ほくろとり娘

烏川 ハル

前編

   

「あの子、遅いわね」

 ふと呟きながら、朱美は、何気なく観ていたテレビを消す。

 リビングの壁時計に目を向けると、そろそろ日付が変わる時刻だ。もう一時間も二時間も前に、妹は帰って来ているはずだった。

 確かに蒼香は今朝、クラスのコンパがあるから帰りは少し遅くなる、と言っていた。でも彼女は、二次会や三次会へ行くような子ではないのだから……。

「何かあったのかしら?」

 妹の身を案じる姉の独り言。しかしその声には、心配そうな気持ちは全く表れていないのだった。


 朱美と蒼香は双子の姉妹で、顔も体つきもそっくりだ。髪の長さまで同じであり、外見的な違いは、蒼香の左の目元にある泣きぼくろだけ。子供の頃、母親の化粧道具をこっそり使い、蒼香がほくろを隠して朱美が描き加えたら、両親でも入れ替わりに気づかないくらいだった。

 そんな姉妹が今、東京のマンションで二人で暮らしている。

 妹の蒼香は音大の声楽科に通っており、姉の朱美はそこを落ちたので、一般の女子大の文学部。いわゆる滑り止めの大学だった。

 滑り止めならば、わざわざ東京ではなく、地元の大学で十分なのに……。受験の際、朱美はそう思ったものだが、学費や生活費を出してくれる両親には逆らえなかった。音大を受験させてもらう条件の一つが、滑り止めも同じ東京の大学にすることだったのだ。


 当時のやりとりを改めて思い出して、朱美は、テーブルの上に目を向ける。袋ごと置かれているスナック菓子は、テレビを観ながら、口寂しいという理由でつまんでいたものだった。

 スイーツ系ではなく、ピリ辛の米菓だ。小さくて、やや長細い形をしており、なぜかピーナッツが同封されている。朱美が好きなのはあられの方なので、ピーナッツは必要ないのだが、かといって捨てるほど邪魔なわけでもない。仕方がないので、一緒に口に入れていた。

「父さんと母さんにとって、私はピーナッツなのよね」

 高校時代から歌が上手くて、将来を期待されていた蒼香。そんな妹を横目で見ながら、妹と一緒の合唱部で、自分なりに努力していた朱美。

 おそらく両親は、蒼香には声楽家を目指して頑張ってほしいと思ったけれど、でも東京で一人暮らしをさせるのは心配だったのだろう。だから、姉の自分をセットにしたのではないか……。

「まあ、いいわ。親の思惑がどうあれ、私は私の人生を歩むだけ。でも……」

 再び時計を見た朱美の口元には、不気味な笑みが浮かんでいだ。

「……あの子に何かあったら、私が蒼香になろうかしら?」


 笑えない冗談が、朱美の口から飛び出した時。

 ドアがガチャリと開く音に続いて、妹の声が聞こえてきた。

「ただいま……」

「おかえり、蒼香。遅かったわね」

「うん、ごめん」

 そう言いながらリビングに入ってきた妹は、泣き腫らしたように目を真っ赤にして、目元に手をやっていた。

「ちょっと! どうしたのよ、蒼香?」

 朱美は慌て声になる。

 なにしろ、コンパで遅くなった若い娘が、泣きながら帰ってきたのだ。真っ先に頭に浮かんだのは、酔い潰されて貞操を奪われたのではないか、という下衆な想像だった。でもよく見れば、服装は乱れていないし、歩き方もしっかりしている。ならば、どうやら違うらしい。

「あのね、お姉ちゃん。私……」

 言いにくそうな声で、蒼香は目元から手をどける。

「……ほくろ、取られちゃった」


 信じられない発言だが、確かに蒼香の顔からは、特徴的な泣きぼくろが消失していた。ファンデーションで隠すことは可能だが、そんな悪戯をわざわざするような蒼香ではない。子供の頃の入れ替わりだって、いつも朱美から提案したものであり、蒼香はあまり乗り気ではないようだった。

「どういうことよ? ほくろを取られるって、そんな馬鹿な……。わけを話してごらん」

「うん。びっくりするような話なんだけど……」

 ぽつりぽつりと、蒼香は今夜の出来事を語り出す。

   

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