ、愛が重い。
いや、重いじゃなくてデカイだろ。
野次馬からそんな声が聞こえるが、やっぱり二人の耳には届いていなかった。
「だがその前に、お前の答えを聞いてからだ」
「ふぇ、な、何よ」
ハルの言葉に、熱病に浮かされたようにぽうっとなっていたアルノが身構える。
と、最強の単体種ですら躱せない素早さで引き寄せられ、
「ぐぇ」
「ぷっ、なんだその潰れたヒキガエルみたいな声」
「うううう、うるしゃい!ちょ、苦しいわよ」
ハルの胸あたりまでしかない小さな体が、くの字になるほど強く抱きしめられた。思わず発した抗議の声も噛んでしまったが、笑いながらもハルは更に力を込めてくる。
周りからは囃し立てる声がしているが、彼らにはBGMですらなかった。
「俺の存在すべてをお前にくれてやる。だからアルノ、お前の体も心も、血の一滴までも俺にくれ」
耳元で囁かれ、アルノは下腹部が熱くなるのを感じる。経験などないけれども、これは本能だろう。魔族としてではなく、もっと根源的なメスとしての。
欲情が暴走しているのがわかる。だが、嫌ではない。
だからアルノもその細い、とても人族どころか勇者すら両断してきたと思えない血に汚れた腕を伸ばし、ハルの背中にしがみつく。爪が食い込んでるかも知れない、そんな気遣いをする余裕もなく、人外の膂力で思い切り抱きしめるハルを、魔族の力で抱き返す。
「私も愛してるわ。だから」
「ハル、私をあなたのものにしなさい。そうしたらあなたを私のものにしてあげる」
その日初めて、二人は妖族の街で宿をとった。
それこそが、バカバカしくもあるが百年続いた戦争の終結の始まりとなった。
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