先輩が泊まった日の話

先輩が泊まった日の話

 私は女性だが、私の恋人である先輩もまた、女性である。私は、特に女性のみを恋愛対象とするわけではない。男性も好きだし、それと全く同様に、女性も好きなのだ。今回好きになったのが、たまたま、女性だったというだけのことだ。私は、先輩の発する言葉(率直で誠実)、表情(ころころと豊か)、仕草(気取ったところがなく、かつ丁寧)、瞳の色(明るい茶色)を、愛している。それらを見たり聞いたりする度、幸福になれる。それだけで、私にとっては充分であり、股に付いているモノの形などは、些末な問題に過ぎない。棒状のモノによる快楽が欲しいときには、道具を使えば済む話だ。


 もっとも、先輩は、私ほど割り切った考えの持ち主ではないようだった。私による愛の告白を受けたときには、大層驚き、「ええっ」「うそっ」「マジで?」「ホンマに?」などの反応を示した。それから、「正直言って、あんたをそういう目で見たことはなかったわ」「いや、どうやろ」「うぅん」「ちょっとはそういう目もあったんかな? ほんのちょっとやけどな」「困るわ」「いや別に困らんか」「嫌ってわけじゃないんよ」「むしろ嬉しいっていうか」「でも、そんなこと考えたこともなかったし」「ちょっと戸惑っとるだけなんよ」「あたし、男としか付き合ったことないし」「でもあんたのことは好きなんよ」「いや別に変な意味じゃなくて」「いや、やっぱり変な意味なんかな? あはは、ようわからんわ」「う~ん、じゃあ試しに付き合ってみる?」などと述べ、現在の関係に至った。二週間前、共に映画館を訪れた日の、そこに併設された喫茶店内でのことである。その日、私達は、泣けると話題の恋愛映画を観た。先輩は泣いたが、私は泣かなかった。「悪くはないんですけど、ベタ過ぎるっていうか、お涙頂戴感があり過ぎるっていうか……そもそも、無闇に感情を揺さぶればいいってもんでもないと思うんですよ、映画って」「そこまで言うなら、あんたの言う良い映画とやらをあたしに見せてみろ」かくして今日、私がレンタルしたDVDを、私の家で、一緒に観る約束になっているのだった。


 私としても、先輩を自宅に連れ込む口実ができたので、好都合だった。


 先輩が私のアパートに来るのは二度目だったが、恋人として来るのは、初めてだった。一昨年、職場の忘年会の後、酷く酔った彼女を、一晩だけ泊めたのが、一度目だった(先輩は、弱いのに、飲み過ぎる癖がある)。あのときの私達はまだ、恋人どうしではなく、単なる先輩と後輩の関係だった。


 今日の先輩は、上にワインレッドのざっくりしたセーター、下にスキニーデニムと、カジュアルな格好で、来た。玄関で、アディダスのスニーカーを脱いで揃えながら、「前に来たときも思ったけど、あんたんちの玄関ええ匂いするな」と言い、それから、靴箱の上に設置している芳香剤を指差し、「これかな? これのお陰でええ匂いがするんかな?」と訊いた。「ドラッグストアで買った普通の安いやつですけど。先輩んちの玄関には芳香剤置かれてないんですか?」「置いてるけどこんないい匂いじゃない気がする。やっぱあんたセンスええわ。今履いてるスカートも可愛いし」そのスカートは、最近、贔屓の古着屋で、一目惚れして購入した、お気に入りの品だった。ありがとうございますと礼を述べた。


 身長が170センチ近くある先輩が入ると、部屋が、いつもより狭く感じた。私は、155センチしかない。しかし、狭く感じても、それ以上に、ものすごく素敵な空間になったような感じもした。先輩は、窓の外を眺め、「そういえばこのアパート、部屋からお墓が見えるんよな」と呟いた。「夜とかおばけとか、怖くないん?」と問われ、「怖くないですよ。私もう24ですよ」と答えた。「先輩だってもう29でしょ。もうすぐ30じゃないですか」と指摘すると、「やめて。おばけも怖いけど年齢はもっと怖い」と頭を抱え大袈裟におののくので、笑った。先輩は、本棚に興味を示した。「おっ。やっぱりあんた読書家やな。めっちゃ本あるやん。前来たときは酔っとったから、あんまり見れんかったけど。ちょっと見てええ?」「構いませんよ」先輩は、じっくりと本棚を観察し、「江國香織が揃っとる」「ここは村上春樹ゾーンか」「他は知らん作家ばっかやな」などと、呟いていた。その後ろ姿。うなじ、背中、お尻、ふくらはぎを眺めるうち、不意に、きつく抱き締めたい衝動に駆られたが、窓外に視線を逸らし、我慢した。自宅に招き入れて五分も経たないうちに抱き締めては、変態だと、踏みとどまった。窓の外、おもての空は、すっきり晴れていた。墓地の上に広がる、うすい青に澄んだ空と、ちぎって撒いたような雲は、水彩画みたいだった。きっと気のせいだろうけれど、いつかどこかで、こんな風景の絵葉書を見たことがあったような気がした。「気が済んだらベッドに座っといてください。私の部屋、ベッドに座らないことにはテレビが観にくいんですよ、位置的に」と告げ、「ワイン、赤と白どっちがいいですか」と質問した。先輩は、「白」と答え、「難儀な部屋やな」と呟きながら、ベッドに腰かけた。私は、台所に赴き、軽食を準備した。トマトとモッツァレラチーズを切り、バジル、オリーブオイル、胡椒をかけ、カプレーゼを作った。ミックスナッツと、ママレードを乗せたクラッカーを、小皿に盛った。白ワイン(チリ産)を、グラスに注いだ。「至極簡単なものですが」と述べつつ、それらをテーブルに乗せると、「いや充分。美味しそう。最高」と喜んでくれた。ナッツを一掴み口に入れ、「旨いっ」と叫んだので、「それは私が作ったんじゃありません」と突っ込むと、けらけら笑った。


 並んでベッドに座り、部屋を暗くし、食べつつ飲みつつ、映画を観た。先輩は、飲酒するとトイレが近くなる体質で、一時間四十分の上映の間、三回もトイレに立った。アルコールのせいか、「先輩の膀胱はバチカン市国並に小さいですね」「いやバチカン市国は膀胱にしては広大過ぎるやろ」「それもそうですね」「このバカチンが。バチカンだけに」「え? チンチンって言いました?」「言っとらんわ」などと、くだらないやり取りをした。三回目のトイレ休憩の際、先輩が、絶叫した。何事かと駆けつけると、「クモがいるっ」とのことで、確かに指差す先、トイレの床を、歯ほどの大きさのクモが、這っていた。摘まみ、「窓から逃がしときます」と伝えると、「虫、平気なんやな。逞しいな」と褒められた。「ゴキブリとかは無理ですけど、こんくらいの大きさのクモならいけますね。ていうか、虫、苦手だったんですね」「ゴから始まる虫なんか名前すら聞きたくないわ。Gって呼んで」「承知しました。G、G、G、G、G……」「Gの大群やめてっ」「ふふ、Gのゲシュタルト崩壊です」などと、意味不明なやり取りをした。


 先輩の目は、休憩時間を除き、上映中、常に画面に釘付けだった。私は、既に何度も観た映画だったこともあり、時折、右隣の先輩の横顔を、盗み見た。死ぬまで見ていたいと思うほど、綺麗だった。先輩は、観賞中、ずっとクッションを抱えていた。まとめて三個購入し、ベッドの上に置いている、うす緑色の、丸いクッションである。百円ショップで購入したが、一つ三百円だった。先輩は、恐らく半分無意識に、撫でたり、叩いたり、圧したり、摘まんだりして、クッションを弄んでいた。恥ずかしい話、私は、本気でクッションに嫉妬した。私には、好きな人ができたとき、その人の周囲のあらゆるものに、嫉妬する傾向があった。男女の別なく、人間と動物の別もなく、それどころか、生物と非生物の別すらなく、見境なく、はしたなく、手当たり次第に、嫉妬するのだ。クッションや、ベッドや、先輩の目を釘付けにする映画や、先輩の体内に取り込まれるナッツや、その他ありとあらゆるものに。それは、もしかしたら、私の性的嗜好が、特定の性別に定まっていないことと、何か関係があるのかもしれなかった。もしも私が、男だけを好きになる女だったとしたら、嫉妬の対象は、もしかしたら、女だけで済んだのかもしれなかった。考えたところで、詮無いことだが。


 上映終了後、先輩は、絶賛し、喋り倒した。「いやー、良かったわ」「あんたが勧めるだけのことはあるわ」「確かに泣きはせんかったけどな、でも泣かせりゃええってもんでもないって、分かるわ」「なんて言うかな、確実に感動はしたんやけど、ばーんって激しい感じじゃなくて、じーんって静かな感じ? こう、静かな森の中の泉みたいな感じ?」「いや、自分で言っといてアレやけどこの例えは意味不明やわ」「この映画は一生忘れられん気がする」「脳味噌の隅っこにへばりついて、ずっと離れん気がする」「まあ、とにかく面白かったわ」「全部に意味があるわけじゃないってのが、ええな。無意味なものの豊かさというか、なんと言うか」「人生も一緒かもな」「人生も、無意味なものの豊かさで成り立っとるんかもな」「私らが普段しとる仕事もたまに無意味さっていうか空虚さを感じることがあるけど、でも、そういうもんで人生って出来上がっていくんかもしれんな」「てか、恥ずっ。映画を語っとるつもりがいつの間にか人生を語っとったわ」「いい映画は人に人生を語らせるんかもな」「あのシーンが特に良かったな。主人公が余命僅かなことを知ってなお種を撒くシーン」「あれって一見無駄やけど、でも無駄じゃないんよな」「あれって、ある意味究極の愛よな」「まあ知らんけど、何となくそんな感じがしたわ」「とにかく面白かったわ。ありがと」先輩が挙げたのは、私も特に好きなシーンだったので、嬉しかった。映画の感想の後、思い出したように、「カプレーゼとかクラッカーとかも、ありがと。冗談抜きでどれも美味しかったわ」と言われた。「いや、そうはいっても買ってそのまま出したもんばっかりですよ」と謙遜したところ、「いやでもホンマに、サッとこんなんができたら、きっとええ奥さんになれるわ」と、たぶん悪気なく、私を褒めた。私は、水をぶっかけられたような気分になり、心がみるみる冷え、墜落し、暗然となるのを感じた。「ええ奥さんになれる」。その発言には、先輩が恐らく無意識に画した、私達の関係の限界が、透けていた。無論、傷ついた。無意識であることが、余計に、私を傷つけたのかもしれなかった。みぞおちの辺りが、きゅっと疼く感じがした。が、努めて笑顔を保ち、「先輩と付き合ってる私にそれを言いますか?」と、突っ込んでみせた。先輩は、「しまった」という声が透けて聞こえそうなほど、明らかに、狼狽した。明るい茶色の瞳が泳ぎ、艶のある唇が頼りなげに緩んだ。直後、先輩を狼狽させたことに、罪悪感を抱いた。自分の発言に、先輩を傷つけ返してやろうとの底意地悪い企みが、微塵も含まれていなかったかと問われると、否定しきれない、ということに、気づいてしまった。時を戻したいと、非現実的な願いを抱くほどに、発言を後悔した。にもかかわらず、だ。にもかかわらず、分かりやすく動揺する先輩の表情を見るうち、たちまち、抗いようもない力によって、安らぎを取り戻している自分に、気づいた。分かりやすさは、先輩の美点の一つなのだ。先輩の表情、仕草、言葉一つで、私なんかの悪感情は、吹いて飛ばされるのだ。自分の感情の、あまりの軽さ。あまりの取るに足りなさに、もはや、愉快な気分にならざるを得なかった。それは、ある意味、一周して、被虐趣味かもしれなかった。先輩の豊かな表情は、「強制的」に、私を幸福にさせるのだと、思い知った。そのような愉快な発見が、希望に近いものなのか、それとも、絶望に近いものなのか、その性質を、判別することはできなかったし、する必要も、感じなかった。とにかく、自分の卑小さが、心地好かった。途方もない気分になって、先輩から目を逸らし、窓の外を見た。霊園の上に、夕日が落ち、空が赤く、雲が棚引いていた。しばらく、沈黙が発生した。お互いが、ふぅと息を吐き、クールダウンしたような、ひと時だった。私は、先輩の目を見、先輩は、私の目を見た。明るい茶の瞳は、何度見ても、惚れ惚れする美しさだった。匂いも素敵だった。先輩の肌から、オリエンタル系の香水が香り、くらっと蕩けた。互いに、笑顔はなく、真面目な顔をしていた。真面目な顔といえばいいのか、無表情といえばいいのか、悟ったような顔といえばいいのか。できるだけ、わざとらしくならないように、でもやっぱり、どうしてもどこかわざとらしい顔をして、沈黙を延ばした。それを機に、私は、目的の行為に着手した。先刻、先輩に傷つけられ、その直後に癒された、被虐的な悦びの反動が、少なからず影響し、行動を促したのかもしれなかった。右手を、先輩の左頬に伸ばし、ゆっくり、指先が触れるか触れないか微妙な距離感、ほんの先っちょだけが触れるほどの距離感で、撫でた。先輩が、ちょっとこわばった。唇を、ムッとつむらせ、肩を、僅かにすぼめた。右腕をさらに伸ばし、掌を、先輩の後頭部に回した。自分の唇を、舌で軽く舐め、湿らせ(我ながら下品だと思うが、キスの前、ついしてしまう)、そして、右手で先輩の顔を引寄せ、自分の唇を、先輩の唇に触れさせようとしたところ、その間に先輩の掌が突如割り込み、「待って、ちょっと待って」と、言う。強引に、「待てません」と、押し切ろうと試みたが、「いや待って、ちょっと待って」と、繰り返された。先輩の顔には、さっきまでは無かったはずの、戸惑いの笑みが含まれており、もはや、不可逆的に流れが絶たれてしまったと知る。先輩の頭から掌を離し、訊く。「どうしたんですか」自分にさえ、声色に哀しみが滲んでしまっていることが分かった。「いや、違うんよ」「何が違うんですか。やっぱり無理でしたか? 告白されたから勢いで付き合ってみたけどやっぱり女とセックスするのは生理的に無理だったとか、そういうやつですか?」喋りながら、泣きそうになっているのを、自覚した。無闇に自傷的だし、相手も傷つけるしで、甚だ格好悪いことを知りつつも、止められなかった。「違う、違うって」「だから、何が違うんですか」「いや、なんて言うかな……」目を泳がせ、頬を赤らめ、煮え切らないので、「はっきり教えてください」と頼んだ。もしかしたらこの発言は自殺行為かな、と考えながらも、早く結論を得たい一心だった。何かを恐れている状態よりも、恐れた事態を実際に突きつけられた後の方が、いっそ平穏なのだ。先輩は、どもったり、同じ内容を反復したり、目を逸らしたり、じっと見詰めたりしながら、たどたどしく、長々と、喋った。


「いや、なんて言うかな」「まずあんたに伝えたいのは、嫌なわけじゃないってことなんよ」「ほんとに、全然嫌じゃないんよ」「もしかしたら信じられんかもしれんけど、あたし、ほんまにあんたのこと、好きなんよ」「好きっていうのは、ドライなやつじゃなくて、ちゃんと、いやちゃんとっていうのもおかしいかもしれんけど、こう、湿っぽい意味も込めて、好き」「だったらキスでもセックスでもできるじゃんかっていう、あんたの気持ちも分かる」「でも、なんて言うかな」「まだ機が熟してないというか」「時間が足りてないってことなんよ」「そりゃ、あたしらは職場での付き合いはそこそこ長いけど」「でも恋人どうしになってからは、まだ二週間そこそこじゃんか?」「恋人になってから二週間でキスとかセックスって、ちょっと早くない?」「いや、あんたの言いたいことは分かる」「あたしももう30目前やし、告白して付き合って三ヵ月待ってセックス、とか、そういう定型的な恋愛に拘っとるわけじゃないんよ」「正直言うと、もしあんたが男だったら、別に今の場面でキスでもセックスでもできたと思うし、なんなら別に告白とかなくてもセックスはできるし」「でも、今回はそうじゃないやんか」「あんたにとってはある程度慣れた恋愛の形なんかもしれんけど、あたしにとっては初めてやんか」「だから、まだちょっと、時間が要る。かな」「ほら、あんたにも初めての恋愛ってあったと思うんやけど」「初めての相手って、めっちゃ好きだとしても、でもキスとかセックスはまだできんっていう、そういう時期、なかった?」「好きだけどまだ早い、っていう、そういう時期、あったやんか?」「それなんよ、今、あたし、それなんよ」「つまり、未知なんよ」「人間、未知のものはやっぱりどうしても恐くて、だから、慣れるまで時間が要るやんか」「だから、わがままっぽいのはわかっとるけど、もう少し待ってほしい」「待たされるくらいなら別れるってあんたがいうなら、あたしはそれでも構わん。仕方ないと思う」「いや、ほんとは全然構わんくはないんやけどな。でも、仕方ないとは思う」「申し訳ないけども、今はまだ」「そのときが来るまで、待っといてほしい」「うん、あたしの気持ちはこんな感じ、かな」「うん……そんな感じ……」「やっぱり、がっかりした……?」


 全くがっかりしなかったと言えば、嘘になる。が、青天の霹靂というわけでもなかった。先輩が看破した通り、私にとって、女性との交際は、初めての経験ではなかった。これまでにも、当初、性的行為に対し、先輩と同様の反応を示す人は、いた。徐々に慣れ、のちに行為を達成した人もいたし、できなかった人もいた。心配する必要はないこと、先輩と別れる意思は毛頭ないこと、いつまでも待つことを伝えると、先輩は、「良かったぁ」と、微笑んだ。その微笑だけで、強制的に、問答無用で、私は満ち足りてしまう。それから先輩は、やや盛り下がった空気を替えようとしたのか、唐突に、「あんた、クモも掴めるし、お化けも怖がらんし、逞しいというか、男らしいもんなあ。だから、女のあたしを好きになってくれたんかもしれんなあ」と言った。これについては、確実に訂正しておきたかった。「私は、先輩が女だから好きになったわけじゃないです。男でも良かったと思います。性別は、何でも良かったんです。先輩が、女だから好きになったんじゃなくて、先輩が、先輩だから、好きになったんです」約二秒間の沈黙の後、「おお、マジの愛の告白やん。ありがと。なんか照れるな」と、若干、茶化された。きちんと伝わったのか、伝わらなかったのかは、分からなかった。伝わっていればいいなと思った。たとえ今伝わっていなくとも、追々、時間をかけて、伝えられたらいいなと思った。認めなければならない。多くの人々にとって、同性愛は、時間のかかる営みなのだ。


 夜、近所の蕎麦屋に入った。古い、お洒落でない、地味な蕎麦屋である。店内の隅にはテレビが設置されており、自然系のドキュメンタリー番組が映っていた。雌ライオンの群れが、キリンを囲んでいた。先輩はざる蕎麦を、私は鴨南蛮蕎麦を、注文した。先輩は、「ざる蕎麦はな、最初は、こう、つゆに浸けずに、そのまま食べるのが通なんよ」と、一所懸命、解説していた。可愛かった。そうですか、なるほどぉ、さすが先輩、などと、適当に相槌を打った。鴨南蛮蕎麦には、ひょうたん型の容器に入った山椒が付いてきた。ふんだんに投入したところ、かけすぎやろと指摘された。「山椒って、美容に良いんですよ。山椒にはサンショオールと呼ばれる辛味成分が入っていて、これには胃腸の機能を高めたり代謝を改善したりする効能があるんです。さらにシトロネラールという成分には抗不安作用、抗炎症作用があるとされてます。ね? 山椒って美味しいし身体に良いし、凄いでしょ?」と解説したところ、「詳しすぎてちょっとキモいわ」と言われた。「あんた、クモ掴めたりするしけっこう強引だったりするし一見男っぽいけど、やたら美意識が高いとこは女っぽいし、ようわからんな」「私は私らしいだけです」「おっ名言やな」「先輩、そうやってすぐ茶化す癖がありますよね。関西人だからですか?」「性格かな。なんて言うか、照れ臭いのが苦手なんよ」それは、よく知っている。テレビをちらと見ると、雌ライオンが、キリンに、蹴飛ばされていた。同じ場面を見た先輩が、「うわ痛そ」と呟いた。先輩は、私よりも随分早く食べ終え、テレビや、私を、まじまじと見ていた。私は、鴨を噛んだ。狩りを成し遂げたライオンが、肉を喰らっていた。


 蕎麦屋を出、細い月が浮く空の下、アパートまで歩いて帰った。途中、無言で先輩の手を掴んだが、先輩も無言だったので、そのまま、繋いで帰った。帰宅後、順番に入浴し、それから、深夜まで飲酒した。趣味のこと、仕事のこと、家族のこと、大事なこと、くだらないことを、たくさん喋った。喋り疲れ、寝た。同じベッドで、身を寄せ合って。勿論、文字通り「寝た」だけだ。


 素敵な日は、あっという間に過ぎる。翌日、先輩は、実家に帰省する予定があるとのことで、早くに出発しなければならなかった。目覚めると、先輩は既に起きていて、朝食に、卵と葱の雑炊を作ってくれていた。「ごめん、勝手に台所と食材借りたわ」葱を刻む後ろ姿を見ると、またしても、抱き締めたい衝動に駆られたが、危険なので、止めた。抱き締めた上で、「帰らないで」と乞いたい衝動にも駆られたが、実現可能性に乏しい哀願も不毛なので、止めた。代わりに、事実を述べるに留めた。「今、先輩に、帰ってほしくないと思ってます。とても強くそう思ってます」先輩は、振り返らず、葱を刻み続けながら、感情の読めない口調で、「でも、帰るよ」「分かってます。言ってみただけです」。口に出せば切なさが減るとでも、愚かしくも考えたのかもしれなかった。雑炊は充分に旨かったが、先輩は、「生姜があったらもっと美味しくできたのに!」とぼやいていた。


 帰り際。玄関で、屈み、スニーカーの靴紐を結びながら、「昨日、楽しかったわ。ありがと」と先輩は言った。その発言は、私に、素晴らしい時間の閉幕を痛感させた。あと一分も経てば、先輩は帰ってしまう。今更、焦った。何か、言わなければならないと思った。今回の宿泊を最後に彩る、私という人間に好い印象を抱かせる、先輩を幸福にできるような、何か、特別な言葉を。でも、どんな言葉も、思い浮かばなかった。黙った。先輩は、身長が170センチ近くあるが、今は、靴紐を結ぶために屈んでおり、顔が、低い位置にあった。苦手なのか、蝶々結びに、時間がかかっていた。言葉の代わりに、なんて表現は、気障で、いけ好かないと思っていたが、顔を寄せ、頬に唇をつけた。先輩は無言で、すっくと立ち上がり、にやにやしながら、私の肩をパンチした。「痛っ」「じゃあまた、バイバイっ!」それだけ言い残し、さっさと帰ってしまった。


 私は、この初めてのキスの場面を、それから何年もの間、幾度となく回想することになった。その度、照れたり、悦に入ったり、にやにやしたりした。だから、次に述べるのは、その過程の中で、ずっと後になってから思い至った、一つの可能性に過ぎない。あのとき、やたらと長い時間をかけて靴紐を結んでいたのは、もしかしたら、先輩の策略だったのではないか? 故意に長時間、低い位置に顔を置くことで、私の行動を促したのではないか? 私は、先輩の思惑通りに、踊らされたのではないか? 直接的証拠は、何もない。しかし、何故か確信がある。この問題の回答は、未だに、確かめられないでいる。


 先輩のいない自室に戻ると、寂しかった。部屋が、私が、虚ろだった。何をする気力もなく、ベッドに転んだ。クッションが、視界に入った。うす緑色の、丸い、先輩が弄んでいたクッションである。それを手に取り、抱えた。先輩がしていたように、撫で、圧し、摘み、そして嗅いだ。淡く、微かに、先輩の匂いがした。抗い難い欲を、催した。気づくと、私は、指を股間に伸ばしていた。自慰に耽った。撫で、圧し、摘まんだ。妄想の中で、私と先輩は、色々なことをした。色々な言葉を発し、色々な格好になった。色々な場所に触り、色々な声を漏らした。色々な痴態を晒し、色々に愛し合った。昨晩、期待していたけど実現できなかった、実に色々なことを、先輩にさせた。昨日はできなかったけれど、いつか絶対にしたいと、猛烈に思った。そして突然、雷に打たれるように、一つの天啓を得た。即ち、これは本能に違いない、という天啓だった。人間は、異性を愛するのと同様に、同性を愛することをも、本能としてプログラムされているに違いなかった。私を突き動かす、これほどの欲望が、本能でないわけがなかった。私は、神様が人間を特別に造ったとは信じていなくて、人間も、他の動物と地続きだと考えていた。だとしても、この、遺伝子を遺す上で無価値の、役立たずの欲望が、本能ではないとは、どうしても思えなかった。私は、遺伝子に操られているのではない。遺伝子は、本能の全てを規定しきることはできない。私の本能は、遺伝子から、隔絶されていた。あるいは、溢れていた。はみ出ていた。遺伝子を遺せないとしても、生殖不可能だとしても、エネルギーの無駄だとしても、私は、本能で、先輩を欲していた。


 くたくたになるまで一人でして、いつの間にか、眠っていた。起きると、三時間も経っていた。やっぱり、何もしたくなかったけれど、自分に活を入れ、スーパーマーケットに行く準備をした。買っておかなければならないものが、山ほどあった。どんなに素敵な日の後も、生活は、続くのだ。着替え、化粧を済ませ、メモ用紙を用意し、買うべき品を列挙していった。私は、記憶力が悪く、メモなしでは、まともに買い物ができた試しがなかった。買うべきものを、書き連ねた。りんご、バゲット、オートミール、ほうれん草、小松菜、ブロッコリー、もやし、キムチ、木綿豆腐、卵、炭酸水、粉末青汁、白ワイン、ウイスキー、インスタントコーヒー、醤油、ぽん酢、アイスクリーム、ポップコーン、甘納豆、シャンプー、洗顔料、衣類用洗剤、食器洗剤、トイレットペーパー、ティッシュペーパー、アルコールタオル…………。それから、思い出し、生姜を書き加えた。


 おわり

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