真尋とほのか

てばさき

陽だまりのティータイム

 8年間ルームシェア生活を続けていた同居人が、突然結婚すると言い出した。

「急な話でごめんね、真尋まひろ

 いや、いやいやいや。

 急すぎるだろ。

 私は口元へ運んできたティーカップを、一旦テーブルの上へ置くか、ひとくちだけ啜ろうか迷って、やはり紅茶を啜ることにする。馴れ親しんだベルガモットの香りが鼻に吸い込まれていく。

 ティーカップをテーブルの上に置いて、最初に出た言葉が。

「……今日は4月1日じゃないよね」

 なんちゅう、間の抜けた質問。

「うん。10月16日だよ」

 ほのかはまっすぐに私を見据えている。

 長い睫毛とぷっくりとした涙袋を備えたほのかの瞳はとても蠱惑的で、この目で見つめられたらどんな願い事だって聞いてしまいそうになる。ウェーブのかかった、やや明るい茶髪のミディアムショートヘアもほのかによく似合っていて、まさしく『ゆるふわ』と形容するのがふさわしい。

「じゃあ、本気なんだ」

 そう呟くと、私はもうひとくち、紅茶を啜る。

 会社勤めで朝型人間のほのかと、小説家の卵――もといフリーターで夜型人間の私とではなかなか生活リズムが合わず、一緒に暮らしていながら意外と顔を合わせてゆっくりお喋りするような時間は少なかったりする。そういったこともあり、ほのかが会社を休める土日・祝日は、だいたい午後3時ごろからリビングで二人きりのティータイムを過ごすのが習慣となっていた。

 紅茶はもともとほのかの趣味なので、ほぼ毎回ほのかが紅茶を淹れてくれるのだが、たまに私に紅茶当番が回ってくる。今日はその『たまに』の日だったので、このアールグレイは私が淹れたものだ。紅茶に関してはプロ級の腕前を持つほのかとは比べ物にならないが、今日のは多少マシに淹れることができたんじゃなかろうか。

 それ以外はいつもと何も変わらない。気持ちよく日差しを浴びながら窓際でのティータイム……のはずだったのだが、開口一番にほのかの口からそんな爆弾発言が飛び出るとは想像だにしていなかった。

「相手は例の、先輩さん……だよね」

「そう」

「付き合って3ヶ月で、結婚?」

 ほのかに最近彼氏ができたことは知っていた。2歳年上の、職場の先輩。もともと知り合いだったとはいえ、付き合いだしてからはまだ3ヶ月しか経っていない。普通に考えたら、異例のスピード婚だ。

「このあいだ、ひろくんと鎌倉行ってきたんだけど」

 ひろくんというのが、ほのかが付き合っている先輩社員のことである。

「普通にドライブして、大仏見て、しらす丼食べて……それで、帰り道にプロポーズされたの」

「マジか」

「マジなの。急に真面目なトーンで、『俺、ほのかと結婚したい』って。そしたらなんか、ビビッときちゃって。具体的な結婚のイメージとか全然持ってなかったのに、『ああ、私この人と結婚するんだ』って実感が急に湧いてきて。それで、『じゃあ、いつ結婚しようか』って返事しちゃった」

「マジか」

「マジなのよ」

 ほのかは頬を赤らめている。

 言葉は足りないけど、その表情を見ればわかった。

 ああ、好きなんだな、その男のことが。

 本気で結婚したいと思ってるんだな。

「……で、いつ結婚するの?」

「年内にはとりあえず籍入れようかなって。まだ互いの両親にご挨拶もできてないけど」

「年内って、あと2ヶ月もないじゃん」

「鉄は熱いうちに打てっていうじゃない?」

「……ま、ほのからしいけど」

 私はもうひとくち、紅茶を啜る。

 やっぱりちょっと渋みが強すぎたかな、今日の紅茶。

「じゃ、この部屋も出るってことなんだね」

「……そうなるね。もちろん真尋の都合優先で、新しい家探したりとか、そういう準備整ってからだけど」

 主な収入源が深夜帯のコンビニバイトという私に、都内で2LDKという物件に1人で住み続けられるような経済力はない。ということは必然的に、私もこの部屋を出て引っ越すことになる。

 8年間続いてきたこの部屋での暮らしにも、ついに終止符が打たれるというわけだ。

 私はほのかに向かってなるべくゆっくりと、穏やかに拍手をする。

「とりあえず、おめでとう。ちょっと急な話でびっくりはしてるけど、ほのかが幸せになるなら、私も嬉しい。寂しくないといったら、嘘になるけどさ」

「……ありがとう」

 ほのかはようやくティーカップに手を伸ばして、持ち手に指をかけたが、そのままカップを持ち上げずにじっと紅茶の水面と湯気を見つめている。

 やがて鼻を啜る音が聞こえてきて、ほのかの顔を見ると、大粒の涙をこぼしながら、泣いていた。

「ごめんね、真尋。急にこんなわがまま言っちゃって、相談もせずにいろいろ決めちゃって……本当にごめん」

「いや、謝ることないって。めでたいことじゃん。それに相手の都合考えてたらキリないから、部屋出るのは互いに好きなタイミングでって決めてたじゃんか」

「そうだけど……これまで毎日真尋にごはん作ってもらって、家事もいろいろ……いろいろ助けてもらってたのに、急に部屋を出るなんて……」

「それは私のほうが家にいる時間長いから、ちょっとだけ家事を多くやってるだけじゃん。その分、食費とか多めに出してもらったりしてるし。それに私、家事するの好きだしさ」

 ほのかはティーカップを持ったまま、しゃくりあげて泣き続ける。

「真尋、私も寂しいよ。自分で出ていくって言っといてこんなこと言う資格ないんだけど………今、この部屋でいろいろあったなぁって思い出してたら、泣けてきちゃって……」

 泣きじゃくるほのかの肩をそっと抱き寄せる。

「大丈夫だよ、別に二度と会えなくなるわけじゃないしさ。またこうしてお茶しようよ。ほら、紅茶飲んで落ち着いて」

「うん……」

 まったくズルいな、ほのかは。

 先に泣かれちゃったら、こっちはもう泣けないじゃん。

 少し落ち着いてきたほのかはティーカップを口元へ寄せて、紅茶を啜る。

「……真尋は8年経っても、紅茶の腕は一向に上達しなかったね」

「少しは私にも気を使え?」

 コーヒー専門なんだって、私は。

 

 

 それからは嵐のような日々が始まった。

 この部屋には8年間の歴史が詰まっている。まずは家のなかに存在する有象無象について、私のものか、ほのかのものか、共同のものかをすべて確認する必要があった。

 各自の持ち物についてはそれぞれで対処を決めればいいとして、共同の持ち物をどうするかは私たち二人の話し合いで決定しなければならない。

 しかし生活リズムが異なる私たちであるから、それぞれの空き時間に各自の持ち物を整理しておいて、土日にまとめて二人の共同品の整理を行うといった形にせざるを得なかった。

 二人で行ったタイ旅行土産の、あからさまに某有名アニメキャラクターをパクった絵がプリントされているTシャツ。

 二人で絶対痩せようと決意して購入し、現在は単なるリビング用の椅子と化しているダイエットグッズ。

 二人で陶芸体験をしたときに作った不恰好なお皿(私作)と、すばらしい出来栄えの湯呑み(ほのか作)。

 いろんな思い出が詰まった品々を、捨てるか・売るか・持っていくか。ひとつひとつ決めていく作業は、まるで過去の精算をしているかのようだった。

 私は過去の遺物たちと相対しながら、ほのかと出会ったころの記憶を思い返していた。

 

 ほのかと初めて出会ったのは、高校2年生のときだ。

 高校入学前に両親が離婚して母親の実家へ引っ越すことになり、もともとあまり社交的とは言えない性格だった私は新しい環境にうまく馴染むことができず、やがてその内気な性格に拍車をかけるように、他人とのあいだに壁を作り、自分の殻にこもるようになっていた。

 高校入学時点で母親とも折り合いがつかなくなっていた私は、家にも居場所がなかった。別に学校に行きたくはないが、家にいても何もすることがないから、毎日教室の隅で一人寂しく読書をしているだけの高校生活。そんな灰色の日々のなかで、クラス替えの偶然によってほのかと出会うことができたのは、運命的といえば運命的と言えるかもしれない。

 ほのかは当時から明るく社交的で、クラスの人気者グループに属していて私との接点といえば席が近いことぐらいのものだったのだが、クラス内で孤立していた日陰者の私に、ほのかは積極的に話しかけてきた。

 孤独な高校生活を既に一年間過ごしてきてすっかり性格がひん曲がってしまっていた私は、同情なんて迷惑だと言わんばかりにしばらくそっけない態度をとっていたのだが、授業中・休み時間・登下校時と、諦めずに何度も何度も話しかけてくるほのかに根負けして、少しずつ会話を交わすようになったのを覚えている。のちに聞いた話だが、あの頃はほのかも家庭内で両親の不和があり危うく離婚寸前の状態だったようで、噂で伝え聞いた私の境遇に自分を重ねていた部分もあったという。

 社交的なほのかと一緒に行動するようになった私は、徐々にほのか以外の同級生とも接する機会が増えていき、卒業を迎える頃には泣きこそしなかったものの、高校生活が終わってみんなと離ればなれになってしまうことに、無性な喪失感と寂しさを覚えるまでになっていた。一方ほのかは、もちろん大粒の涙を流して泣いていた。あの灰色の日々が色を与えられて輝き出したのは、まさしくほのかのおかげだった。

 そして高校卒業を機に母親の実家を出て、両親が離婚するまで住んでいた街――東京で暮らすことを決めていた私だったが、親から生活費の支援は受けられそうもなかったので、都内に住むとなると、家賃はなるべく安く済ませる必要があった。

 都内の大学へと進学を決めていたほのかがルームシェアの話を持ちかけてきたとき、そんな私が一も二もなく飛びついたのは必然であろう。

 かくして都内の2LDK物件で、女二人のルームシェア生活が始まった。

 

 自室内の物品整理をひと区切りさせて、デスク前のオフィスチェアへと腰掛ける。長時間腰掛けてモニターに向かっていても疲れないように、背中にぴったり合うサポーターと、尻の下に低反発クッションも敷いてあるから快適である。

 外から5時のチャイムが聞こえてくる。私はまだ起きたばかりだが、ほのかは今日の仕事をちょうど終えたところか。

 8年間のルームシェア生活を振り返ってみれば。

 上京してきて初めての夜、興奮して寝付けず、夜が明けるまで一晩中喋り続けたこと。

 海外ドラマのDVDボックスをレンタルしてきて、二人してテレビ画面に釘付けになっていた夏休み。

 ほのかの内定が決まって、行きつけの居酒屋で祝杯を上げたはいいものの泥酔してしまい、危うく出禁になるところだったあの日。

 『幸せ』を違う言葉で言い換えるとしたら、こういう日々のことじゃなかろうか。

 些細なすれ違いやちょっとした喧嘩もあったけれど。とにかく私は、幸せだった。

 そしてきっと、その幸せにあぐらをかいてしまっていたのも間違いないわけで。

 私はふっとため息をつく。

 

 ほのかはモテる。分け隔てなく誰とでも仲良くなれて、気づかいもできて、でも結構抜けてるところもあって、守ってあげたくなる可愛らしさがある。

 当然、男子から言い寄られたり告白されたりする回数は一度や二度ではないし、実際に交際するに至ったケースも過去何度かあった。

 しかしその度に、大抵は1ヶ月以内、長くても3ヶ月くらいで、やっぱりフィーリングが合わなかったとかなんとか言って、別れてしまう。そんなことを何度か繰り返しているうちに、私はすっかり安心しきっていた。

 だからぶっちゃけ言うと今回も『そろそろ危ない時期かな』なんてことを思っていたわけである。それがまさか、こんな大逆転があるなんて。

 そういえば、私がほのかに対する恋愛感情を自覚したのも、ほのかに初めての彼氏ができたときのことだったと思う。

 ほのかがサークルで知り合ったという同級生の男子に告白されて、付き合うことになったと聞いたとき、突然目の前が真っ暗になって、自分でも予想だにしていなかった黒い感情が湧き出てきたのを覚えている。ほのかのことは単にすごく仲の良い友だちと思っていたし、自分でもその感情がなんなのか意味がわからなくて、親友に初彼氏ができたことを素直に祝うことができない自分を責めて、一人苦しんでいたものだ。

 結局ほのかはその初彼氏とは1ヶ月程度で別れてしまったが、私はそれからも自分の感情の正体を掴むために思い悩み続けて、やがてどうやら自分は親友に対して恋愛感情を抱いているらしいと結論づけた。

 それに気がついた私が何をしたのかというと。

 なんと……何もしなかった。

 まさかの現状維持。いやだって、しょうがないじゃん。好きな相手と既に同棲してて、ルームシェア生活はうまくいっててめっちゃ楽しくて、これ以上幸せなことってある?たしかに何度かほのかに恋人ができるたびに最初のうちは結構焦ってたけど、毎回あっけなく別れるし。

 まあ普通は、好きな相手と四六時中一緒にいたら性的欲求とかで我慢できなくなるもんなんだろう。だけど、正直ほのかとセックスしたいとかはあんまり感じていなかった。というか性行為というもの自体にあまりピンと来ていなかった。

 ほのかのことは女の子としてかわいいと思うし、ハグしたいとか、キスしたいとか思ったことはあるけど、セックスまではちょっと想像できない。そういう意味では、自分がいわゆる同性愛者なのかどうかもよくわからない。ほのか以外の女の子を好きになったこともなければ、心惹かれたこともないから。

 ほのかとは一緒に暮らしてて互いに身体をべたべた触ることもあるけど、別にもうドキドキしないし、裸もすっかり見慣れてるし。恋人通り越してもはや家族?みたいな感覚になっていた。

 きっとほのかは私のもとに戻ってきてくれるはず。

 きっとこれから先もこのまま2人で暮らしていけるはず。

 そんな奢り。慢心。

 親友というポジションにあぐらをかいて、何も行動を起こさなかったツケ。

 まさしく『過去の精算』。

 むしろ自分の好意を告白して親友じゃいられなくなるほうが自分にとって不都合じゃないかという、卑怯で醜い打算がそこになかったと言えるか。

 そんなんで、何が親友だ。

 もう自分の気持ちを伝えることもできやしない。

 あー、泣きたい。

 でも不思議とやっぱり、涙は出なかった。

 まるで、ほのかに吸い取られてしまったかのように。

 私は冷蔵庫に向かう。酒に酔ったら涙のひとつも出るかな、なんて考えながら。

 

 

 あれよあれよと言う間に時は過ぎて、1ヶ月後には私より先にほのかが新居へ引っ越していくことになった。ほのかは即断即決タイプで、直感でなんでも決めてしまうから、荷物の整理も物件選びもきっとあっという間であっただろう。一方慎重派の私はたっぷり時間をかけて悩んで物件を選び、一応ほのかが引っ越していく2週間後には私もこの部屋を出ることになった。

 そして迎えたほのかの引っ越し当日。

 私たちは引っ越し業者を待ちながら、リビングの窓際で最後のティータイムを過ごすことにした。

 何を飲もうか悩んだけど、結局いつものアールグレイにした。新しい茶葉を開封しちゃったらそれはそれで飲み切らなくちゃだし、最後だからこそいつもの味がいいという私の希望もあった。

 手際良くほのかが紅茶を淹れる姿を眺める。お茶なんて茶葉に熱湯をかければいいんだろ、と私は思ってしまっているが、ほのかによればポットに入れる茶葉の大きさから、蒸らし方から、注ぎ方までコツがあるらしい。さっぱり私はそれを理解することはできなかったが、実際に淹れられた紅茶を飲んでみると確かに美味しいのだから、感心してしまう。

 ほのかはテーブルの上に紅茶が注がれた2人分のティーカップとお茶菓子を配膳すると、席について、ゆっくりと噛み締めるように、紅茶を啜った。

「はぁ~~~……やっぱり私が淹れた紅茶は美味しいわねぇ」

「相変わらず自己肯定感高いなー」

 まぁ、そういうところも好きなんだけど。

 そんな言葉を飲み込むように、私も紅茶を啜る。

 うん。やっぱりほのかの淹れた紅茶は美味しい。渋みなんてまったくない、優しくて芳醇な味わいだ。

「そういえば、めっちゃ荷物完全梱包してるけど、このティーセットはどうすんの?」

 ほのかの荷物はすでに玄関先にまとめてあり、準備万端の状態だ。

 ティーセット一式を後から追加できそうな余裕は全然ない。

「どうすんのって……これはもともと真尋の持ち物じゃん」

「え?私?」

 私は意表を突かれて、素っ頓狂な声をあげてしまう。

「そうだよ。ルームシェアを始めたばかりのころに、『優雅な暮らしがしたい』って言って突然真尋がティーセットを買ってきて……でも結局全然使わないままほったらかしにされてたから、それで私が紅茶を淹れるようになったんでしょ」

「マジで!?いやそれ、完全に忘れてたな……普通にもともとほのかの持ち物だとばかり思ってたわ」

 そう言われてみれば、うすらぼんやりと、安売りされていたティーセットを勢いで購入した記憶が蘇ってきたような。うーん、綺麗さっぱり忘れていたな……。

「じゃあ、どうする?私は、真尋が使ってくれればと思ってたんだけど」

「そうかー。そうだね……」

 私は8年間使い続けてきたティーセットを眺める。

 まったく紅茶の腕前は上達しなかったとはいえ、私もこのティーセットにはそれなりに思い入れがある。

 それに、ほのかはきっと引っ越してから新しいティーセットを購入することだろうが、私はわざわざ自分で新しいものを購入したりはしないだろうと思われた。

「じゃ、このティーセットは私がもらうよ。だけど、そのカップだけはほのかが持って行ってほしいな」

 私は、ちょうどほのかが紅茶を啜っているティーカップを指差す。

「持ち手の端っこが少しだけ欠けてるやつ……やっぱりほのかのカップだなって感じがするし、それがうちに置き去りにされるのは、ちょっと寂しいかなって」

「真尋……まーた私を泣かせようとしてるー?」

 ほのかは肩をすくめて笑うと、ティーカップをテーブルの上に置いて、改めてしげしげと眺める。

 当然、ほのかにとっても思い入れは深い。

「8年だもんね~~……いろんなことがあったよね、そりゃあ」

 白地に、ささやかな薔薇の花が描かれた陶製のティーカップ。持ち手がちょっぴり欠けているのはほのかがテレビを見ながら洗い物をしていたら手を滑らせて、カップをシンクに落下させてしまったからだ。もともとはまったく同じカップなので区別などしていなかったのだが、明確に区別するようになったのは、たしかそれがきっかけだったと思う。今では持ち手が欠けていること以外にも経年劣化で変色していたり、絵柄が剥げていたりする部分があって、ひと目で自分のとほのかのカップは見分けがつく。

 そのティーセットがまるごと食器棚に置き去りにされているのを見たら、8年間の私とほのかの思い出がそのまま置き去りにされてしまったかのようで、きっと自分は耐えられないだろうと思った。

 ふと見ると、ほのかは早くも目を潤ませている。

 「……サライでも流そうか?」

 「徳光和夫じゃねーし」

 こういうくだらないやりとりも、過去何回繰り返したことやら。

 

 ティータイムを終えてほどなくして引っ越し業者がやってきて、ひとつひとつ荷物を確認してシールを貼り付けて番号を割り振りながら、力持ちの青年たちが3階に位置する私たちの部屋からトラックへと荷物を運んでいった。

 メインの家電や家具類については大体私がそのまま持っていくことになったので、ほのかの荷物はわりかしコンパクトだ。

 さほどの時間もかからずに搬出作業が完了し、簡単に部屋の掃除などをしていたら、あっという間にほのかの出発時刻が近づいてきていた。

 季節は秋から冬へと移り変わろうとしていて、外はニット1枚だけでは少々肌寒い気温だ。ほのかは白のタートルネックニットの上にベージュのトレンチコートを羽織って、玄関が先に立つ。

「ごめんね、まだ掃除の途中なのに」

「いいって。1週間あるから、ゆっくり掃除しておくよ」

「引っ越しの日は、また手伝いにくるから」

「悪いね、助かるよ。じゃあ……」

 ほのかの手を取って握手をすると、ほのかはそのまま私に抱きついてきた。

 そのまま無言で、ほのかの背中を撫でてやりながら、ハグを続ける。

 ああ。

 帰り際のこの勢いで、唇でも奪ってしまおうか。

 女同士のキスなら、冗談でごまかせたりするかな。

 なーんつってね。

 ほのかと私はハグをやめて、お互いに向き直る。

 ほのかの目は既に真っ赤で、今にも涙がこぼれそうだ。

「真尋……」

 ほのかは私の手のひらを見つめて、ぎゅっと握った。

「8年間、本当にありがとう。ルームシェアの相手が真尋で、本当によかったと思う。

 真尋にはね、どれだけありがとうって言っても足りないの。

 毎日おいしいごはんを作ってくれてありがとう。

 喧嘩したときも、必ず真尋のほうから謝ってきてくれて、いつもお詫びに素敵な紅茶ギフトをプレゼントしてくれてありがとう。

 私が就活うまくいかなくて落ち込んでるとき、私のそばで寄り添っていてくれてありがとう。

 こんな私と出会ってくれて――」

「ちょっと、ストップ」

 私はほのかの目の前に手のひろをかざして、言葉を遮る。

「……ほのか。私を泣かそうとしてるよね?」

「えへ。バレた?」

 ほのかは悪戯っぽく、目を細めて笑う。その目尻から、綺麗な涙の粒がひとつ、こぼれる。

 結局、自分で泣いてるし。

「でも、真尋に感謝してるのは本当だよ。うまく言えないんだけど……一応伝えておきたかったのは、私は今でも十分……もう十分すぎるくらい幸せなの。真尋のおかげで今日までずっと、ガチのマジで最高に楽しくて、面白くて、充実した毎日だったよ。なんか幸せすぎて幸せゲージ?が振り切れちゃってるから、これから何があっても、大抵は幸せでいれると思うのよね。だから、新しいことにチャレンジしてみようって気になれたっていうか……なんか私意味わかんないこと語っちゃってるね」

 ほのかが涙を手で拭おうとするのを制して、ハンカチで目尻を押さえてやる。

 手で目元をこすっちゃったら、せっかく外出用にメイクしたのが台無しだ。

「わかってる、わかってるよ。私も本当に、ほのかのルームメイトでいられてよかったよ」

 ほのかがまた私に抱きついてくる。鼻をすすり、しゃくり上げる音。

 しばらくそうしているうちに少しずつほのかは落ち着いてきて、泣き止んだかな、と私が思ったタイミングで、顔を上げて私を見る。

「それじゃ、もう私行くね」

「うん、気をつけて。また二週間後ね」

「また電話するから。……今日は真尋の涙が見れるかと思ったけど、やっぱダメだったかぁ」

 ほのかは、まだちょっぴり充血している目を細めて笑う。

「カッコいい大人っていうのはね、涙は流さず心で泣くものなのだよ。ほのかクン」

「真尋氏……職業夢追い人(フリーター)の割にはいいこと言うんだね……?」

「言葉のナイフが鋭利すぎないかい、ほのかクン……?」

「冗談、冗談。私は真尋のそういうカッコいいところも大好きだよ。小説、応援してるから」

 ほのかはそう言ってまた笑い、スーツケースを転がしながら玄関から出て行った。

 まったく、やっぱりほのかは最後までズルいなぁ。

 

 

 ほのかが引っ越していったあと。

 日が暮れる時間まで少々仮眠をとって、起きてから一人分のご飯を作る。

 一人きりの夕食。ほのかも友人との食事だったり、会社の飲み会だったりで、たまに外で夕食をとってくることはあるから、私一人で夕食をとるのはそんなに珍しいことでもない。

 引越しまでに冷蔵庫の中身をなるべく減らさなきゃな、とか。

 食材多めに買っちゃわないように気をつけなきゃな、とか。

 そんなことを考えているうちに食べ終わって、食器を片付けたり、部屋の掃除の続きをしたり。

 そうこうしてたら出勤の時間になっていた。

 バイト先のコンビニまではチャリで10分。今度引っ越す物件からは5分。

 引っ越し先を探すにあたって、全然違う土地に移ってみようかなとかいろいろ考えたが、結局勝手知ったるこの街に留まるのが一番楽だという結論に至った。

 バイト先も新しい人間関係に慣れるのが面倒だし、せっかく上がった給料がまたイチからスタートになっちゃうし。大して上がってないけどさ。

 深夜帯はほとんどお客さんもこないから、バイト仲間と他愛のないことを喋ったりしながら、あくびを噛み殺して働いているうちに夜が明けて、退勤。

 帰宅したら一人きりでの朝食。朝はいつもほのかが一緒だから一人きりの朝食というのは少し新鮮に感じたけど、引っ越し作業の疲れも溜まっていて、とにかくさっさと寝たかった。

 目玉焼きとトーストを手早く食べ終えたらシャワーを浴びて、ベッドにダイブ。

 泥のように眠って、起きたらまた部屋の整理とか、生活用品を段ボールに詰めたりとか、住所変更の各種手続きとか、いろいろ。

 そんなんに追われているうちは、当初想像していたような喪失感とか、寂しさみたいなのに襲われることはなく。割と平気なもんだな、こういうのはじわじわ寂しくなってくるもんなのかな、なーんてことを思ってた。

 このときはまだ私も、あんまりわかってなかった。『不在』と『住んでない』は違うってことを。

 

 そして迎えた週末。

 金曜日の夜はたまたまバイトも休みをとってたから、土曜日はお昼に起きて、午後からまるっと時間が空いて。

 週末に『二人の時間』が空いていたら。

 ほのかと一緒に季節ものの服を買いに行ったり。

 ほのかと一緒に新しくできたお店でご飯を食べてみたり。

 ほのかと一緒に気になってた映画をサブスクの配信で観たり。

 そんな『二人の時間』が、『一人の時間』でしかなくなっている。

 そういう当たり前のことに、ここにきて気がついた。

 一人か。

 まあ、一人は慣れてる。

 一人なら一人で、自分のやりたいことをやればいい。

 小説を書こうと思い、モニターに向かってみる。

 でも、文章が全然頭に浮かんでこない。

 おかしいな。

 一人なら、自分の好きなものに、好きなだけ打ち込めるはずなのに。

 なんにも書きたいものが、やりたいことが浮かばない。

 ふと時計を見るともう午後3時を回っていて、無性にほのかの紅茶が飲みたくなる。

 ティーセットと茶葉を引っ張り出して、またうろ覚えでアールグレイを淹れてみる。

 物が減った代わりに段ボールだらけになってしまったリビング。今日は曇天で陽の光も差し込んでおらず、部屋全体が薄暗い。

 窓際のテーブルへと紅茶が注がれたティーカップと茶菓子を配膳して、精一杯いつものティータイムを再現してみる。

 いつもと違うのは、ティーカップが一人分しかなくて、目の前に誰も座っていないこと。

 私は自分で淹れた紅茶を啜る。前は渋みが強すぎたけど、今度は逆に味が薄すぎるかな。

 いつもなら紅茶の味についていろいろ厳しい評価をいただいているところだが、そんなちょっぴり鬱陶しいやつも、もういない。

 ほのか。

 ほのかも今ごろ新居で、旦那さんと一緒にティータイムを過ごしているだろうか。

 私との思い出が刻まれたあのティーカップを使って。

 私たち二人だけのティータイムも、他の誰かと過ごすものに置き換わってしまうのだろうか。

 そして残された私は、一人だ。

 一人。

 あの頃と同じだ。

 ほのかと出会う前、教室の隅で寂しく本を読んでいたあの灰色の日々。

 どうして小説を書きたいと思ったんだっけ?

 ――ほのかに『真尋の話は面白いから、きっと作家になれるよ』と言われたことがきっかけだ。

 どうして東京に出てきたんだっけ?

 ――ほのかに『卒業したら東京に行こうよ。きっとここよりも面白いことや楽しいことでいっぱいだよ』と言われたことがきっかけだ。

 もしほのかと出会っていなかったら。

 きっと私は今も自室に閉じこもって、一人寂しく本を読んでいるだけの人間だ。

 

 ほのか、寂しいよ。

 私を置いていかないで。

 私一人じゃ、なんにもできないよ。

 

 気づけば私の顔は、涙でグシャグシャになっていた。

 突然堰を切ったように涙が、感情が、寂しさが溢れてきて、止められない。

 ずっとほのかがそばにいてくれたから、孤独の味を忘れてしまっていた。

 孤独とは、これほどまでに息苦しくて、恐ろしくて、氷のように冷たいものだったのか。

 自分では、あの頃より少しは人間的に成長して、一人で生きていけるようになったつもりでいた。

 でも、それは錯覚だった。紅茶の腕前とおんなじだ。

 こんなことなら。

 こんなことになるなら、ほのかの前でカッコつけたりしなきゃよかった。

 無様でもなんでも、軽蔑されてもいいから、泣きながらほのかに縋りついて『出て行かないで』と懇願すればよかったんだ。

 ほのかはきっと優しいから、そんな私を放ってはいけないだろう。

 もちろんそんなの身勝手すぎる話なのはわかっている。

 でも、無理だ。

 私一人きりでは、とても生きていけない。

 

 

 嗚咽を上げて泣き続けながら、顔面も頭のなかもグチャグチャのドロドロになって、呼吸をするのも苦しくなって、ついには意識も朦朧としてきた頃。

 突然私の携帯の着信音が鳴り響いて、心臓が止まるかと思った。

 画面を見ると、ほのかからの着信だった。慌ててティッシュを手に取って、涙を拭いて鼻を噛み、なんとか電話をとる。

「……もしもし?」

『あ、真尋ー?いま大丈夫だった?』

 聞き馴染んだほのかの声。

 その声を聞いただけで、どうしようもなく安堵してしまう自分がいる。

「うん、いいよ。暇してたから」

『急にごめんね。なんか鼻声だけど、風邪でも引いた?』

「いや、部屋の掃除してたら埃がすごくてさ。そっちこそどしたの?忘れ物でもした?」

『忘れ物なんてしてませんー。ねえ私、今何してると思う?』

「なにって……」

 私は目の前に置かれたティーセットに目を向ける。

「……紅茶飲んでる?」

『正解!ほら、新しいティーセット買ったの。かわいいでしょ』

 スマホの画面に、かわいらしいピンク色のティーポットが映し出される。

 カップのほうは、見慣れたいつものティーカップを使っているようだ。

「ほんとだ、かわいいの買ったね。あれ、旦那さんは?」

『ひろくんは出かけてるよ。あんまり紅茶は好きじゃないみたいだから、勝手に寝室の窓際に紅茶スペース作っちゃった』

 旦那さんとティータイムを過ごしているわけでもなかったのか。

 なぜかちょっぴりほっとする私。ぬるくなってしまった紅茶をひとくち啜る。

『もしかして真尋もティータイムしてた?』

「うん、土曜日だしね。自分で淹れてみた」

『じゃあ、また失敗したんだ?』

「いやいや!今日のは自信作。まぁちょっとだけ、味が薄いかもだけど」

『それを失敗ってゆーの。じゃあ次は通話しながら一緒に紅茶を淹れようよ。あらためて正しい淹れ方をレクチャーしたげるから』

「……やっぱ明日からはコーヒーに変えようかな」

『えー、そんなのティーセットがかわいそう!』

「ウソだよ、冗談!じゃあ、また明日3時に電話しよっか」

 他愛のない会話で笑い合う。

 ほのかと話していたら、不思議と少しずつ元気が湧いてきた。

『……真尋。もしかしてだけど、ちょっぴり落ち込んでた?』

 ギクリ。

「まあ……いつものティータイムに一人きりで紅茶飲んでたらさ、そりゃちょっとは落ち込むよね」

 正直言えばちょっとどころではない落ち込みようで、孤独に押しつぶされかけていたんだけども、さすがにそうとは言えない。

『真尋って、本当は私以上に寂しがり屋なのに、強がりなところあるじゃない?だから少し心配だったの。慌ただしく過ごしてるうちはいいかもしれないけど、ひと息ついたら急に寂しくなったりしそうだなって』

 なんでもお見通しかよ。

 さすがは、ほのかだ。

「かなわんなー、ほのかには……」

『ふっふっふ、何年一緒にいると思ってんの。どう?私の声聞いて元気出た?』

「はいはい、出ました出ました」

『返事が雑~』

「あはは。いやでもほんとに元気出たよ、ありがとう。……なんか、あの頃を思い出しちゃってさ」

 冗談のついでに、ふと自分の本音がぽろりとこぼれる。

『あの頃?』

「うん、ほのかと知り合う前。教室の隅っこで誰とも絡まず、ずっと一人で読書をしていたあの頃。なんか、孤独だったなって……」

 照れ隠しに、苦笑する私。

『でも今は、孤独じゃないでしょ?』

 真面目なトーンでそう返されて、ドキリとする。

『この私と8年間も一緒に暮らしてたんだよ。それを無かったことになんてしないでよね。孤独だなんて言わせないから。いい?真尋、あなたは一人じゃない』

 私が考えていたことを見透かしているかのように、ほのかはまっすぐ語りかけてくる。

『だからまた落ち込んだりしたら、紅茶でも飲みながら弱音吐いてよ。私も真尋を頼ることあると思うし。それでも寂しくてどうしようもなくなったときは、うちに遊びにきてよ。とっておきのお茶淹れてあげるからさ。そのまま泊まっちゃってもいいし。あ、むしろそのまま三人で一緒に住んじゃう?』

「いや、夫婦プラス私の三人で暮らすのはさすがに気まずすぎるわ」

『そう?あ、じゃあ新婚旅行一緒に行く?』

「もっと気まずいわ!」

 いつものノリでつっこみを入れて、また笑いあう。

 それから、新居での近況やら、職場で起きた話やらをいつものようにお喋りして、いつの間にかティーカップの中身は空になっていた。

『じゃあ、また明日電話入れるね。あ、忙しかったら無理しなくていいから』

「ううん、多分大丈夫。じゃ、また」

『うん。またね』

 そう言って、通話が切れる。

 そういえばティーポットにまだ紅茶が残ってるのを忘れてたな。

 すっかり冷めきってしまった薄味の紅茶をカップにまた注いで、飲み込んでいく。

 不思議だ。

 紅茶は冷めているのに、胸のなかが暖かく感じる。

 ほのかから電話がくるまでは、胸の奥が冷え切って今にも凍り付いてしまいそうだったのに。

 紅茶を飲み干して、ティーセットを流し台に持っていって、丁寧に洗う。

 ポットにキズなんてつけたら、ほのかに怒られてしまう。

 電話口ではバレないかもしれないけど、多分いつか怒られる。そんな気がする。

 ティーセットをステンレス製の水切りかごに並べたら、自室に戻って、またモニターに向かう。

 ほのかに言われた言葉を、胸中で反芻する。

 『真尋、あなたは一人じゃない』。

 ほのかが部屋を出て行っても、二人で共有した時間がなかったことになるわけじゃない。

 あのとき、カッコつけておいてよかったな。

 ほのかにとっての『カッコいい真尋』のままでいられてよかった。

 そして、喧嘩別れになったりせずにこれまでどおり親友のままでいられて、本当によかった。

 

 これから先、ほのかと会ったり、話したりする時間は減っていくだろう。

 ほのかも、私じゃない誰かとティータイムを過ごしたりするかもしれない。

 私も、ほのかじゃない他の誰かと出会って、一緒に暮らすことになったりするかもしれない。

 そうした日々のなかで陽だまりに目を細めて悪戯に笑う、あの笑顔が不意に恋しくなったときは。

 また午後3時の時計に合わせて、ティーセットを引っ張り出してきてアールグレイを淹れればいい。

 紅茶を啜りながらそっと瞼を閉じれば、ベルガモットの香りとともに、鮮やかにあの笑顔を思い出すことができるから。

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