第3話 安全安心なお仕事のために超えなければならないハードルたち

 安全安心な窓口業務にして書類仕事な信認署名人トラステッド・サイナー職に就くには、超えなければならないハードルがある。それは、調整済市場レギュレーテッドにおいてAIが行う大量の情報処理のスピードにある程度ついていけること。二十一世紀末の専門触手サイナーに求められる情報処理能力を平たく言うと、一分で一冊の専門書が読めること。


 そんなことが可能なのかって?

 

 もちろん、それを可能にするテクノロジーが用意されているのだ。そう、けっこうな数の学校で導入されている教育用AIによる圧縮学習コンプレッシングカリキュラム。

 圧縮学習コンプレッシングは、個人化パーソナライズされたAIを用い、短期間で知識を定着させる学習法だ。圧をかけて押し縮めるコンプレッサー機械から語感を借り、圧縮学習コンプレッシングと一般に称されている。技術基盤である脳神経活動ニューロアクティビティの精緻な測定を行う神経知能学ニューロインテリジェンス分野の進展が、人の脳への圧縮学習コンプレッシングを可能としたと言われる。AI活用型の超埋め込み学習法というもの。

 一分で一冊の専門書の内容を脳に埋め込むことを可能とするために、圧縮学習コンプレッシングでは、英語や日本語といった自然言語は用いない。AIははじめに、脳血流量の変化など学習者の脳の反応パターンを読み取り、個人化パーソナライズされた抽象言語を作成する。圧縮学習コンプレッシングにおいては、この抽象言語の形式で、学習内容カリキュラムを脳に短時間で埋め込み、定着させていく。


 圧縮学習コンプレッシングの適期は十歳から十五歳くらいまで。人の記憶力のピークと言われる年代の脳ならば、一冊の専門書の内容を一分以内で定着させていくことが比較的容易とされるがため(……あらら)。


 義務教育過程での圧縮学習コンプレッシングの履修は、希望者のみが行う。近年ではお試し履修をしてみる子はそこそこいるけれども、継続履修する子は少ない。圧縮学習コンプレッシングの前段階である抽象言語の個人化パーソナライズが最初のハードルとなる。抽象言語を脳に書き込む際の「埋め込まれ感」に吐き気や頭痛を覚えてしまい耐えられない子が過半数。うーむ。


 ひどい吐き気や頭痛がなく、圧縮学習コンプレッシングを進められそうな子の場合、圧縮学習コンプレッシングを行う施設に通う手間と費用が次のハードルとなる。1機1億円を超えるお値段の圧縮学習コンプレッシング用AI機器は公立校には導入されていない。そのため、予約してお代を払って公共施設の圧縮学習コンプレッシングを継続利用する必要がある。教育ママ、教育パパであっても結構な手間だ。また、圧縮学習コンプレッシングの効率を高めるために必要とされる、脳へのマイクロマシンの埋め込み手術も(第二種医療行為の保険が適用されるとはいえ)けっこうな費用負担となる。


 そして、世の教育ママ、教育パパの多くが圧縮学習コンプレッシングをあまり信用していないことが最後のハードルとなる。圧縮学習コンプレッシングを半年くらい続けると、結構な量の知識が身についてくる。けれども、抽象言語で脳に書きこまれた知識には、実感がほとんど伴わない。いつの間にか脳に変な記憶が増えている感覚。その気味悪さは、圧縮学習コンプレッシングを継続した子にしか分からない。


 自身が受けたことがない埋め込み教育である圧縮学習コンプレッシングで、我が子が不安や気味の悪さを訴えてきた場合、世の教育ママ、教育パパの多くは、「ならば、昔ながらのやり方で勉強しようよ」といったことを言うことが多いという。結果、圧縮学習コンプレッシングを辞めるか、週に一日くらいに控える子が多い。


 圧縮学習コンプレッシングの効率を高めるために、子供の脳にマイクロマシンを埋め込むことに不安を感じる声もあるという。マイクロマシンは、脳血流について、微細な変化を測定し最小限の干渉を行うものであり、脳梗塞などの疾患予防にも活躍しているものなのだけれども。


 こうしたハードルにより、高頻度で圧縮学習コンプレッシングを続ける子は百人に一人くらいとなっている。

 

 心春きよはるは、これらのハードルをたまたまクリアできた。まず第一にシングルマザーの母は教育ママではなかった。高校中退で、義務教育以外の学歴がなく、そもそも学校でまともに学習した経験に乏しい。そんな母に、圧縮学習コンプレッシングを始めたばかりの心春きよはるは、埋め込まれの不安感を相談しようなどと考えもしなかったのだ。


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 心春きよはるくん、第一のハードルは余裕でクリアのようですが……

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