雨に降られる人たち

雨に降られる人たち

 雨はみんなに平等に降る。それは、ある人にとっては“絶望”かもしれないし、ある人にとっては“祝福”かもしれないし、ある人にとっては“癒し”かもしれない。とにかく、雨はみんなに平等に降る。


①<倫子の場合> 


 ぎい。


 あの人からのメッセージを待っている。


 スマートフォンから目をあげて、窓の外を見て、またスマートフォンに目を落とす。

 窓の外には、濃く青い空にもっさりと白い入道雲が浮かんでいる。スマートフォンは、ぺかーっと白々しくブルーライトを出すだけで、うんともすんとも言わない。空もスマートフォンもそれを見ている私も、みんな滑稽な気がした。


 朝からずっと、同じことを繰り返している。部屋のなかの同じ場所ーー同じ場所というのは、窓の近くに置かれたスツールの上だーーに、ずっといて、ただ、首と眼だけがたまに上下運動するだけの一日。眼と神経をつかうためだけに心臓を動かしているような一日。雲を見たり画面を見たりするだけの一日。


 今日は本来、あの人がうちに来る予定だったのだ。それなのに、昨晩突然LINEメッセージが来てーーもっとも、すべてのメッセージは突然ではあるのだけれどーー、「家族とピクニックに行くことになった。だから明日は倫子とは会えない」と言うのだった。


 あの人には家庭がある。幸福で、愛すべき家庭。愛すべき妻と愛すべき娘。

 休日に家族とピクニックに行くなんてばかみたいだと思う。ばかみたいにべたべたで幸福なイベント。


 それにしても、と倫子は思う。それにしても、親から倫子という名前を授かっておきながら不倫をしているとは、笑えない冗談みたいだ。どうして私はこんなところまで来てしまったのだろう。ときどき不思議になる。


 朝からずっと、あの人からのメッセージを待っている。たとえあの人は家族とピクニックに興じているとしても、私にメッセージが来ることには意味がある。少なくとも、あの人の心の一部はこっちにあるという証拠だから。


 スマートフォンで時刻を確認すると、もう昼をすぎていた。部屋に時計は置いていない。スマートフォンで見ればいいのでなくても困らないし、なにより、部屋に置かれた時計が立てるあのチクタクいう音は、私を焦らせる。

 昼食をとることにする。スツールから腰を上げる。


 ぎい。


 このスツールは、大学生のときに友人とモロッコへ行った際に購入したもので、鮮やかすぎない水色が気に入っている。でも、かなしいことに、座ったり立ったりするときに、ぎい、と私を責めるような音を出すのだった。


 冷蔵庫の前まで歩いて行き、扉を開き、なかからチーズとリンゴ、そして白いワインを取り出す。次に食器棚の前まで歩いて行き、ワイングラスをひとつ取り出す。両手にいろんなものを抱えてーーそう、いろんなものを抱えてーー、そしてまた、スツールまで戻っていく。


 ぎい。

 長く使えばどうしたって軋みだしてしまうのは、家具も心も一緒だ。


 チーズとリンゴとワインとワイングラスを、小さなテーブルの上に置く。このテーブルはどこで買ったのだっけ。たしかにどこかで買ったはずなのに、覚えのないものが生活にしみこんでいるというのは、奇妙なことだと思う。奇妙で、大胆で、そして心細い。


 グラスに白いワインをとぽとぽ注ぐ。それをすいっと一息で飲む。普段は赤いワインばかりを飲むのだが、あの人にもらったので、私も白いワインを飲む。すこし酸っぱい、と思った。


 しゃくり、とリンゴをかじる。汁が飛び出て、つう、と手首から垂れてきた。食べるというのは、とても官能的なことだと思っている。生に直接、結びつくこと。だから、あの人のいない食事は、自慰みたいなものだ。ただの本能的な行為。それをしながら、あの人のことを考える。


 あの人は細身ですこしだけ背が高くて、とてもゆっくり、低めの小さな声で話す。その話し方は私を、ぼんやりとした白と青がまじったような、とても幸福なところに引っ張り出してしまう。


 私はまた、首と眼の、上下運動をはじめる。つまり、画面と入道雲を交互に見る。


 あの人は白いワインをくれたけれど、べつにワインに詳しいわけではない。ただ、スーパーマーケットで見つけたものを、「ラベルが素敵だったから」と言って、くれたのだった。


 つまりたぶん、私たちはそういう人間なのだと思う。そういう人間というのは、実態のない、ぼんやりとした、きれいなものだけを求めて生きている人間だということだ。


 だからこそ私は不倫などして、こうして独りで部屋のなかから雲を眺めながら、首と眼だけを動かすはめになっているのだった。


 ぎい。


②<冴木の場合>

 佐藤さんとのデートは三回目だ。一回目はパスタを食べて、二回目は映画を観た。三回目の今日は、佐藤さんの提案で公園に来ている。


 こんなに暑いのに公園なんて!と佐藤さんの提案にはびっくりしてしまった。でも、佐藤さんが自分から何かを主張するなんてちょっと意外で、そんな一面を発見したことがどしようもなく嬉しくて、それでぼくたちは今、公園にいるのだった。緑が多くて小さな池がある公園。セミがじいわじいわと鳴いている。木陰が多いせいか、思ったほどは暑くなかった。


 佐藤さんは控えめな性格で学校では目立たないけれど、ぼくは彼女がすきだ。休み時間は仲の良さそうな友達とひそひそ話しているか、一人で文庫本を読むかしている。彼女の周りの空気は、いつも静かで清潔だ。そこに惹かれてしまって、ぼくからデートに誘ったのだった。残念だけれど、恋人として付き合っているわけではない。まだ。


 その佐藤さんは今、ぼくの右隣に座っている。木陰に守られた木のベンチ。佐藤さんは水色のふわっとした感じの服を着ていてーーぼくは女の人の服の名前がさっぱりわからないーー、いまだ彼女の私服を見慣れていないぼくは、それだけで落ち着かない気持ちになってしまう。

 公園にはあまり人がいないので静かだ。セミの鳴き声だけが浮いて聞こえる。彼女はあまり喋らないので、ぼくは何か話さなければいけないような気になる。


「ツクツクホウシってさ」

「え?」

「ツクツクホウシ。ほら、今鳴いてるじゃん」

「うん」

「よく考えると、変な鳴き声じゃない? だって、つくつくほーし、だよ? 面白くない?」

「…うん」


 話が続かない。頭を抱えたい気分になる。ずっとこの調子なのだ。一回目のデートも二回目のデートも今回のデートも。ぼくは彼女に惹かれているくせに、彼女のことを知らなさすぎる。何を話せばいいのかどう接すればいいのか、さっぱりわからないのだった。暑さのせいではない変な汗をかいているような気がした。


「…冴木くん、面白いね」


 明らかに気を使われていると思った。面白いと感じたときはふつうもっと面白そうな反応をするものだろう。ぼくは思わず天を仰いだ。ツクツクホウシはのんきに変な声で鳴き続けていて、入道雲ものんきにぽっかり浮いていた。


③<花菜の場合>

 十七歳にもなって一人で泣きながら外を歩くなんて恥ずかしいとはわかっている。でも、どうやっても涙はどんどん溢れてきて、止めようとすればするほどかえって止まらなくなるのだった。まるで汚ない泉みたいに。


 泣いている理由だって子供じみていて情けない。彼氏がべつの女の子と食事をしたとわかったので、あたしは「そんなことするなら別れてやる!」と担架を切った。いつもの彼なら謝っていた。「ごめんって」と言ってくれるのがいつものパターンだったじゃないか。「別れる!」「ごめん!」で仲直り、というのがあたしたちのやり方だったはずだ。それなのに彼は突然、「それなら仕方ない」と言ったのだった。それを聞いて、あたしは思わず喫茶店から飛び出してしまった。


「それなら仕方ない」?

 あれを聞いたとき、あたしは背筋が冷たくなるのを感じ、それとは反対に顔は熱くなった気がした。


 まるであたしが別れたがっているからそれを了承しただけ、みたいな言い方。彼は言外の意味というのを解さないのだろうか。あたしが別れたいといえば本気で別れたいと思っているとでも? そんな鈍い男なんて、こっちから願い下げだ。


 そんなことを考えてはみたものの、あたしは本当はわかっている。今日の出来事の本質に気づいてしまっている。

 彼は今までは付き合ってくれていたのだ。「別れる」「ごめん」の茶番に。でも今日ばかりはそうはならなかった。彼は鈍いのではなく、単純に嫌気がさしただけだ。あの茶番に嫌気がさしたのか、あるいは、あたし自身に嫌気がさしたのか。

 

 あたしは油断していた。彼を侮っていた、と言ってもいい。あたしはそれを今日になって突然に突きつけられて、うろたえて泣いているだけのただのガキだった。自業自得だ。


 あたしは泣きながら道を歩く。涙が出るのを止められないし、「うっ」という後悔の音がのどから出てくるのも止められない。この道は人通りが多い。すれ違う人がみんなあたしをちらちら見る。怒りと悔しさと恥ずかしさで顔が熱くなる。人が少ないところに行きたいのだけれど、どこにどう行けばいいのかさっぱりわからない。何も考えられない。


 何もかもが嫌になって、空を見上げる。すると、視界いっぱいに雲がひろがっていた。さっきまであんなに晴れていたのに。

 ぽつり。

 頬に、冷たい雫が当たるのを感じた。


④<倫子にとっての雨は“絶望”>

 雨だ、と思った。いつの間にか空いっぱいに雲がひろがっていて、しとしと雨が降っていた。最初に頭に浮かんだのが、これであの人のピクニックが中止になるだろうということだった。私は思わずほくそ笑んでしまい、その直後にはそんな自分が嫌になる。あの人だってピクニックは楽しみにしていたはずだ。


 私は何に支配されているのだろう。独りで部屋にこもって、昼から酒を飲みながら一日中あの人からのメッセージを待っていて、あの人の楽しみがなくなればそれを喜ぶ私は、一体なんなんだろう。


 ぴろん。

 スマートフォンがふざけた音を出した。あの人からのメッセージだった。

「雨でピクニックは中止~。代わりに水族館に行くことになった」


 突然、なにもかもがどうでもよくなった。


 本当になんなのだろう。私はわけがわからなくなる。妻子持ちの男に入れ込む女も、その女にわざわざ水族館に行くことを報告する男も、その他ありとあらゆる人間やこの世界すべてが、急に滑稽に思えてくる。


 グラスに入ったワインを一気に干す。のどがぴりっと痛む。あの人がくれたワインは酸っぱすぎる。それでも、私はそのすべてを身体に入れる。結局、独りで一瓶空けてしまった。


 スツールから勢いよく立ち上がる。ぎい。スツールが軋む。ベランダに出る。雨が顔と身体を濡らす。髪は額に張り付きTシャツは身体に張り付く。私はベランダから顔を突き出し下を見る。地面は遠い。ここはマンションの九階だ。

 

 落ちても痛みを感じる暇はないだろう、と思った。


⑤<冴木にとっての雨は“祝福”>

「雨だ」

「雨ね」


 最初はぽつぽつだったのが、すぐにしとしと降り始めた。今日は雨が降るような予報じゃなかったのに。だから公園デートにしたのに。天気予報は肝心なときに当てにならない。もちろん傘なんて持ってなかった。


「近くの喫茶店にでも入ろうか」

 とにかく佐藤さんを濡らして風邪でもひかせてはいけない。ぼくは男らしくリードしようとする。それなのに佐藤さんは、

「いいよ、ここにいよう」と言う。

 彼女は小さな鞄から水色の折り畳み傘を取り出した。そして、何でもないことのように、

「入れてあげるよ」と言った。


 女性用の折り畳み傘は、二人が入るには小さすぎた。どんなにくっついても、ぼくの左肩と彼女の右肩は濡れてしまう。言うまでもなく、ぼくは緊張していた。


「本当にここでいいの?」

 ぼくたちはまだ木陰のベンチに座ったままだ。木の下とはいえ、やっぱり濡れるのは避けられない。

「いいよ、もう。しつこいな~」

 佐藤さんはときどきさらっとこんなことを言う。ただでさえ話しかけるのに緊張するのに、そのせいでぼくはますます萎縮してしまう。


「ツクツクホウシの鳴き声ね」

「え?」

「だから、ツクツクホウシの鳴き声だってば」

 あの話、まだ続いていたのか。もういいだろう。蒸し返してほしくないよ。

「私、ツクツクホウシの鳴き声って昔から、つくつくほーし、とは聞こえなくて」

「うん」

「いっつも、かつかつぶーし、って聞こえるんだー」


 …なにそれ。つくつくほーしが、かつかつぶーし?

 ぼくは佐藤さんの顔を見る。真面目な顔をしている。だけどちょっぴり頬が赤い。


「ふふっ、なにそれ」

 ぼくは吹き出してしまった。あの鳴き声がかつかつぶーしに聞こえることも、それを真面目な顔をして話すことも、でもやっぱり勇気を出して話しているのが丸わかりなことも、すべてが可笑しくて、いとおしかった。


「可笑しいでしょ」

「うん、可笑しい」


 ぼくたちは二人でひっそりと笑った。お互いに片方の肩を濡らしながら。公園の緑は雨に濡れてきらきら光っていた。


⑥<花菜にとっての雨は“癒し”>

 最初はぽつぽつだったのにすぐにしとしと降り始めた。道行く人たちはみんな小走りになる。一刻でも早く屋根のあるところに行こうと。あたしが泣いていることなんか気にせずに駆けていく。準備よく傘を持っていた人は傘をさす。町が一気に色とりどりになる。傘をさした人はみんな斜め下を向いて歩く。だから、あたしが泣いていることなんて誰も気にかけなくなった。


 あたしは傘なんて持ってない。だけど屋根のあるところに急ぐ気にもならない。とぼとぼ歩く。雨が顔を濡らす。怒りと悔しさと恥ずかしさで火照った顔を、雨が気持ちよく冷やしてくれた。


 あたしはちょっと冷静になる。もう誰にも見られていないし、頭も冷やされた。気づけば涙が止まっていた。


 喫茶店に戻って彼氏に謝ろう。それでも許してくれなかったら、もう諦めよう。今までのツケが回ってきただけのことだ。ちゃんと清算して、ちゃんとした大人になろう。


 向きを変え喫茶店に歩く。ずんずん歩く。雨に濡れるのも気にならない。もうやるべきことはわかった。あとはやるだけだ。どこに行けばいいのかもわからなかったさっきまでの自分とは違う。雨はあたしの顔を濡らし、さっきまで泣いていたことなんて全部なかったことにしてくれていた。


 途中、公園の横を通った。公園にはカップルがいた。あたしたちと同じか少し下くらいの歳のカップルだった。この雨の中、小さな折り畳み傘に身を寄せあって二人で入り、ベンチに座って笑っていた。すごく幸せそうだった。


 ちょっと苦しくなった。でも大丈夫。喫茶店に向かってずんずん歩き続ける。


 でもやっぱり、と少し弱気になる。なぜあの人たちはあんなに幸せそうなのに、あたしはこんなことになっているのだろう。あの二人の笑顔が頭にこびりついていた。


 とにかく元気を出す必要がある。気合いを入れる必要が。恋愛はときに戦いなのだ。

 それで、あたしはいいことを思いついた。すごく気持ちのいいこと。さっきまであんなに泣いていたのだ。今さら恥ずかしいことなんて何もない。


 大きく息を吸う。力いっぱい。肺がぱんぱんになるまで。そして叫んだ。

「うおーーーーーー!!!!!!」


 身体にたまったものを、ぜんぶ吐き出すつもりで本気で叫んだ。女らしさ?かわいさ?そんなもの全部、くそくらえだ!男らしく、猛々しく叫んだ。


「何やってんの?」


 息が止まるかと思った。


 彼氏がいた。右手に紺色の傘を持っていた。

「花菜、どうせ傘持ってないでしょ。迎えに来た」

 彼は笑いながら、こちらに近づきながら、話している。

「さっきはごめん。でも、今の何? なんかかっこよかったよ。ライオンキングみたい」

 彼が真正面に立つ。傘を差し出す。視界の上のほうが紺色に染まる。

 あたしの肺は、しばらくひりひりしていた。


⑦<倫子だけに用意されたちょっと先のお話>

 九階のベランダから下を見る。地面は遠い。ここから落ちても痛みを感じる暇はないだろう、と思う。

 

 なんだかすべてがどうでもいい。妻子持ちの男に入れ込むことも、その女が男のメッセージに一喜一憂することも、男はそんなの気にしていないことも、世界中のすべての男女も、この世界そのものも、どうでもいい。


 改めて下を見る。思考とは裏腹に脚はすくむ。下を見ていては怯んでしまう。私は上を向いた。どんよりした灰色の雲が空一面を覆っている。その雲から、しとしと雨が降る。

 私の最期にはぴったりな天気じゃないか。


 私は、決心した。

 

 そのときだった。


「うおーーーーーー!!!!!!」


 え、何? 私は一瞬困惑する。何なの、今の声?


 若い女性の声に聞こえた。若い女性の声なのに、猛々しく、空気をびりびりふるわせていた。空一面にひろがった灰色の雲に突き刺すかのような声だった。


 辺りはすぐに静かになった。さっきの大声なんて嘘みたいに静かだった。


 なんだかタイミングを逃してしまったような気がした。


 やっぱり、すべてはどうでもいいと思った。女も男もわけのわからない謎の大声もどうでもいい。幸福であろうと不幸であろうとどうでもいいし、孤独にだらだら生きることだって、どうでもいいのだった。だから特別に今死ぬ必要はない。


 私は部屋に戻った。濡れてしまった身体を拭いた。それから外を見ると、雨はずいぶん小降りになっていた。


おわり。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

雨に降られる人たち @mame3184

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ