卒業式の思い出

卒業式の思い出

 大量生産された事務的なパイプ椅子にお行儀よく座らされ、延々と続く校長の長話を聞かされている。人生のうちで最も退屈で最も無駄な時間のひとつだと思う。たとえそれが卒業式の挨拶であっても、だ。


「長くない?」わたしは左隣に座る内山に話しかけた。もちろん、卒業式の厳粛な空気を壊さぬよう、密やかな声で。


「長いね」内山も密やかな声で同意した。「でも、一生に一度の式なんだから、今日くらいちゃんと聞いておこうよ」


 いかにも学級委員らしい糞真面目な発言。面白くない。少しからかうことにした。


「そんな真面目くんじゃあ、大学で女にモテないよ」


 わたしはとっておきの台詞を口にした。18歳やそこらの男子なんて、どいつもこいつも判で押したようにモテることしか考えていないのだ。「そんなんじゃモテないよ」ほど彼らを動揺させる台詞はない。彼らの思考体系と行動様式はほぼ猿と相違ない。わたしはその単純さを軽蔑し、嘲笑し、でも少し羨望している。シンプルな動機とシンプルな目的とシンプルな人生。


「確かに君にはモテないかもね。でも、好いてくれる人に好かれれば、ぼくはそれでじゅうぶん。量より質だよ」


 内山は生意気にも口答えした。やはり彼はどこまでも真っ直ぐで糞真面目だ。自分で自分の成すべきことを決め、それに従う。女が入り込む余地はない。以前から知っていたことだ。わたしは喋るのが面倒になったので「あっそ」と吐き捨て、会話を終了させた。


「若い皆さんの目の前には無限の可能性が広がっており…」


 相変わらず校長は退屈な話を続けている。実際のところ、本人も飽き飽きしているのではないか? 一週間前の天気予報を聞くほうがよほど心躍りそうだ。だいいち、退屈なだけじゃなく、情報が不正確であるから一層たちが悪い。


 無限の可能性。


 無責任に口にするな、と思う。わたしたち卒業生のなかにいったいどれほど、家庭の事情で進路を制限される人間がいるのか、あなたは知っているのか? 


 本人は進学を望んでも、実家の稼業を継がなければならない人もいる。経済的な事情で叶わない人もいる。奨学金なんてのも聞こえは良いが要は単なる借金だ。


 確率のお勉強ができなくてもわかる。統計学を知らなくてもわかる。耳触りの良いキラキラした言葉や幻想に惑わされず、普通に生きて現実を見つめていれば、わかる。


 可能性はいつだって有限だ。大抵の場合においてひどく制限されている。


 でもまあ、わたしの場合は比較的恵まれているのだろう。きっと、親や社会に感謝しなければならない立場なのだろう。何はともあれ、大学に進学できるのだから。希望した学校・学部ではないにしても。


 わたしは、両親に進路の希望を打ち明けたときの会話を思い出した。


🏫


「文学部? 文学をやってそれが何の役に立つんだ? そんなんで無事に就職できるのか?」


 ビールの入ったコップをテーブルにドンとぞんざいに置き、向かいに座る父は不機嫌そう問うた。父の隣に座る母は無言だったが、表情からは父と似たような意見を有していることが察せられた。


「文学部は文学部でも、哲学科に行きたいんだけど」

「で、哲学は何の役に立つんだ?」


 このとき、わたしが哲学の有用性とそれを学ぶメリットについて熟知した上で効果的なプレゼンテーションを展開できていれば、それで良かったのかもしれない。でも、わたしの哲学への興味は社会的な有用性に基づくものではなかった。ただ、自己の内面的な問題に対してアプローチするひとつの手段になり得るかもしれないとの漠然とした憧憬に過ぎなかった。そんな曖昧かつ個人的な理由では両親の説得など不可能だった。わたしは黙り込むしかなかった。


「それに、地元の○○大学には文学部なんてないだろう」父は言った。

「うん」わたしは認めた。

「文学部哲学科に進学するなら県外に出る必要があるんじゃないのか?」父は言った。

「うん。東京の大学なんだけど」わたしは認めた。

「県外で一人暮らしするには、余計に金がかかる。それはわかるよな?」父は言った。

「うん」わたしは認めた。

「無駄な金をかけて、無用な学問に精通する。そんなことってあるか?」父は言った。

「有用か無用かはわからないけど、興味があるから」わたしは言った。

「興味だけじゃあ腹は膨れない。金も稼げない」父は言った。

「うん」わたしは認めた。

「ちょっと前までは地元の○○大学の法学部に進学するって言ってたじゃないか。法学部は潰しがきくからいい。公務員試験にも有利だ」父は言った。父は法学部を出て県庁に勤めている。公務員の安定した給与で、母さんとわたしを食べさせている。父は立派に責任を果たしている。わたしみたいに、ただ漠然と興味があるからなんて理由で人生を決定したりはしない。

「○○大学の法学部でいいんじゃないかなあ。俺はそう思うけどなあ」父は言った。

「うん」わたしは認めた。


 父と母の表情が少しほぐれた。これでひと安心、との心の声が聞こえてきそうだった。


🏫


 このようにして、わたしは地元の大学の法学部に進学することになった。既に合格発表は終えているので、わたしは何の緊張も不安も抱えずリラックスして今日の卒業式に参加している。あと1ヶ月も経てばわたしは大学生なのだ。


 所詮、わたしの哲学への関心なんてのは、両親を説得することさえできないほどの、脆弱な気まぐれに過ぎなかったのだ。そう思うことしている。


「皆さんは若い。その若さと有り余るエネルギーを活かし…」

 

 校長はまだ話をやめない。中身のない抽象的な助言を壊れたラジオのように延々と垂れ流している。わたしはぼんやりと校長の頭を眺めてみる。つるつるにハゲあがった頭。わたしは暇をもて余して下らないなぞなぞを作成する。


 問題です、この体育館のなかで最も輝いているものはなあんだ、ぶぶう、不正解、卒業生の笑顔ではありません、正解は校長の頭部です。


「ですから、リスクや失敗を恐れず、果敢に新しい物事に挑戦してほしいと…」


 リスクや失敗を恐れず、か。


 公務員がよく言うよ。教員なんて安定の権化のような身分じゃないか。


 なんとなく、左隣の内山をチラッと盗み見る。校長の話に熱心に耳を傾けている。真面目だ。彼も既に、東京の美大への進学が決まっている。それにしても内山が美大とはね、とわたしは何度でも新鮮に驚く。


 内山は抜群に成績が良かった。彼の学力なら東京大学だって余裕で合格していただろう。だから、彼から美大を目指していると聞いたときはとても驚いた。目玉が飛び出て地球を3周くらいしてまた戻ってきてすっぽりはまるくらい驚いた。「勿体ない!」と地球上の全人類が共感するであろう感想を述べたわたしに対して、内山は落ち着いて答えた。「そうかもね。でもぼくの人生だから」。いったい彼はどうやってご両親を説得したのだろう? ご両親はわたしよりももっと驚いたはずだ。目玉が地球を10周くらいしてそのまま戻ってこなかったかもしれない。


 意思の固さがまるで違う、とわたしは思った。自分の人生を自分で切り拓かんとする意欲の差。「無限の可能性」なんて言葉はきっと、彼のような人間のために存在しているのだ。なんだかんだと反発しながらも、結局最後には流されて長いものに巻かれる、わたしのような人間のためではなく。


「これからの長い人生、苦境に立たされることもあるかもしれません。しかし、決して諦めず投げ出さず、全力を尽くし、未来を信じ、自分を信じて、一歩一歩進んでほしいと…」


 未だに校長が喋っている。しかし内容から推察するに、永遠のように長かったありがたいお話もそろそろ終盤に差し掛かっているようだ。さりげなく周囲を見渡してみると、わたしだけでなく、ほとんどの人間が退屈そうにしていた。卒業生も在校生も教員も皆が一丸となってこの苦行に耐えている。在校生のなかには明らかに眠っている者もちらほらいる。わたしも眠い。校長が活動すべき施設は学校ではなく不眠症患者がいる病院ではなかろうか?


 さて、このようにして何事もなく退屈に進行していた卒業式であったが、校長の挨拶の終盤、ちょっとした事件が起きた。


「あーっ!!」


 つい先程まで起伏と面白みに欠けた話を続けていた校長が、突然大声で叫んだのだ。その絶叫によって、退屈や眠気と格闘していた卒業生、在校生、教員ともどもが、一斉に校長に注目した。もちろんわたしも校長を見た。校長は驚愕の表情を浮かべており、左手を口に当て、右手の人差し指で体育館の出入口の方向を指している。つまりステージに立っている校長とは逆の方向だ。それを見たわたしたちは反射的に彼が指差すほうに振り向いた。


 しかし、校長が指差した方向には、別段見るべきものは存在しなかった。いつも通りの出入口がいつも通りに静かに存在していた。


 いったい、今の校長の絶叫は何だったのだ? 


 きっと誰もがそのように困惑し、疑問を抱えながら、校長のほうに向き直ったと思う。そして、全員が度肝を抜かれたと思う。体育館全体から「えっ…」という動揺と驚愕の声が洩れた。


 ついさっきまでつるつるにハゲあがっていたはずの校長の頭部に、髪が生えていたのだ。それも、白人女性のような金髪のサラサラロングヘアーだ。


 ふさふさだ。ちょっと目を離した隙に校長がふさふさになってしまった。


 体育館全体がにわかにざわつき始めた。当然だ。だって一瞬にしてつるつるがふさふさに化けたのだから。しかし校長は人々の動揺には構わず、冷静に挨拶をしめた。


「えー、以上で、わたくしからの挨拶とさせていただきます。ご清聴ありがとうございました」


🏫


 内山の東京行きを二日後に控えた木曜日の午後、わたしは地元の喫茶店で彼と会う約束を取り付けていた。


 彼は今、わたしの正面で背筋をピンと伸ばしてブラックコーヒーを粛々と啜っている。注文する品や飲む姿勢からも糞真面目が滲み出ている。わたしは綺麗な緑色のクリームソーダを飲んでいた。店内はじゅうぶん過ぎるほど暖房がきいていて、冷たくて甘いそれは心地よかった。


 喫茶店に入って最初の5分くらいは、二人のあいだに気まずさが漂っていた。学校では親しくしていたけれど、二人だけで出掛けたことはなかったのだ。でも、すぐに彼は学校で喋っていたときのような調子を取り戻したようだった。


「やっぱり、東京の利点は美術館が多いことだね。夏休みには美術館巡りをしようと思ってるんだ。今から計画を立てるのは早すぎる気もするけど、善は急げというか、気になって仕方ないというか」

「うん」

「もちろん、ただ楽しむだけじゃなくて、デザインの勉強も兼ねてだよ? ぼくは今まで美術にそれほど深く慣れ親しんできたわけじゃないから、他の同級生に比べて知識でも技術でも遅れをとってると思うし」

「うん」

「ああ、楽しみだなあ。思う存分デザインの勉強ができるなんて、素敵じゃない?」

「そうだね」


 内山は二日後に迫った東京行きを、目を輝かせて楽しげに語っていた。まるで夢の世界にでも行ってしまうかのようにうわずった喋り方で。


 あまりにも真面目に未来を見据えていて、あまりにも健全でいつも通りの内山みたいな様子だったから、わたしは苛立ちを感じていた。


 東京に行く直前に女子に呼び出され、二人だけで会っているこの状況でさえ、彼は俗物的な期待をしないのだろうか? 純粋に夢を語る場として、このシチュエーションを捉えているのだろうか? わたしが何の下心も持たずにこの場を設定したと、本気でそう考えているのだろうか? 


 君なんて眼中にない。そう宣言されているような気がした。


 彼が喋る様子が楽しそうであればあるほど、苛立ちがつのる。彼を素直に祝福できない自分に気づいて、自分が嫌いになる。綺麗な彼と汚いわたしのコントラストがくっきりと明確に浮かんで、容赦なく突き付けられる。


 東京に行く彼と、地元に残るわたし。夢に溢れる彼と、夢がないわたし。希望を語る彼と、それを聞いて苛立っているわたし。


 わたしはこれ以上自分を嫌いになりたくなくて、強引に話題の転換を試みた。


「そんなことより」


 少し大きめの強い声でそう言った。彼は喋るのをやめてじっとわたしを見た。怪奇現象でも観察するかのような、不思議そうな目で。


 でも、彼がそんな表情を見せたのはほんの一瞬だけだった。すぐに柔らかい笑顔になって「そんなことより、何?」と訊いてきた。その笑顔があまりにも優しすぎたので、わたしは死にたくなった。彼のような聖人から話題を奪おうとしている自分は、途方もなく罪深い極悪人だと思った。泣きたくなった。でも死ぬことも泣くこともできないので、クリームソーダを少しだけ飲んで、もがくように心を整えた。炭酸のぴりぴりとした爽やかな刺激が、ちょっと痛かった。


「卒業式の校長のアレ、何だったんだろうね?」わたしは努めて平然と、朗らかに、言った。

「ああ、アレね」


 卒業式の挨拶の終盤、校長に一瞬にして髪が生えたあの事件。無論、どんなに強力な育毛剤をもってしてもあれほどの短時間に髪を育てるのは不可能なので(しかも金髪だったし)、あの場の全員の注意を逸らした隙にかつらを被っただけであるのは、もはや確定的な事実だ。しかし、校長がそのような突拍子もない珍妙な行動に出た目的や動機や原因や意図は、未だ深遠な謎に包まれ手つかずのまま放置されていた。


「内山は、どうして校長はあんなことをしたのだと思う?」

「神は死んだ、しかし髪は死なない! という校長先生からの哲学的メッセージ」

「ふざけないで」

「ごめんごめん。そうだなあ…」


 内山は長考を開始した。やはり真面目だ。考えてほしいと頼まれれば考える。依頼から承諾までの過程には、心の歪みや捻れは一切介入する余地がない。


 彼は空中の一点をぼんやりと見つめながら、右手で顎を触っている。右手で顎を触るのは、彼が何かを考えるときのクセだ。三年間も同じクラスに属して毎日顔を合わせていれば、個人的なクセや仕草はある程度自然に把握できてしまった。もっとも、単にわたしが彼を見すぎていただけかもしれない。それはわからない。


「冗談じゃなく、あれは校長先生のメッセージだと思うんだ」

「どういうメッセージ?」

「ハンデを背負った者への鼓舞」

「…?」


 つまりね、と内山は続けた。


「校長先生の挨拶は確かに素晴らしかったよ。君たちの前には無限の可能性が広がっている、失敗を恐れず挑戦しなさい、未来と自分を信じて頑張りなさい。確かに素晴らしい挨拶だ。ケチのつけようがない。でも内容が正しくても、いささか綺麗事過ぎる面も否めないかもしれない。特に、卒業後の進路において何らかの制限を受けていて、ひいては人生自体に不利な条件を背負っているような人にとっては、なおさら、ね」


 そこで内山は一旦言葉を切り、わたしを見た。わたしは「うん」と間抜けた返事しかできなかった。


「でも、校長先生の立場上、『ハンデを背負った人』に明白に言及するわけにはいかない。他の教員も保護者も参加しているあのおめでたい卒業式で、縁起でもない話はできない。だから苦肉の策として、かつらを被った」

「どうしてかつらを?」

「『すっかり髪がなくなってしまった私でも、工夫をすれば髪があるようにも見せられる。持たざる者は持たざる者なりに工夫して足掻きなさい』というメッセージを込めた。『たとえ他人から滑稽だと思われようとも、精一杯足掻きなさい』と。校長先生はそのメッセージを、言葉ではなく態度で表明した。口が上手い大人は腐るほどいる。でもあんなに捨て身になれる大人は、そうそういない」


 そこまで喋ると、内山はカップを持ち上げてコーヒーを啜った。考察が終了した合図だろう。


「うーん…」

「納得いかない?」内山が訊いた。

「突然かつらを被るって、相当な捨て身だと思うんだけど。それをする勇気があるなら、『ハンデを背負った人』について喋るくらい余裕でできるような…」

「捨て身だからこそ、行動が意味を持つんじゃないか? 勇気が必要だからこそ、校長先生の真剣さが伝わるんだよ」

「真剣さ、ねえ」


 真剣…あの金髪のかつらが?


「あるいは、単純にふざけただけかもしれない」内山が新説を提示した。

「何のために?」わたしは訊いた。

「卒業したあともこうやって、ぼくたち卒業生に話題を提供するため。遠い未来、同窓会でぼくらはぜったいに喋ると思うんだ、『あれは何だっだんだろうね?』って。きっとそれは楽しいよ」

 内山はにっこり笑って言った。こちらが泣きたくなるくらい、素敵な笑顔で。


「確かにそうだね」わたしも微笑んでみせた。


 わたしには、新説のほうがもっともらしく聞こえた。


 同窓会。それは何年くらい先に開催されるのだろう? その時まで、わたしと内山が会うことはないのだろうか。今日この喫茶店を出て別れれば、同窓会の日まで、ずっと? 普通に考えればたぶんそうなるのだろう。でも、その「普通」はひどく違和感を抱えた不自然な展開に思えた。数年先、あるいは数十年先なんて、ほとんど永遠のように遠い未来に思えた。


 内山が腕時計をちらっと見て「じゃあ、そろそろ」と言って伝票を掴んだ。わたしも「うん、そうだね」と言った。でも本当は全然帰りたくなんかなかった。この喫茶店を出てしまえば、わたしと彼はもうずっと会えない。


 クリームソーダのグラスのなかで、最後まで食べきれなかったバニラアイスクリームが溶けていた。せっかくの綺麗な緑色が醜く白濁していた。


🏫


 わたしたちは喫茶店を出た。三月下旬の午後の屋外は、間抜けなほどにぽかぽかとした陽気だった。告白する勇気のないわたしを空全体が嘲っているみたいに、朗らかだった。店の前の道路を多くの人が行き交っていた。あの人たちは皆向かうべき場所があるのだろうか。


「内山は明後日には東京に行くんだよね。明日は何をする予定なの? 地元で過ごす最後の一日」


 喫茶店の前でわたしは訊いてみた。でも質問の内容なんてなんでも良かった。ただの時間稼ぎだった。話を途切れさせなければ彼は帰れない。


「明日は友達と会う予定が入ってる」

 彼は、なんでもないことのように言った。

「そうなんだ」

 わたしも、なんでもないことのように言った。


 結局、そういうことなのだ。わたしが約束を取り付けることができたのは、東京に行く前日ではなく、二日前。前日は、彼にとってもっと大事な別の人のために用意されている。わたしのためではない。


「じゃあ、またね」彼が言った。話を途切れさせずに彼を引きとめておく作戦は、あっけなく失敗したみたいだった。


「うん、じゃあ、また」わたしは言った。言いながら、「また」とは一体いつのことなのだろうと考えていた。「また」はこんなにも頼りない言葉だったろうか? この場で口にされた「またね」は、学校で毎日のように口にしていた「またね」とは、意味がまったく違っていた。実質的には次回の出会いは保証されていなかった。


 彼はかすかに笑顔を見せてから、歩き出した。彼の自宅に近づく方向へ。わたしから離れる方向へ。


「待って」


 思わず口に出していた。彼は足を止め振り向き、「何?」と訊いた。わたしは黙り込んだ。彼を引きとめる正当な理由も、語るべき話題も、わたしはこれっぽっちも持ち合わせていなかった。後先考えない反射的な発言だった。わたしたちとは無関係な街の人々が、わたしたちとは無関係に道路を往来していた。


 一人の女性が側を通り過ぎていった。もちろんまったくの赤の他人で名前も顔も知らない人だったのだけれど、わたしは彼女に目を惹かれた。


 地方都市には珍しい白人だったからだ。彼女は美しい金髪をなびかせながら通り過ぎていった。


 日光を浴びて燦然と輝く金髪は、わたしに校長のかつらを連想させた。脳内に映像として浮かんだ卒業式での校長のかつらは、さらに内山の考察を連想させた。


 足掻きなさい。たとえ他人から滑稽だと思われようとも、精一杯足掻きなさい。


「好きだった」


 半ば無意識に言っていた。口にふくんだ飴玉が、ぽろっと飛び出るみたいにして。


 この日はうららかな陽気だった。雨も風もない、穏やかな天気だった。何の事件も起こりようがない、平和な一日だった。のどかだなあ。わたしは思った。


 彼は少しだけ微笑んで言った。


「ありがとう。知ってたよ」


 わたしたちとは無関係な街の人々が、わたしたちとは無関係に道路を往来していた。きっとそれぞれに何らかの目的があり、それぞれの人生があり、何処かに向かっている最中なのだろう。冬服を着ている人と春服を着ている人が混在していた。あの人はカーディガン、あの人はトレンチコート。あの人はマフラーを巻いている。なんだか無秩序だなあ。


 わたしはふうっと小さなため息をひとつついた。そして、「それだけ。じゃあね」と言い残し、その場を立ち去った。


 伝えるべきことを伝えたわたしは、彼とは反対方向に歩き出す。ずんずん歩く。目的は無事達せられた。良かった良かった。あとは帰宅するのみ。さあ帰ろう。帰って読書でもしよう。何を読もうか。そういえば読みかけの推理小説があったな。あれを読もうか。でも序盤の話をもう忘れちゃったかな。最初から読み直さないといけないかも。ていうか、絶対あの女執事が犯人だよな。いちばん怪しくないってのがいちばん怪しいんだよな。


 頭のなかで校長が言った。


 足掻きなさい。


 そうだ。哲学なんて、家で一人でだって勉強できる。何も大学にこだわらなくていいんだ。帰りに書店に寄って哲学書を買おう。何がいいかな。ニーチェとか格好いいかな。神は死んだ! でも髪は死なない! なんてね。


 それにしても、「知ってた」と来たか。つい先ほど内山に言われた台詞を思い出し、わたしは可笑しくなる。実際にくすくすと笑ってしまう。ひとりでくすくす笑いながら歩く女。客観的に見れば完全に不審者だ。


 本当に眼中になかったんだな。清々しいほどのふられっぷり。考えうる限り最悪のふられ方だ。まあ、大体予測はついていたのだけれど。


 頭のなかで校長が言った。


 足掻きなさい。


 ちょっとだけ後ろを振り返ってみた。もう彼はいなかった。わたしとは無関係な人々だけが、わたしとは無関係に街を往来していた。わたしは再びずんずん歩き出す。もう二度と振り返らない。


 さて、書店でニーチェの入門書でも買って、家に帰ったら読んでみよう。きっと面白いはずだ。ニーチェだけに限らず、興味の赴くままに哲学書を読み漁ってやろう。なんだかわくわくしてきたな。校長の言う通りだ。若いわたしの前には、無限の可能性が広がっているのだ! 


 でも。


 哲学の勉強は、明日から始めようかな。今晩だけは、本を読むのはやめておこうかな。今晩だけは、ゆっくり休もうかな。


 わたしは未だにくすくす笑いが抑えられない。なんだか歩くのが面倒になって足を止めた。


 うつむいて地面を見た。黒々としたアスファルト。その黒色が、すこしぼやけた。


 やはり、今晩だけは、勉強はできそうにない。そう、思った。

 

 視界が滲んで、活字なんてまともに読めそうになかったから。


🏫


おわり

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卒業式の思い出 @mame3184

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