お菓子なお友達

お菓子なお友達

 休日の午後にはコーヒーを飲むのが、ぼくの習慣だ。


 近所の喫茶店で購入した深煎りのモカを、じっくり丁寧にペーパードリップする。早く飲みたいと焦ってはいけない。それでは、単調な味になってしまう。焦らず騒がず、哲学者が思索に耽りながら植木に水をちょろちょろと流し込むようにゆっくりと、お湯を注ぐ。真夜中の洞窟みたいに深くまっ黒なコーヒーが出来上がれば、早朝の羽毛みたいに優しくまっ白なマグカップに、なみなみと満たす。


 コーヒーを飲むときはいつも、甘いお菓子を食べる。チョコレートも定番で悪くないし、ビスケットも堅実で安心するし、ときにはアイスクリームなんかも贅沢でいい。でも、ぼくのいちばんのお気に入りは、ふわふわの柔らかいマシュマロだ。


 今日もぼくはマシュマロを選択した。コーヒーの苦味が充満した口のなかに、マシュマロの柔らかな甘さは相性がいい。過不足のない適切な甘さが、自然になじんでとけていく気がするのだ。まるで、天から降る雨を地面が吸うくらいに、当たり前の事象みたいに。


 さて、いつものようにぼくがマシュマロをつまむと、不意にマシュマロが「お友達になりましょう」と喋ったので、けっこう驚いた。お菓子というのは、普通は喋らないものなのだ。これは異例の事態と言っても差し支えない。


「どうしてマシュマロが喋ったりするのだろう? そんな話は聞いたことがないな」指先のマシュマロに向かって、ぼくはたずねた。


「たしかに、普通の人は、お菓子とお喋りすることはできません。でも、ある種の限定された人だけは、お菓子と会話できることも、あるのです」


「どんな人?」


「正当な意味での優しさを持っていて、だからこそ、本来の意味での孤独に浸っていて、ゆえに、清潔な意味で堂々と絶望していて、加えて、心からお菓子を愛している、そんな人です」とマシュマロは言った。


 なるほど、とぼくは思った。言われてみるまで自分でも気づかなかったのだけれど、どうやらぼくは、正当な意味での優しさを持っていて、だからこそ、本来の意味での孤独に浸っていて、ゆえに、清潔な意味で堂々と絶望していて、加えて、心からお菓子を愛している人らしいのだった。


「じゃあ、お菓子と会話できる人は、それほど多くはない?」ぼくはたずねた。

「めったにいません」マシュマロは答えた。


マシュマロの声には、誠実で、女性的で、どこか機械的な印象を受けた。その声はぼくに、スマートフォンに内蔵されている人工知能の音声アシスタントを連想させた。ためしにぼくは、「ヘイマシュマロ、明日の天気を教えて」と聞いてみたのだけれど、「…はい?」と怪訝な感じで聞き返されたので、ぼくはもう下手なことは言うまいと黙った。


「コーヒー、飲まれないのですか? せっかくおいしそうに淹れられているのに。冷めてしまいますよ?」マシュマロはそう言うと、ぼくの指先からそっと離れて、ふわふわと浮遊し始めた。極めて自然な感じで、何事もないように、ぼくの目の前で浮いている。


「マシュマロって、浮けるんだね」ぼくは感慨を言語化した。


「普通は浮けませんが、ある種の限定された人の周囲でなら、浮けるのです。ある種の限定された人とはつまり…」

「いや、大体わかるから説明はもういいよ。ありがとう」

「はい」


 聞かなくてもわかる。正当な意味での優しさを持っていて、だからこそ、本来の意味での孤独に浸っていて、ゆえに、清潔な意味で堂々と絶望していて、加えて、心からお菓子を愛している人。


 ぼくは浮遊するマシュマロを眺めながら、コーヒーを味わった。ふわふわのマシュマロがふわふわと浮いている。じっと見つめていると、つい掴みとって食べたくなってしまいそうになるけれど、我慢した。友達は食品じゃない。


 コーヒーを飲み終えると、ぼくは手早く食器を洗い(ぼくは食器洗濯機を持っていない。大仰な機械全般が苦手なのだ。だから掃除機もテレビも持っていない)、出かける支度をした。


「どこに出かけるのですか?」マシュマロがたずねた。

「近所の喫茶店だよ。さっきの一杯でコーヒー豆を使いきってしまったからね」ぼくは答えた。

「なるほど。また買って補充するのですね」

「うん。あと、ついでに喫茶店でカフェオレでも飲もうかな」

「なんとまあ。つい先ほどコーヒーを召し上がったばかりですのに? カフェインのとりすぎは身体に毒ですよ」マシュマロが、信じられないとでも言いたげな口調でとがめようとする。

「砂糖のかたまりに健康を説かれるとはね」ぼくは言った。


 いざ家を出ようとすると、マシュマロがぼくの肩の周辺をただよいながらついてきているのに気づいた。


「ついてくるの?」ぼくはたずねた。

「ついていきますとも」マシュマロは答えた。

「でも、マシュマロが浮いていたら、他の人に怪しまれないかなあ」

ぼくはもっともな疑問を呈した。それに対してマシュマロは、自信たっぷりに回答した。

「あ、それは大丈夫です。浮いているお菓子のすがたは、ある種の限定された人にしか視認できないのです。ある種の限定された人というのはつまり…」

「あ、それは大丈夫です」

「あ、はい」


 そういうわけで、マシュマロもいっしょに喫茶店へ行くことになった。ぼくはお気に入りの黒いスニーカーを履いて(ファッションなんてのはとりあえず黒にしとけば間違いがないものだとぼくは思う)、エレベーターに乗った。


 ぼくの部屋はマンションの十階なので、外出の度にエレベーターに乗る必要がある。ぼくはほんのすこしだけ閉所恐怖症なので、ほんのすこしだけエレベーターは憂鬱だ。


 九階で一旦エレベーターは停止し、ぼくと同年代の女性が乗ってきた。ドアは静かに閉じ、箱は下降を再開する。


 ぼくと女性は当然のようにひとことも喋らず、ただ無機質なドアを見つめる。まるで、そこに隠された重大な暗号でも読み取ろうとしているかのように。


 もちろん、そこには読み取るべき対象など何もない。ただお互いに、そのようなポーズを取っているだけだ。箱は下降を継続する。八階を通過する。


 こういうとき、無用な気まずさを感じてしまうのは、ぼくが小心者だからだろうか。知らない人なので唐突に会話を展開するのは不自然だし、かといって沈黙を死守するのもまた、どこか不自然な気がする。


 でも、この日のぼくはひと味ちがった。


 ぼくはとある正当な理由を発見したので、勇気を出して彼女に声をかけた。普段なら、知らない女性に声をかけることなどぜったいにしないのだけれど、そのとある正当な理由が、有無を言わせずぼくの背中を押した。


「どちらに行かれるのですか?」ぼくはたずねた。明るく朗らかに、不審者じみた雰囲気をまとわぬよう細心の注意を払って。かといってなれなれしくならないように、絶妙な朗らかさで。


「近所の喫茶店まで」彼女はドアを見つめたまま答えた。ぼくはその偶然の一致に、心をはずませた。


「奇遇ですね。ぼくもなんですよ」ぼくは言う。喜びが声ににじみ出てしまわぬように、淡々と。箱は下降を継続している。六階を通過する。


「そうなんですか」彼女もまた、まったく感情が込められていない事務的なあいづちを打つ。掃除機の取扱説明書だってもう少し感情が込もっているかもしれない。


 たぶんぼくを警戒しているのだろう。無理もないと思う。妙齢の女性の目的地を聞き出しておいて、「ぼくもそこに行くんですよ」と言う男の話など、普通は信用できない。


 箱は下降を継続している。四階を通過する。


「あの喫茶店の深煎りのモカは、最高ですから」ぼくは、なじみの店のコーヒーを称賛した。すると彼女は、暗号の解読をやめ、ぼくのほうを見た。きっと、コーヒーの味に言及した発言により、目的地の一致が嘘ではないと、信じてくれたのだろう。


 彼女はぼくを、すこしのあいだ、じっと見た。こぶりなしゃぼん玉が生まれてからはじけるまでのあいだくらい、じっと見た。それから、ふふっと吹き出した。


 だよね、とぼくは思う。ぼくもあなたを見たとき、笑っちゃいそうになりました。


 箱は下降をやめた。一階に停止する。ドアが開く。まず彼女が外に出て、そのあとにぼくも続いた。外はいい天気だった。


「では、いっしょに喫茶店に行きましょうか」彼女が提案した。


 ぼくはうなずく。


「はい。みんなでいっしょに行きましょう。“四人”で」


 そう、四人で。


 ぼくと、彼女と、ぼくの周囲で浮遊するマシュマロ。それからもう一人。彼女の周囲で浮遊する、こんぺいとう。オレンジ色の、かわいらしい、ふわふわ浮いてるこんぺいとう。


「ぼくとあなたは初対面ですね。でも、あなたがどんな人なのか、ぼくには手に取るようにわかりますよ」ぼくは言った。


「そうですか。でもわたしも、あなたがどんな人なのか、ひとめで見抜けますけれどね」彼女も負けじと言った。


 ぼくたちは並んで歩いた。あのお気に入りの喫茶店を目指して。周囲には、ふわふわ浮遊する、お菓子なお友達を連れている。


 隣には、正当な意味での優しさを持っていて、だからこそ、本来の意味での孤独に浸っていて、ゆえに、清潔な意味で堂々と絶望していて、加えて、心からお菓子を愛している、そんな人がいる。




おわり


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お菓子なお友達 @mame3184

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