第34話.森の中の脱出劇
――ブリジットがその声を聞き取ったのは、偶然だった。
「きゃああっ」
年若い、恐らくは同年代の少女の悲鳴。
消え入りそうなそれは、森の奥深い方角から聞こえて……ブリジットは考える前に足を動かしていた。
木の根に埋まっていたのを掘り起こして見つけた、六つ目の魔石をリュックサックに仕舞いながら考える。
(試験の内容を考えれば、聞こえなかった振りをするのが賢いんだろうけど……)
ライバルが減るチャンスだ、とでも考えるほうが正しいのだろう。
だが人間に危害を加える精霊だって居ることを知っているからこそ、放ってはおけない。
「誰か居るのっ?」
大声で呼びかけながら、声のしたほうに向かって走るが返答はない。
思っていた以上に距離が離れているのだろうか? 分析しながら、声の主の痕跡を探す。
(足跡……は錯綜していて見分けられないわ。せめて精霊が出ていてくれたら……)
契約精霊ならば、何か他者に分かりやすい救援信号を送ってくれそうなのだが。
歯噛みしながら進んでいると、再び少女のものらしき悲鳴が聞こえてくる。
変わり映えのしない木々の合間に目を凝らしたブリジットは、そこで何やら白くて小さいものが宙を舞っているのに気がついた。
(あれは……)
その正体に気がつき、ブリジットは颯爽と走り出した。
「――いやあっ、ついてこないでくださいいっ!」
叫ぶ少女の目の前に飛び出したブリジットは、「止まって!」と叫んだ。
たたらを踏みながらも、なんとか少女が立ち止まる。
その足元には、肩を怒らせているヒゲを生やした小妖精の姿があったが、彼はブリジットには攻撃してこなかった。
「大丈夫よ、助けに来たわ。だから何があったか教えてくださる?」
ブリジットは努めて平静な口調で話しかける。
しかし双眸を泣き腫らしていた少女のほうは、ひどく驚いている様子で。
「ど、どうして……っ?」
「あなたの契約精霊……ブラウニーが背後に向かって、たくさん小石を投げてたでしょう? あれが目印になったのよ」
「……っっ」
ブンブン、と勢いよく首を横に振られる。
どうやら問いへの返事としては相応しくなかったようだが、今はそれどころではない。
「それで、何から逃げてるの? 後ろには誰も居ないように見えるけど」
「それが――あの、誰も居ないんですが、だ、誰かに尾けられているみたいなんです……っ」
そう切羽詰まった声で言いながら、ブリジットのクラスメイト――黒髪の少女・キーラが背後を振り返る。
ブリジットもつられて、その方向に目線を投げる。
だがキーラ自身が「誰も居ない」と言ったように、やはりそこには何もなく、ただ木々が不穏さを孕んでざわめいているだけだ。
「振り返って何度か確認したの?」
「は、はい。でも何度見ても、誰も居なくて……だ、だけど視線を感じたんです。本当です!」
信じてください、と長い前髪の合間からキーラがブリジットを見つめる。
もちろん、ブリジットもキーラが嘘を言っているとは思わない。彼女はひどく怯えているし、本来は大人しい性格のブラウニーが興奮していることからも、彼女に危機が迫っていたのは間違いないからだ。
ブリジットはしばし考え込んだ。
(もしかして……)
耳を貸して、というジェスチャーをすると、キーラは躊躇いながらも顔を近づけてくれた。
そっと、ブリジットは囁きかける。
「……キーラさん、服を脱いでくださる?」
「……えっ!?」
キーラが目をむく。
それから何故か泣き出しそうな顔になると。
「そ、それはやっぱりあのことを怒ってっ……?」
(あのこと?)
ブリジットにはキーラの言っていることがさっぱり分からない。
だが、ブリジットの予想通りだとすると、そういえば服だけでは済まないのだ。
「そうね、服だけじゃないわ。靴も脱いでくれる?」
「く、靴まで!? それはその、川とかに捨てるために……?」
「……? いえ、捨てないわよ。私も脱ぐし、ブラウニーにも脱いでもらったほうがいいかも」
「えええっ……?」
困惑しすぎたのか、キーラは口を半開きにして固まってしまった。
「脱ぐと言っても、前後ろを逆に着直して、靴は左右逆に履いてくれればいいのよ。できる?」
「え、えっと……わたし……」
「わたくしが先にやるから。信じてくれる?」
言いながら、少しブリジットは笑いたくなってしまう。
魔法学院きっての落ちこぼれ――"赤い妖精"と蔑まれるブリジットの発言なんて、いったいどこの誰が信じてくれるのだろう。
(でも、そうだわ。ユーリ様は信じてくれた……)
彼はいつも、ブリジットの言葉を疑ったりはしない。
からかったり、揶揄することはあっても、ブリジットが嘘を吐くことはないと知っているかのように振る舞うのだ。
それがどんなにか嬉しいことか、きっと彼は分かっていないだろうけど。
それに、ユーリだけではない。
ニバルや、他のクラスメイトたちも、ブリジットの――ブリジットの精霊のことを信じて、感謝してくれた。
そんな記憶がしっかりと刻まれているからこそ、ブリジットは躊躇いなく服に手を掛ける。
幸い、今日はドレス姿ではないのだ。侍女の手助けがなくても、服を着直すくらいはひとりでできる。
キーラは唖然として、恥じらいなくせっせと着替えるブリジットを見ていたが……やがて、おずおずと自身も服を脱ぎ始める。
それを見ていたブラウニーも、そっぽを向いてボロボロの服を着直している。
しばらく、不思議な無言の時間が続いて。
「…………よし」
全員の格好を確認し終えたブリジットは、キーラの右手をぎゅっと握った。
それだけで彼女の細い肩が、びくりと大きく跳ねる。
「あっ、あの……?」
「これからちょっと走りますわよ、キーラさん。ついてこれる?」
「……っは、はい!」
よろしい、とブリジットは頷いた。
そして一気に、キーラの手を引っ張って走り出す。
靴を左右逆に履いているので、とにかく走りにくいのだが……それでも速度は緩めない。
キーラは振り解かれないよう、懸命に足を動かしている。
少し弱々しい印象の少女だが、ガッツはあるようでブリジットは安堵した。
彼女の契約精霊であるブラウニーも少し遅れてついてきている。
そのまま、二人と一匹は走り続け……樹海のように深い森林を抜けたところで、ようやく立ち止まった。
手を離して振り返ると、キーラはぜえぜえと苦しげに肩で息をしている。
「お疲れ様。よく頑張りましたわね」
呼びかけて、ブリジットは荷物から取り出した水筒を差し出す。
キーラは切れ切れに感謝の言葉を口にしながら、水を一口飲んだ。
足元ではブラウニーが抗議するように飛び回っている。
ブリジットが視線でサインを出すと、キーラは少し離れた地面に水筒を置き、振り向かずに帰ってきた。
直接お礼や報酬を手渡してしまうと出て行ってしまう、というのがブラウニーの特性だからだろう。
小妖精はその水筒をそっと手に取ると、どこかに走って行ってしまった。
「あ、あの。それでブリジット様、どうして服や靴を……?」
「キーラさん、レーシーに狙われていたから」
服を直しながら答えると、キーラがぽかんとする。聞き覚えのない精霊名だったのだろう。
しかしブリジットもその正体に気がついたのは、キーラが「何度振り返っても誰も居ない」と口にしたからだった。
「人を森の中に彷徨わせる妖精よ。家に戻らない旅人の多くは、レーシーに目をつけられてしまったなんて言うくらい。服と靴を逆に身にまとうと、混乱してこちらを追ってこられなくなるの」
「ひぇ……」
我が身が危うかったと気がついたのだろう。キーラの顔色が蒼白になる。
実際にあのまま悲鳴を上げて手当たり次第に走り回っていたら、おそらくキーラを助け出すのは難しかっただろう。
(間に合って良かった……)
ふぅ、とブリジットが息を吐いたところで。
――ポツ、と水音がした。
「雨……」
空を見上げた頬がいくつもの水滴に濡れる。
森を走っていた間に、随分と時間が経っていたのだろうか。晴れていたはずの空はすっかり雨雲に覆われていた。
そうしている間にも大量の雨粒が頭上に降ってくる。
「あ、あの……っ」
雨宿りしなきゃと考えていると、キーラに服の袖を引かれた。
彼女の指し示す先で、ブラウニーがぴょんぴょんと陽気に跳ねていて――そのさらに先に、小さな洞窟が見えていた。
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