日常を忘れる手段
さて、少年時代を語る上で、欠かせない人物の話をしよう。
私がクラブチームに加入した時期と、さほど変わらないタイミングでやって来た新コーチだ。
このコーチというのが、かの有名な「※T高校」の黄金期を支えた
初めて対面したときは、その筋の人にしか見えないサングラスにアゴヒゲを生やしてるもんだから、ただ者なならぬ雰囲気にその場にいた全員がビビって固まるしかなかった。
実際は冗談が好きで優しい人なのだが、ことサッカーになると、スイッチが切り替わって鬼軍曹になる。
「腑抜けのままでいたいか?それとも強くなりたいか?」
初対面で少年漫画のワンシーンのような二択を投げ掛けられ、クエッションマークが浮かぶ少年達はつられるように「強くなりたい」と答えたが、この時点ではまだ知るよしもなかった。
後に数名のチームメイトが去ることになる、純度百パーセントの超スパルタ練習が待ち構えてることを。
そしてその日から練習風景は一変した。
誰か一人でも脱落すると連帯責任、真夏も水分は最低限しか取ることを認められず、グラウンドは常に嘔吐物だらけ。
二度とあんな経験は御免だと思うし、そもそも真似も出来ないが、楽しかった記憶は今も目蓋を閉じると容易に浮かぶ。
練習が終わればコーチの狭い自宅でゲームをして遊んだり、たいして旨くないナポリタンを全員でご馳走になったり、夏の合宿では洒落にならない肝試しをしたりと、それまで経験したことがなかった時間を過ごせたのは今も良い思い出だ。
どれだけキツかろうが、あの監獄のような家にいるより何万倍も幸せな時間だった。
もう一つ、私にとって大きな転機が訪れる。
「今日からお前がキーパーをやれ」
まさかまさか、チーム内でも一二を争う背の低さの私が、何故かゴールキーパーの指名を受けたのだ。
知らない人もいるかもしれないが、ゴールキーパーというのはその他のポジションに比べ、特に生傷が絶えないポジションである。
「縁の下の力持ち」といえば格好は良いが、縁の下に隠れた影のような存在とも言えるし、得点を取って目立ちたい小学生にとって遠慮したいポジションでもあった。
もれなく私も遠慮願いたかったのだが、怖いコーチの手前断ることも出来ず、ただ黙って引き受ける。
しかし、実はこのゴールキーパーこそ私の天職だったのだ。
何故なら――相手の危険なプレーで打撲をしようが、何度も突き指をして靭帯を切ろうが、顔面にボールが当たって鼻血が止まらなくなろうが、私は一切の恐怖も感じなかったから。
こう話すと、なんだか特殊な性癖を持っていただけなのでは……と読者に誤解をされかねないが、それだけはないと強く断言しておくというのも、当時の私の人格が大きく関わっている。
普段父親に平気で殴られていた私は、小学三年生にして自分の痛みに酷く鈍い人間へと生長し、多少の怪我なら何とも思わなくなっていたことで図らずもゴールキーパーとして大事な資質を獲得していたのだ。
人はそれを勇気というが、私のそれは自棄とも言える。
殴られる度に心が沈んでいき、ヒビが入り、欠け始め、いっそなにも感じない方が楽なのでは――そう思うようになっていた頃にサッカーと出会い、たまたまゴールキーパーを任されたことで知った。
(僅かな痛みと引き換えにチームに貢献出来るのなら……)
文字通り身を呈してゴールを死守するようになった私は、そこそこ有名な選手となった。
他人から勇猛果敢だと誉めそやされるプレーの数々は、私の家庭環境が作り出した歪んだ人格が原因であることを誰も知らない。
しかし都大会や関東大会への出場を果たす一助となったわけなのだから、何とも皮肉なものだ。
結局、中学一年生で低身長を理由にゴールキーパーは辞めさせられた(笑)
※黄色のユニホームから『カナリア軍団』と称され、選手権出場34回、高校総体出場31回で、過去9回(選手権6回・総体3回)の全国優勝の実績を持つ。
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