【前編 / 02】 流星に至る ─── 06

 久しぶりの大型書店はやっぱり、すばらしかった。どこを見ても新鮮で、見たことのない新刊や、話題の既刊、輝かしい名作なんかが所狭しと並んでいる。平積みを眺めているだけで心が躍り、頬が勝手に紅潮するのを感じた。

 きょろきょろと辺りを見回す俺をよそに、宗像は簡単に案内図を確認して、まっすぐ生物学のコーナーに向かった。平積みしてある、分厚い専門書を手に取る。大きな手がぱらぱらとページをめくって、彼は満足そうに頷いた。

「これこれ」

「それ、面白いの?」

「俺は好き。でも、この人の既刊読んでないと、ちょいわかりづらいかもな」

「ふーん……」

 どうやら作者買いらしい。ちらと見えた裏表紙、本の値段はかなりのものだ。専門書でなおかつこれだけ分厚いと、さもありなんというところだろうか。こんな厚くて高い本を何冊も買っているとは。スマートウォッチといい、この恵まれた男は、金銭的にも余裕があるみたいだ。

(まあ俺だって、貯金はそれなりにあるけどさ)

 それこそ、ちょっとした新入社員くらいには。だがそれはあくまでも生活費の余りであり、『使い道がないから』という理由の結果でもある。恵まれた高校生の豊潤なお小遣い、というのとは訳が違う。

 ちえ、とくちびるを尖らせて、レジに向かって歩き出した宗像を追う。そのとき、物理学の棚を通りかかった。思わず足が止まった。

(あ……これ、ずっと欲しかった本だ)

 一部で名著と有名だったが、売上が芳しくなかったのか、絶版の憂き目にあっていた。いつのまにか再販したらしい。再販にあたって巻末に章が付け加えられているらしく、俺は思わず目をきらめかせた。

 そっと手に取り、裏返す。やっぱり、それなりに値が張る。今月は食費がそこまで行ってないが、今日のために服を一揃い買ってしまったので、貯金分を差し引くとちょっと厳しい。とりあえず、再販したことだけでもわかったのだから良しとしよう。来月以降だ。

 ふと、頬の辺りに視線を感じた。顔を上げると、本の背を肩にかついだ宗像が、じっと俺を見つめている。あ、ごめん、と言うより先に、彼の視線が俺の手元に落とされた。

「好きなの、量子力学」

「う……」

 かっ、と耳が熱くなった。たしかに量子力学は大好きだけど、大っぴらに言うのはなんだか恥ずかしかった。本で口元を隠し、ぼそぼそ言う。

「……どうせ中二っぽいって、笑うんだろ」

 ああ、思春期の子って絶対一度はハマるよな、量子力学。中学時代、親戚にそう笑われて以来、俺はこの嗜好を人に言うのをためらうようになっていた。

 だが宗像は、心底意味がわからない、という顔をした。

「笑ってどうすんだよ」

 なんの躊躇もない即答。そうだった、こいつはこういう奴だった、と思い直す。さすが内外ともに完璧な人間。宗像は他人の趣味を指差して笑うなんて、絶対にしないだろう。忌々しいことに。

 うんとかああとか、もごもごと口ごもる俺に、彼は何気なく問うた。

「どこが好きなの」

「う……えっと……」

 あいまいに言葉を濁すも、宗像はじっと俺の回答を待っている。ちら、と見上げた視線はまっすぐに俺を捉えていて、はぐらかしに乗ってくれる気配はなかった。

 仕方ない、と俺はかすかに下を向く。はあっ、と小さく息を吐いた。

「……世界の存在が、曖昧だって思えるところ……」

 我ながら、蚊の鳴くような声だった。こんな理由、わかってもらえるとは思わない。それでも、うまい嘘が思いつかなかったから、言うしかなかった。

 量子力学は好きだ。世界の構成物質が、波なのか、粒なのかすらはっきりしない。可能性の波、みたいな曖昧ななにかが、よくわからない伝播をして、誰かの目に映ったときだけ、違うふるまいをする。そういうところが、俺が世界に対して感じる肌感覚ととてもよく馴染んで、いいなと思っていた。

 じっと下を向いていた俺の視界に、すっ、と宗像の大きな手が入り込んできた。あっと思う間もなく、本がさらわれていく。思わず顔を上げると、宗像は真面目な顔で、ぱらぱらと紙面をめくっていた。

「ふうん。……面白そう」

 そうつぶやくと、生物学の本の上にぱたんとそれを重ねる。二冊になった専門書を持って、宗像はさっと俺を見た。

「どうする。もうちょっと見てく?」

「え。あの……それ、買うの?」

「買う」

 興味湧いたから、と一言。俺は目を丸くして、ああそう、とかなんとか、それっぽいことをぼそぼそ言った。気が付けばずれていた眼鏡を直して、そっか、とつぶやく。

(宗像も、面白そう、って思ったんだ)

 そっか、と胸のうちだけでもう一度、唱えた。なんとなく、安堵のような、嬉しいような、不思議な感覚。俺の好きなものに興味を持って、あんな高い本をわざわざ買うということは――『悪魔との契約』は順調と思っていいのだろうか。

「で。もうちょっと見んの」

「み……見ていいなら」

「そりゃいいよ」

 俺も久々だし、と宗像が笑う。じゃあ適当に見て回るか、と大きな歩幅が動き出す。俺も慌てて後を追う。

 宗像はすぐ、俺の歩幅に合わせて速度を落とした。高い位置にあるたくましい肩と、隣り合って歩いていく。あちこちに目移りする俺を宗像は少し笑って、

「そうだ、こいつ。読み終わったら、貸してやるよ」

 そう言って、量子力学の本をひょいとかざした。ほんと、と返す声が大きくなる。あ、と慌てて口元を押さえる俺を、宗像は笑わなかった。ただほんとほんと、と何気ない口調で言うと、そうだ小遣い足りっかな、とつぶやくだけだった。

 たぶんそれも宗像なりの気遣いの一種だと、俺はとっくにわかっていた。だが、いつも通りの完璧な振る舞いに、今日ばかりは不思議と腹が立たなかった。

 あえて突っ込むこともなく、うん、とだけ返し、うろうろと視線を彷徨わせる。転ぶなよ、という短い呼びかけを聞き流し、俺は気になっていたベストセラーの長編小説にそっと手を伸ばした。なんだか無性にわくわくした。



 

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