第164話「過去との決別、そして未来へ」
ともかく、こうしてアムステルの大海戦は終結した。
このまま行けば、アウストリア、ケイン両王国海軍の勝利だと見せつけていたマヤだったが、実は割と内情はギリギリだった。
「ま、今回はここまでか。甘いのは、ケインさんやししゃーない」
アウストリア海軍に船を出させる費用までは工面できたものの、もしも艦隊に損害を与えてしまったら破産するところであったのだ。
使える海軍兵力などは、どっちも張子の虎。
打った手はほとんどがブラフというこの状況で、無敵艦隊を無力化して勝利に導いたマヤの策謀は、称賛に値すると言えよう。
「しかし、敵もさるものやな」
女王アリスティリアは、すっかりケインに取り入っている。
さっきまで
そのまま船の上で休戦協定を終えて、アムステルの港に船を止めて降り立つ間も、女王アリスティリアはケインの手を離すことなく、露骨に媚を売っていた。
「ケイン陛下、なにとぞよしなにおねがいします」
「それは、わかりました。ただこちらからもあと一つだけ、女王陛下にお願いがあるのですがよろしいでしょうか」
ここに来て、最後のお願いは怖い。
何を条件に出されるのかと一瞬、女王の顔が険しくなる。
「バッカニアの海賊たちの罪を、許していただきたいのです」
ケインと女王アリスティリアの前に、バッカニア海賊の頭目バルバスがいた。
今や元海賊というべきだろう。
バルバスは、ケイン海軍の司令長官なのだから。
「もちろんですわ。同盟を結ぶのを機会に、これまでのわだかまりは解消したいものです」
「そうですか」
バルバスたちの罪を、なんとか許してもらおうと奔走していたケインはホッとする。
女王はケインの手を離すと、老海賊の前に立つ。
「バッカニア島の元領主、バルバス・バッカニアですね」
「そうだ」
女王は一瞬目をそらして、迷うような面持ちで続ける。
「私の父がバッカニアの民を切り捨てたこと、申し訳なくは思いますが、今更許してくれなどと言うつもりはありません」
政治判断である。
謝って済むような生易しい話ではない。
父王とて、正しい判断だと思ってやったことだ。
女王が同じ立場であったとしても、きっと同じことをやったに違いない。
「そうですな、女王陛下。ワシらとアルビオンとの亀裂は、並大抵のことでは埋められますまい」
「ですが、ケイン陛下の願いでもあります。私としては、過去のいきさつは水に流して関係を改善したく思います」
「……」
「そう言うのは、あまりにも都合のいい言葉ですよね。そなたらが、我が国を強く恨む気持ちはわかります。せめて、アルビオンの女王である私に、恨み言を述べる機会は与えましょう。罵りたければ罵って結構です」
静かに瞑目している老海賊バルバスは、伏せた顔を上げて目を開いた。
「あなたのお父上を、ワシらは心の底から恨んでおります。自らの民が、子らが……眼の前で飢えて死にゆくのを領主としてどうすることもできなかった憤り。一国の女王であられる貴女様にもわかりましょう。だからこそ、これまでアルビオン船籍の船を狙って我々も無法を働いてきました」
押し黙った女王は全てを受け止めるつもりで、強い怒りに燃えるバルバスの老いた目を紺碧の瞳で真っ直ぐに見た。
「バルバス……」
傍らにいたケインが見ていられずに、声をかけてくるのをみて、フッとバルバスは笑う。
「だが、それはあくまで先代のことだ。この恨みも、怒りも、憎しみも、消えることはなくても、次の世代では新たな関係を築くことはできましょう。ケイン陛下に救われたこの身です。ワシらも過去にこだわるより、未来のことを考えるといたします」
今更謝らないと言っていた女王だが、そのバルバスの言葉に思わず頭を下げてしまった。
それを見て、バルバスは女王とケインに向かって、黙って一礼すると港を後にした。
「おやじがきたぞ!」
「戦勝祝いだ! 今日は浴びるほど飲むぞ!」
港の酒場ではお祭り騒ぎだ。
ビールのジョッキをかかえて戦争が終わったことを祝う街の人達と、元海賊たちが陽気に大騒ぎしている。
バルバスを迎えた海賊の頭目バレルとアンカは、ケインのところにもやってくるとさあさあと手を引いて、ジョッキをもたせてビールを注ぐ。
「ほら、御大将もビール、ビール!」
「あ、ありがとう」
「ケインの大将、ここはぜひとも乾杯の音頭をとってください!」
「あーじゃあ、みんなお疲れ様!」
ケインがジョッキを掲げると、陽気な船乗りたちが「おー!」と歓声をあげて、一気にビールを飲み干した。
大役を果たした黒鋼衆も、この日ばかりは酒宴に参加している。
「どうしたんだクロガネ?」
酒宴の席を回って兵士たちの労をねぎらっていたケインだが、黒鋼衆たちが出された豪勢な食事に、ほとんど手を付けていないので心配して声を掛ける。
「御屋形様、我々は胸がいっぱいで料理が喉を通りません」
ケインが事情を尋ねると、暗殺者であった黒鋼衆たちは戦勝の祝いであっても、このような表の世界の酒宴にはずっと呼ばれなかったのだという。
影の仕事をやっていると、報われる事が極端に少ない。
「そうだったのか。それは俺も君たちに寂しい思いをさせていたかもしれない。知らなかったとはいえ、済まないことをした」
「いえ、御屋形様が謝るようなことでは……」
「いろいろ仕事が大変だろうけど、これからはできるかぎり酒宴にも呼ぶようにするよ」
ケインの気遣いの言葉に、黒鋼衆たちはすすり泣く。
「皆、何を泣いておるか。御屋形様が困っておるではないか、ほら祝いの踊りをやらんか!」
忍びである黒鋼衆たちも、めでたいときには仲間内だけで祝い、素朴な舞なども踊ったりするのだ。
「黒鋼衆の踊りとは、ぜひ見てみたいね」
「御屋形様、では私がやります!」「俺もやりましょう!」
黒鋼衆の若い衆たちが、大きな器になみなみと酒をそそいで「ぷはぁ」と飲み干す。
そうして景気をつけてから、器を振り回したりすくい上げてふざけた仕草で舞い踊る。
素朴でありながらひょうげた踊りに、皆は笑い転げて拍手喝采する。
ケインも真似して踊ってみると、また黒鋼衆の輪からドッと笑いが起こる。
「女王陛下、帰りの船の用意ができました」
「……」
「女王陛下?」
女王アリスティリアは、ほんの少し部下や民衆と打ち解けあっているケインの姿に、見惚れてしまっていた。
「ああ、船ですね」
「大丈夫ですか、お疲れでしょう。ゆっくり休まれてはいかがですか」
「いや、一度本国にもどって体制を立て直しますが、これからが本格的な交渉ですからね」
「善王ケインとやらの言葉、どこまで信じられるやら……」
「ケイン様の言葉は信じられます!」
「えっ」
「あ、いえ……私は、何も情に流されて言っているわけではないのです。あくまで合理的に判断して、ケイン様の言葉は信じるに足ると思っているのです」
女王アリスティリアは、朱に染めた頬に手を当てる。
何事も冷徹に判断しなければならない。
そうやって、これまで国を舵取りしてきたのだ。
だが、それでも……。
善王ケインの温かい手に触れたとき、冷たい雨に打たれて冷え切った心がほんの少しだけ温まった。
そんな気がした。
女王は、手を握りしめると静かに胸へと押し当てる。
かつて女王アリスティリアの父がアルビオン本島を征服するためにバッカニアを切り捨てたことは、何度考えても正しい判断だった。
正しいことではあったが、善いことではなかった。
ずっと女王の心に、わだかまりとして残っていたのだ。
それも今日、善王ケインのおかげで解消することができた。
騎士ランスロットは、怪訝そうな顔で主君の姿を眺める。
「女王陛下……」
「剣姫をも使いこなす王の器にして、敗者にも手を差し伸べる慈愛の主ですか。私も叶うなら、ケイン様のように生きてもみたかった」
「何をおっしゃいますか。我々にとっては、女王陛下こそが慈愛の主です!」
「ふふっ、そうですね。ランスロット、心配させてしまいましたか。本当になんでもありませんから、早く本国に戻りましょう。これからは、交易競争という新しい形の戦いが始まるのですから更に忙しくなるでしょう」
「ハッ、次なる戦に勝利するのは、我らがアルビオンです!」
こうして北海地域では、アルテナ同盟という新たな秩序が生まれた。
それは、
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