No.5

@penguin320

No.5

ジメジメとした暑さがとても不快だった。肌に感じる生温い熱気だけではなく、そこかしこで反響する蝉の声もそれを助長する。

「今日も暑いね」

ふわっと笑う。当たり前のことを共有したがるのは奈子の......いや多くの人間の癖だ。

「そうだね」

幸は涼しげに返した。もうそろそろ昼かと思えばまだ11時だった。夏休み直前だから、補修やら課外活動やらで不定期なスケジュールも多い。今日もそんな1日で、クラス関係なく学年全体で体育をする日だったのだ。とはいってもコートを交代で使う形式だから、その間は待ち時間としてこうやってダラダラとしているのが常だ。いくら真面目な奈子であってもそれは例外ではなく、幸とバトミントンを片手に話すと言った様子だった。

「おーーいさち! そっちに球飛んじゃったからとってきてくんない?」

「ハイハイ、人使い荒いんだから全く」

幸は言葉とは裏腹に、少しほっとした様子で球を取る。そしてポン、とラケットで声をかけた生徒の方へと飛ばした。

「ア、ごめん宇美。変な方いっちゃったわシャトル」

悪びれない悪戯な笑顔を向ける。宇美と言われた少女も不貞腐れているように見えて心底嬉しげだ。宇美は幸と仲が良い。それを奈子は知っている。

「奈子」

幸は手をうやうやしく取ると、そっち日向だから変わったげる。と綿菓子のような軽さで言い放ち、日向へ出た。幸の人よりも茶色い髪がより透き通って見える。シャトルがまた飛んできて、またかよ。とぶっきらぼうに独り言を言うと、幸は今度は正確に宇美と言われた少女の方へ返した。宇美はこれそういえばシャトルって言ったね、よく覚えてんなー! と叫ぶ。うみは適当すぎるだけだよ、と大声で返した。そうか、日向の方が宇美に近いんだ、と奈子は心の奥底から閃いた。

「さっちゃん。やっぱ悪いよ、日陰つかって?」

「奈子は優しいね。じゃあ疲れちゃったし一緒さぼっちゃお」

幸は奈子の打算を知ってか知らずか、儚げな表情をした。なんだかもうすぐ手折られそうなタンポポみたい。そう奈子は思った。

幸はなぜか奈子のラケットを取り上げ、お互いのラケットを重ね合わせる。そのあと振り回した。くすくすと奈子は笑った。それを見て、幸は日向のタンポポみたいな無垢さだな。とぼんやり思った。こんな女の子だったら......何だというんだろう。続きが思い浮かばなくてモヤモヤしていると、また奈子はおかしそうに笑っていた。奈子にはやっぱり日向が似合うけど、ずっと暑いのはなあ。私が何とかしてあげなきゃなあ......と幸は思う。きっと幸は奈子のために死ぬのだろう。奈子はそしてさめざめとひとしきり泣いた後、葬式会場から出て行くのだ。

–ピッピー

妄想がシャボン玉のように弾けた。集合の笛の音だ。

「またね、奈子」

綿毛のような爽やかさで幸は走り出す。先には宇美がいて、歯を見せてニッカリと笑っていた。

「あとでね、さっちゃん」

その声は恭しくて、重大発表をする前みたいだった。


 6限にまた学年合同の授業がある。高校一年生はクラス関係なく班を組んで、北海道での観光プランを立てるのが決まりだった。受験をまだ見据えなくて良い時期だし、中学生でもないからいちいち騒ぐことも減っている。ここで計画性や精神的成長を促そうという学校側の魂胆だ。4人1組の班で、クラスで現在仲の良い人と組む生徒もいれば、(中高一貫で仲の深まった)部活の同期と組む者もいる。学校側が想定した通り一々騒ぐ程でもないが、生徒も何も対策しないほど大人でもない。腹の探り合いが始まっていた。

 幸は勿論奈子ちゃんと組むよね、と静香に声をかけられた。幸は別段静香と仲良くはない。むしろ同じ「大人しいタイプ」の奈子の方が仲がいいかもしれないとも思ったが、ここは1-E。奈子は1-Bだ。思いがけない質問すぎて、打てば響くように返す幸にしては珍しく返答に困ってしまった。

「ふふ。そんな顔しなくてもいいじゃない? お似合いだと思うよ。ふたり」

猫のように目を細めながら静香はボソボソと喋る。

「いっつも仲良いもんね。ニコイチっていうかさ」

「別に......わた、しは」

「じゃあ私、奈子ちゃんと組んじゃおっかな」

冗談とはいえないような声だった。大きい声とはいえないのに、ホルンのようにダイレクトに響く。幸は少し俯いた。睫毛が夏の日差しに細かい影を落とす。幸は目をぎゅっと閉じたのち、覚悟を決めた目で前を見据える。まるで敵陣の先頭に立つ武将のようだ。

「......奈子は」

「冗談だって! 奈子ちゃんのこと取らないよ〜。心配しないで」

静香はカラカラと笑ってじゃあ、と言って去っていった。こんなのもううんざり。幸はその一言を飲み込める女の子だった。


 班決めの日。幸は普段かけないスカートにアイロンをかける。暑がりだからしないセーターも来てしゃんとする。ベッドのクマのぬいぐるみを撫でて、行ってきますというと、

「母さん、変じゃない?」

と二階から叫んだ。

「二階にいるんだから見えるわけないじゃない? せっかちな子ねえ」

幸の母は困ったように笑ってわざわざ階段を昇ってやった。そして肩に手を置き、いいわね! とオッケーサインを作った。ぶんぶんと頭を振ったせいで髪がボサボサになる。手櫛で解いてやると、ボブヘアがいい感じにまとまった。

「やば! 時間!」

急いで食卓までおり、トーストを頬張る。むせる幸にまあ、と顔をしかめつつも鞄を入り口まで持っていく。口に泡を少し付けながら歯を磨くと、行ってきますとゴーダッシュした。

「あれだといつもの1割増しってとこねえ」

母は心配だわあ。と一言言ったがすぐに踵を返して家の掃除を始めた。主婦は強い。


いつものように幸は5分前にクラスに着いた。いつものようにと言ったがちょっと走ったので、厳しいと評判の体育教師には顰めっ面されるかと思いきや、意外そうに多田さん珍しいわね、程々にしときなさいよと言われて終わりだった。錆びついた教室で真っ先に目に入ったのは机で突っ伏していた宇美だ。体調悪いの、と聞いたら別に眠いんだから放っといてと言われた。幸はムッとしたものの、寝起きの宇美の機嫌は悪いので言われた通りにする。先生が入ってきて授業が始まったものの、皆浮き足立っていつもよりうるさい。奈子はきっと今日のことなんか考えずに、付箋だらけの教科書開いて、予習でもしてるんだろなー、と幸が考えていると後ろの席の宇美の手が当たった。宇美は子供体温だからあつい。幸には蝉の声が耳に迫って来るように感じた。まだ寝てんのかな、とそわそわしていると、宇美は柔らかく背中を触ってくる。しっかり起きているし、絡み方も最悪の部類だ。こういう時の宇美に何か言うとジイシキカジョーじゃん? と返されるので関わりたくなかった。無視して無理矢理何かを考える。


 浮かんできたのは、昨日の香水のテレビ広告だった。CHANEL! これ、かれしからもらったんだー、と幸の姉が広告を見ながら自慢気に話す。

「私、香水とかアクセサリーのプレゼント苦手。だから羨ましくない」

幸はいつもの、いやいつもよりも冷たい声で言った。幸の声は高いのに、寒色を思わせるほど温度が低い。

「ま、ませちゃってー」

姉の声は低い声をしているのにオレンジ色みたいな声だ。

「あんた、結婚したら苦労しそう」

「結婚はできるんだ」

「私の妹だからね。でも、苦労しそう。なんかあったら頼りなさいね」

姉は5分後にテレビのチャンネルを変えると、黙々と米を麦芽糖に変える作業を始めた。そういうところは似ていて好ましいなと幸は感じた。テレビでは海外での男性同士・女性同士の結婚を取り上げていた。姉さんは私の結婚相手浮かぶんだ、私は浮かばないのに。と幸はひとりごちた。


–キンコンカンコーン

いよいよ6限のホームルームだ。クラスを移動する。宇美は別の生徒と歩いていた。それをぼんやりと見つめた幸は、安心したような、なんとも言えない様子で目を伏せると足早に講堂へ向かった。講堂は広々としていたから、意外と誰がどこにいるのかしっかりと捉えることが出来る。カーテンを開けるのが邪魔くさかったからだろう、夏だと言うのに暗い室内だった。説明もそこそこに

「はい、じゃあ班作ってね〜。高校生なんだから余りとか作っちゃダメよ。決まったところから座っていってね」

と神経質に教師が声を出すと、わあわあと言いながら生徒が固まって行く。きっと神様が上から眺めていたら、蟻がご飯を運ぶみたいでさも滑稽だろうなと幸は思った。人波をかき分けてやっとこさ奈子の前につくと、奈子は上目遣いでこちらを見ていた。実際のところ、奈子の方が背は高いから見上げる形ではないのだが、幸にはそう思えた。奈子は選ばれる女の子だ。そう幸は思った。奈子以外にも、幸と奈子の共通の友人が2人ー沙美と真澄が集まって来ていた。お互いに不満はない......はずだ。周りも大方決まっていて、立っている人間の方が少なかった。座ろうとした時、不運にも

–敢えてそう表現しよう。宇美が一人で立っているのが見えた。

「どうして」

幸の水色の声が震えて波打つ。と同時に足を踏み出した。真澄は機微に富んだ子だ。それを十分に幸は知っていたから、真澄に近づいて、あと1人頼むね。と声をかける。真澄の自分を映さない瞳が幸は大好きだった。自分の何かで疲れ切った瞳にはない深さを持っている。悪手だと思うけど仕方ないね。さっちゃんだもん。と、真澄は言うと諦めて幸の肩を押した。ありがと、真澄大好き。幸がそう言うと、奈子の方を見てから本当に怒るぞと真澄は幸を咎めて、瞳さえ向けないまま奈子に話しかけた。幸の方はというと今度はスイスイと足を進めて宇美の手を取る。途中で静香と目があった気がした。その瞳は幾分か失望の念が含められていた気がした。ようやく撮った宇美の手は冷たくなっている。まるで前からこのつもりだったみたいな顔で幸は笑って、宇美の方はというといじらしい顔をしていた。真澄との話が途切れた時、奈子は初めて全てに気づいて、でも笑顔を崩さなかった。沙美はそれを見て(通常運転だから)良い意味で何とも思わなかったが、真澄の方は悪い意味でやっぱりなという顔をしていた。


 携帯にラインの通知が入る。意外と奈子と幸のラインは活発ではない。だからこそ、奈子の一言に幸は最大限の注意を払っていた。

『会えない?』

その一言だけだった。時間は18時で、ギリギリ校内に残っている生徒がいるかどうかという時間帯だ。奈子はそういえば今日、茶道部だったな、と幸は気づく。幸はというと自室にいた。幸は陸上部と、奈子と同じ音楽部に所属していたがどちらも今日は活動日ではない。音楽部に至っては、管弦楽部や合唱部に入らなかった生徒が音楽を気軽にやる部活、という変わったものであったから活動日が曖昧だ。万が一のために、音楽部のロッカーの鍵を持って、急いで制服を着て外へ出た。今朝のプリーツスカートのアイロンはもう取れかけていた。

『学校? いけるよ』

トントンとローファーを地面に叩きつける。

『部活の鍵もってくね』

鍵は副部長である幸が持っていた。部長はもちろん奈子だ。幸は陸上部に専念したいから役職は無理、と言ったものの、奈子が珍しく食い下がった。自分一人じゃ無理なの、と奈子は言った。奈子の黒髪が蛍光灯にキラキラと反射していたのを覚えている。

『違う、プールに来て欲しいの』



ちょっと走って着いた先にはまだ奈子はいなかった。幸は不貞腐れそうだったが、プールに視線をやる。誰かが何かしているのか、珍しく入れる状態になっている。どうせこないならと足を踏み入れた。水がなみなみと注がれて揺れている。夏だというのにもう日がすっかり暮れていて、わずかな星や電灯の光が水の中に吸い込まれて行く。


✳︎

 幸のことが一番大事だった......幸はどうか知らないけれど。幸のこういう無邪気さは好きだ。絶対プールに入っちゃうだろうな、と思ったけれど本当に入ってしまっていた。馬鹿だなあ、と思う。幸は私のことを天然だと言うのをいつも笑いながら否定して来た。幸がいけないんだよ。気付いてくれないから。

私は幸の体をプールに突き落とす。あんなに大きく思えていた体が随分と軽いのに今気づいた。そして自分も後から落ちる。これは気まぐれ。なんとなくだ。本当は幸が水に落ちてバタバタするのをひとしきり笑ったら助けてあげる予定だったのに、私は思ったよりも感傷的な人間のようだった。少し潔癖症だからこのプール洗ってないんじゃないかしらとか思ってしまって今後悔している。でも日中火照った体と思考が急激に冷めていくのを感じた。潔癖症の私に、食器の下に紙を引いたりドアを開けたり気遣ってくれたな。でも他の子にもやってるんだろうな、優しいから幸は。


「優しくなんかない」

ぼこぼこと空気が口から抜けていて、お互い声なんか聞こえないはずなのに、会話していた。幸は私の手を強引に取って引き上げると水面に浮上した。空には田舎じゃないからやっぱり星なんてあんまり見えなかった。

「優しくないよ。本当はめんどくさかったの。全部。奈子自身も周りも。宇美のことで気遣ってあげないから!」

水が迫り上がっているはずなのに朗々と幸は吐き出した。

「わ、私だって! 幸が思うような女の子じゃないもん! 押し付けないで!」

「CHANELNo5」

「はい!?」

「私が似合いたかった香水。今度あげようと思ってたけどやーめた」

「えっちょっと欲しいかも」

「だめーー。あげません」

そんな、とくすぐったそうに奈子の反論を聞くと、幸は平泳ぎみたいにした手の反対の、奈子を引き上げた手で奈子の手をがっしりと取った。

「私、奈子にとくべつをあげるのやめる」

幸は時々変な言葉を使う。それが好きな時もあり、嫌いな時もあった。今がまさにそうだ。その言葉が私には嫌でも凛々と煌めいて聞こえるから嫌いなんだ。

「でも、私がこの先死ぬのはきっと奈子のせいだよ。それで赦して」

随分身勝手なことなのに、奈子にはすっと胸に響いて来て。

「赦してあげる」

とにこやかに笑った。香水なんかつけてもないし、水の中でするはずもないのに、ちょうど花の香りがあたりに立ち込めた。

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