帰宅するとパンダが部屋でくつろいでいた

帰宅するとパンダが部屋でくつろいでいた

 同僚たちとの飲み会でくたくたに疲労困憊してから帰宅すると、わたしの部屋でパンダがくつろいでいた。こたつに下半身を突っ込んで座り、みかんをむしゃむしゃと咀嚼しながら、熱心に雑誌を読んでいる。


 わたしは、おかしいな、と思った。戸締まりはきちんとしたはずだし、わたしが住むこのマンションのエントランスはオートロックだ。入居者を女性に限定しているこのマンションの最大の美点は、セキュリティの固さだ。見知らぬパンダがそう簡単に侵入できるとは思えない。侵入可能な者が存在するとすれば、建造物のセキュリティに関する豊富な知識を備え、かつ解錠の実務に精通した専門家くらいのものだ。そして言うまでもなく、建造物のセキュリティに精通したパンダなど、いない。よって、パンダがここにいるのはあまりにも不自然な事態である。


 いやそれよりも、とわたしは思い直す。日本においてパンダはかなり貴重な存在だ。野生には生息しておらず、飼育している動物園も、東京上野動物園、神戸市立王子動物園、和歌山県アドベンチャーワールドの3カ所に限られている。普通に考えれば、うだつの上がらぬ一介のOLに過ぎないわたしの部屋などには、いるはずのない生物なのだ。しかし、いる。あまりにも自然な感じで、いる。


 パンダは、「お邪魔していますよ」と雑誌から目を上げぬまま挨拶した。まるで仲の良い親戚のおじさんのごとく、当然いてもいいでしょ、との意思が言外に滲み出すような言い方だった。声も、穏やかなおじさんみたいな優しい声だった。その堂々たるおじさんぶりにわたしは圧倒され「あ、どうも」と気弱な返事をしてしまった。ここはわたしのホームのはずなのだが。二重の意味で。


「パンダさんはどちらから来られたのですか?」わたしは恐る恐る訊いてみた。


「和歌山のアドベンチャーワールド。アドベンチャーワールドって大袈裟な名前だよね。冒険世界。パンダがぼんやり笹食ってるのが一番の見所なのにね」


 わたしが住んでいるこのマンションは東京に建っている。新幹線に乗って和歌山から東京にやって来たのだろうか? ひとりで? チケットを購入して? パンダが?


「あと、アタシの名前はエイメイね。よろしく」

「あ、よろしくお願いします」

「マキちゃんも疲れたでしょ。こたつに入りなよ」

「あ、はい。ありがとうございます。失礼します」


 わたしはエイメイさんの許可を受けておずおずとこたつに入った。ここはわたしのホームなのだが。


 ところで、どうしてわたしの名前を知っているのだろうとの疑問が一瞬脳裏をよぎったが、それよりももっと不条理な出来事がいくつも起きているので名前の件などは取るに足らない疑問だしなんかもうどうでもいいなって感じだったので何も訊かないことにした。きっと、処理能力を大きく越えて多すぎる謎を与えられ困惑した人間は、本来のコンディションをもってすれば解決可能な問題さえも投げ出してしまうものなのだ。


「OLさんもねえ、大変だよねえ」

パンダのエイメイさんはのんびりと言う。

「ええ、まあ、そうですねえ」

「仕事も大変だけど、ニンゲンカンケイってやつ? も大変なんだよねえ」

「パンダなのに人間関係に詳しいんですね」

「アタシが勤める職場のヒトたちも、まあそれなりに大変そうだからね」

「え。エイメイさんってお仕事されてるんですか?」

「さっき言ったじゃん。アドベンチャーワールドに勤めてる」

「ああ」

 エイメイさんにとって動物園は「職場」という認識らしい。

「まあ、お酒でも飲もうよ。ビールある?」

「缶ビールなら冷蔵庫で冷やしておりますが」

「持ってきて。マキちゃんのぶんとアタシのぶん」

「あ、はい」

「いやあ、アタシも飲みたかったんだけどね、他人の家の冷蔵庫を勝手に開けるのはマナーってやつ? に反すると思ってさ」

「はあ。なるほど」

他人の家に勝手に上がり込んでみかんを食べているのに? パンダの線引きは理解に苦しむ。

 

 わたしは冷蔵庫からよく冷えた缶ビールを2本取り出し、うち1本をエイメイさんに渡した。


「乾杯!」


 エイメイさんは器用にプルトップを開けてビールを飲んだ。わたしも飲んだ。ちょっと苦くて爽やかな味が、のどをしゅわしゅわと刺激した。


「美味しいね~!」

「はい、美味しいです」


 アルコールのせいなのかパンダの存在に慣れてきたのかは知らないが、緊張がゆるゆるとほぐれていくのを感じた。居酒屋での同僚との飲み会よりも、自宅でパンダと缶ビールを飲むほうがよほど癒されると思った。


「ところでパンダってビールなんて飲むんですね。みかんも食べてるし。わたしはてっきり、パンダは笹しか食べないものと思い込んでましたよ」

「ああ、あれはパフォーマンスね」

 パフォーマンス?

「ほら、イメージって大事だから。アタシたちって人気商売だからね、イメージが大事なわけよ。パンダがみかんむしゃむしゃ食べてビール飲んでたら、イメージが崩れちゃうでしょ。だから、パンダは人前では笹しか食べないようにって、そう決定されたわけよ」

「決定された? 誰に決定されたんですか?」

「中国政府」

「中国政府!?」

「そう。パンダが産み出す経済効果は大きいからね。パンダの人気が高まれば高まるほど中国は儲かる。だから、政府もそれなりに力を入れてるわけよ」

「そうなんですか…」

まさかパンダの生態は中国政府の陰謀によるものだったとは。

「ちなみに、アタシたちっていつもゴロゴロしてるイメージあるでしょ? あれもパフォーマンスだから」

「ええ! パンダはのんびりしてるから可愛いのに!」

「よく考えてもみてよ。あんなにいつものんびりしてたら、とっくの昔に絶滅しちゃってるよ」

「まあ確かに」

「いざとなったらガッツリ二足で走るよ。しっかり脚上げて腕振って走るよ。ウサインボルトみたいに。けっこう速いよ」

「ええ…」

 わたしは、パンダがウサインボルトのような立派なフォームで全力疾走する姿を想像した。全然可愛くない。

「そうやってイメージを作り上げて商売してるわけよ。ほら、清純派アイドルも『男性とお付き合いした経験ないですぅ』ってぶりっこするでしょ。あれと一緒」

「ええ…」

「ま、パンダのイメージの話はもういいからさ。それよりパンツの話をしよう」

「え? パ、パンツの話ですか?」


 唐突な話題の転換に、わたしは戸惑って訊き直した。それも無理からぬことであろう。何しろパンツの話である。例えばこれが映画の話であれば、「わたしは洋画が好きなんですよ~」くらいの返答は咄嗟にできる。しかし話題はパンツである。パンツの話題を唐突にふられて「はい、わたしは黒一択ですね」なんて返しを咄嗟にできる人間などいない。もしいるとすればそいつはよほど頭の回転が速い天才か、あるいはパンツ・ソムリエくらいのものだろう。無論わたしは天才でもパンツ・ソムリエでもない。だからわたしは訊き直したのだ。パンダとパンツの話……。今さらだが、これは夢なのだろうか。パンダとパンツの話をするなど滑稽すぎて現実離れしているし、よしんば夢だったとしてもかなり奇妙な部類に属する。わたしはこっそり自分の太股をつねってみたが、痛かった。夢ではないようだ。これは現実だ。ところでパンツ・ソムリエって何だ。


「そう、パンツの話。アタシ、パンツが好きなんだよ」

 エイメイさんはしみじみと言い、先程まで熱心に読んでいた雑誌を広げてわたしに見せた。その時になってやっと気づいたのだけれど、雑誌だと思っていたそれは雑誌などではなく、女性用下着のカタログであった。パンダが女性用下着を一所懸命眺めていたのである。イメージ崩壊も甚だしい。


「どうしてパンダが人間の女性の下着に興奮してるんですか! 普通に変態じゃないですか!」

「興奮しているのではない。純粋にパンツの造形の美しさに惚れ込んでおるのだ」

「理解不能です」

「ところでマキちゃんは今どんなパンツ履いてるの?」

「最も典型的な変態じゃないですか」


 わたしは奇妙に納得していた。確かに、パンダの経済効果の増大を企むのならば、イメージの統制は必要不可欠のようだ。パンツの造形に拘泥するパンダでは経済効果など到底見込めない。イメージ崩壊ここに極まれり。


「もしかして、雄のパンダは全員女性用下着が好きなのですか?」


 わたしは重大な疑問をぶつけた。返答次第では、わたしは一生パンダを愛せそうにない。


「まさか。アタシの個人的な趣味だよ」

「良かった~」


 良かった良かった。……いや、決して良くはないのだが。


「エイメイさん、その趣味はできる限り隠しておいたほうがいいと思いますよ」わたしは彼のためを思って有益な助言を与えた。

「どうして?」エイメイさんは訊いた。

「イメージが壊れるからです。エイメイさん一頭のせいで、パンダ全体のイメージが損なわれてしまいます」

「いやいや。アタシだって普段は大人しくパンダらしいパンダを演じてるよ。今日は例外だよ」

「今日は例外なんですか」

「そ、今日は例外。たまにはガス抜きしないとやってらんないよねぇ。普段は周りのことばっかり気にして生きてるんだから。マキちゃんだってそうじゃない?」

わたしは少し考えた。

「まあ、そう言われればそうかもしれません」

「例えば?」

 意外にも、エイメイさんは遠慮なく突っ込んだ質問をぶつけてきた。

「そうですね…例えば、わたしはさっきまで同僚たちとの飲み会に参加していたんですよ。わたしはお酒は嫌いではないのですが、大勢で集まってお喋りするのは苦手なんです。だからそういう集まりにはあまり乗り気ではないのですが、いつも仕方なく参加してます」

「なんで? 飲み会は仕事じゃないでしょ? 断ればいいじゃん」

 エイメイさんは純朴過ぎる意見を述べた。やはり、パンダには人間関係の機微を察知するのは難しいようだ。

「人間はそう簡単じゃないんですよ。断ったら付き合いが悪いと思われるじゃないですか」

「付き合いが悪いと駄目なの?」

「仕事に支障が出るかもしれない」

「仕事と人付き合いは関係なくない?」

「関係あります。仕事で重要なのは円滑なコミュニケーションなんですから」

「仕事上のコミュニケーションとプライベートなコミュニケーションは関係なくない?」

「あるんです。もしかしたらパンダの世界では関係ないのかもしれないし、人間でも子供たちはそんなこと気にしないかもしれない。でも、少なくとも、人間の大人の世界では、関係あるんです」わたしは言った。

「ふうん。どちらかというとそれを混同するのは子供っぽい振る舞いだと思うけどなあ」エイメイさんは言った。


 おそらく、エイメイさんの感想は正しいのだ。正論だ。でも、所詮正しいだけだ。単なる正論では人は動かせない。


「確かにエイメイさんの言う通りかもしれませんが、正論を振りかざしても生きづらくなるだけです。周囲に流されるほうがよほど楽です」わたしは言った。

「そっかあ。じゃあ、アタシみたいにときどきガス抜きするしかないねえ」エイメイさんはしみじみと言った。今年も立派な桜が咲いたねえ、とでも言うようにしみじみと。

「そうですねえ」わたしもしみじみと言った。


「あ、もうビールなくなっちゃった」

「ええっ。エイメイさん飲むの早いっ」

「ねえ、もう一本出して~。アタシのパンツへの愛を熱く詳しく語ってあげるから~」

「はいはい、持ってきますよ。エイメイさんのパンツへの愛はけっこうですので」


 わたしはこたつを出て冷蔵庫まで歩いた。


「ところで、サッポロとアサヒがあるんですけど、どちらがいいですか? さっき飲んだのはアサヒなので次はサッポロにしますか?」


 わたしは一応訊いてみたのだけれど、エイメイさんの返答はなかった。


「エイメイさん?」


 わたしはこたつのほうを振り向いた。でも、そこには誰もいなかった。机の上には、ビールの空き缶とミカンの皮と女性用下着のカタログがぽつんと置かれているだけだった。そこには、何者かがさっきまでいたという空気の跡形すら、微塵も残っていなかった。ただ、長時間空白が維持されてきたことを教示するかのような静寂が、部屋全体に充満していた。冷蔵庫のモーター音が、やけにうるさく感じた。


 きっと初めから、パンダなどいなかったのだろう。そもそも、こんな都市部のマンションの一室に、パンダが出没するはずがないのだ。


 わたしは軽くため息をついた。ほっとしたような、がっかりしたような。


 わたしはさっきまで見ていた幻を思い出しながら、何もする気が起きず、ただただぼんやりとしていた。すると、スマートフォンがメッセージを受信した。同僚からだった。


「次の金曜の夜、いつものメンバーで女子会! マキも来るよね?」


 またか。わたしは深いため息をつく。彼女らは、いったいどれほど一緒にいれば気が済むのだろう。自分一人だけの時間が欲しいとは思わないのだろうか? まさか、金曜の夜を一人で過ごすのは寂しいことだと、本気でそう思っているのだろうか?


 わたしはメッセージアプリに「もちろん行くよ!」と入力し、送信しようとした。が、結局送信しなかった。エイメイさんのしみじみとしたおじさんみたいな声が、頭に響いた。


「たまにはガス抜きしないとやってらんないよねぇ」


 一度は入力した文字を消去し、新たなメッセージを打ち直し、送信した。


「ごめん、次の金曜日は用事がある!」


 送信し終えた瞬間、わたしはたったそれだけのことで、ばかげた万能感に満たされた。


 なんだ、簡単じゃん。断るのって、全然難しくない。


 新たに発見した自らの意外な一面を頼もしく感じつつ、わたしは机の上を片付けた。ミカンの皮、女性用下着のカタログ、ビールの缶。缶は2本あった。


 どうやら、少し飲み過ぎたようだ。あんなにリアルなパンダの幻を見るなんて。


🐼


 次の金曜日、わたしは有給休暇を取得して、和歌山県のアドベンチャーワールドを訪れていた。その日は朝から強い雨が降り続いていた。和歌山県全域をずぶ濡れにしてやろうと雨雲が心に決めたかのような激しい雨だった。そのような悪天候であり、かつ平日であることも手伝って、アドベンチャーワールドはかなり空いていた。


 無論わたしの目的はパンダだった。アルコールの過剰摂取によりパンダの幻を一瞬目撃したわたしは、現実の世界に存在する本物のパンダも一度は見てみたいと思い立ったのだ。


 パンダコーナーの周囲は他の場所よりは人が多くいたが、それでもやはり閑散としていた。酷く雨が降る平日の昼間にアドベンチャーワールドを訪れるもの好きな人間はそれほど多くないようだ。


 そこには全部で六頭のパンダがいた。六頭はそれぞれに、ゴロゴロと寝そべってくつろいだり、笹をむしゃむしゃと咀嚼したりしていた。その様子には、不自然な要素は一点も見当たらなかった。やはりパンダの生態とは遥か昔からこういうものなのだ。断じて中国政府の陰謀などではない。


 幻に出現したエイメイさんに似た一頭を探してみようと試みたのだけれど、わたしには六頭全てがほぼ同じに見えた。それも仕方ない、だって彼らは皆パンダなのだから。彼らを識別できる者がいるとすればそれはアドベンチャーワールドの常連客か、あるいはパンダ・ソムリエくらいのものだ。パンダ・ソムリエって何だ? とにかく、似たような姿かたちの六頭のパンダたちが、いかにも典型的な、いかにもパンダ的な過ごし方をしていた。ビールを飲んでいるパンダもいなければミカンを食べているパンダもいないし、ましてや女性用下着のカタログを閲読するパンダもいなかった。


 鞄に忍ばせて持参した“アレ”を使用する必要はなさそうだった。


 わたしは安堵と落胆を同時に感じながらパンダコーナーを立ち去ろうとしたのだけれど、ゴロゴロと寝ている一頭のパンダの表情に気掛かりな様子を発見し、足を止めた。そのパンダはわたしをじっと見ていた。珍奇な自然現象か何かを興味深く観察する科学者のような趣きで、わたしを注視していた。彼(彼女?)のつぶらな瞳は、可愛らしさだけでなく、豊富な人生経験を積んだ中年男性のような鋭さをも包含していた。


「……エイメイさん?」


 わたしは直感を言葉にした。今にも「はいそうですよお」と彼の間延びした声が聞こえそうな気がした。わたしは耳をすませて、彼の返事を待ち受けた。


 でももちろん、パンダは喋らなかった。もしかしたら、地面を激しく打つ雨音にかき消されて聞こえなかっただけだろうか? …いや、そんな妄想は馬鹿げている。パンダは喋らないのだ。常識だ。


 でも。


 わたしは無様にも期待を捨てきれない。試さずにはいられない。鞄に潜ませて持参した“アレ”を使ってみる価値はあるかもしれない。


 わたしは傘を動かして周囲の人間から視認できないように工夫しつつ、“アレ”を鞄から取り出した。


 そう、女性用下着だ。そしてパンダに向かって、下着を振ってみた。ミュージシャンのライブでタオルを振るファンのような要領で、パンダに向けてパンツを振った。我ながら変態的な行動だ。もし周囲の人間に見つかれば痴女認定待ったなしだ。下手をすれば司法権力のお世話になるかもしれない。


 それでもパンダは喋らなかった。当たり前だ。自分で自分が恥ずかしい。いったいわたしは何をやっているのだ。


 パンダが返事をしてくれるかもしれないとの馬鹿げた妄想の実現を諦め、下着を鞄にしまいかけた。そのとき、さっきまでゴロゴロと寝そべっていたパンダが、すっくと静かに立ち上がった。相変わらず無言で。


 わたしは彼と見つめあった。悲劇的なまでに強く降りつける雨に包まれながら、わたしたちは視線を絡ませあった。そこにほんの一瞬、わたしたちのみが存在可能な世界が生じた。周囲の人間も他のパンダも激しい雨も湿った空気も、あらゆる事物が存在感を著しく減退させ色彩が欠如し、煙のように漠然とした背景にまで引き下がった。その世界ではわたしと彼のみが生命活動を継続しており、他の全ては淡くぼやけた物体と刺激に過ぎなかった。


 彼はぴんと背筋を伸ばし、その場で左右の脚を交互に動かし、たたたっ、と足踏みした。しっかりと腕を振り、脚を上げて。その姿は、この上なく美しくて素晴らしく立派な、見事としか言いようがないランニングフォームだった。まるでウサインボルトみたいな走り姿だった。1秒で地球を7周半くらいできそうな走り方だった。


 足踏みはすぐに終了した。彼はまたしても地面に寝転び、怠惰の化身のごとき様相に戻った。その直後には、世界が色彩と存在感を取り戻した。周囲の人々や他のパンダや強い雨たちが、輪郭を定めて再び活動を開始した。


 もう、そのパンダは、ただただ寝るばかりだった。いかにも典型的な、いかにもパンダ的な振る舞いだった。


 わたしは下着を鞄にしまった。それから、彼に向けて呟いた。


「お疲れさまです。エイメイさん」


 マキちゃんも、お疲れさま。

 

 そんな声が聞こえたような気がした。気のせいかもしれない。こんなに激しく雨が降っていては、わたしの小さな呟きは雨音にかき消されて、彼の耳まで届くはずがないのだから。でも、確かに、あののんびりとした穏やかな声が、聞こえたような気がしたのだった。


 お疲れさま。


 わたしはゆっくりと彼に背を向け、その場をあとにした。


🐼


おわり


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