「今日も我が家は」

鈴丸 カエル

第1話 オリンピックと私、そして<C OVID-19>

1960年、

若い両親の元、私は一人娘として生まれました。


高度経済成長期、1964年の東京オリンピックが開催され時代は活気に満ち溢れていた。


我が家は長屋の一部で6畳と8畳の二間で小さな台所があり、お風呂はなく、近所の銭湯に通っておりました。


母の姉がアメリカ軍人と結婚して、横田基地で生活しており、その後、本国アメリカに戻る時に譲り受けた、大きなスプリングのダブルベッド、木枠のベビーベッド、洗濯機、大きな冷蔵庫と、ブラウン管テレビがあって、およそ日本家屋には似合わない物であった。


8畳間にダブルベッドと、その隣に木枠のベビーベッド、隣の6畳間の居間に小さなテーブルとテレビが置いてあり、その居間の続きに台所があり大きな冷蔵庫が台所を占領していた。


私の居場所はほとんどベビーベッドの上で有りました。そして抱っこちゃん人形が木枠についておりました。

この年、このビニール製の黒い抱っこちゃん人形が流行っていたのです。


私の東京オリンピックの記憶では、時に写りが悪くなるテレビからのブルーインパルスの五輪の飛行機雲雲が10月10日、晴天雲一つない青空に描かれていた。


そして聖火台に火が灯されて


三波春夫さんの東京五輪音頭や、梓 みちよさんの「こんにちわ赤ちゃん」が流れておりました。


マラソンのアベベ選手も見れたのだと思われました。


そのテレビの上の蓋を開けるとレコードブレーヤになっていて、よくJAZZのLP盤がかけられていて、私は廻るLP盤に紙を丸めた物を載せて遊び、よく叱られたものでした。


そして、南側には小さな庭があり、葡萄が植えられて棚が作ってありました。


だぶん、デラウェアの様な葡萄で種があって、酸っぱかった様に思います。


よく父は葡萄にたかる害虫駆除をしていて、そこにくるアマガエルを「可愛いだろう。」と見せてくれたものでした。


生物や自然のことは父が窓口でありました


小さな私はとても幸せだったのです。




それからどのくらいたったころでしょうか?


2013年9月に第二回 2020東京オリンピックが招致される事が決まったのでした。


「2度目のオリンピックかぁ、元気で観ることが出来るだろうか?」


この頃の私は自分の健康に自信がもてなかったのです。




2010年

母が亡くなりました。


その数年前に福島のスキー場の民宿で父が脳溢血で倒れそれより母の老老介護と私の介護サポートがスタートしたのでした。


私も母も長い介護生活を変えなければいけないと思っていた矢先のことでした。

母はもともと看護師でしたしベテランでプライドの高い看護師バカでした。


しかし、自分のことは心筋梗塞を放置して治療もできずに心不全を起こして亡くなってしまったのです。

母の葬儀で勃発する父の親族の情け無い争奪戦。


2011年 3.11

東関東大震災


母の死の整理もできないまま、私はテレビの前で泣いてばかりだった。


「何もできない」ただただ、どうしようもない無力感にさいなまれておりました。


2012年

我が家の身内の事件


義理の弟の失踪と捜索、そして義理の妹の死

なんとも言えない虚脱感と失望。


2013年

 父の死と私の入院

東京2020オリンピック招致


2014年

心新たに伊勢神宮へ(おかげ参り)


2016年、新居の為の建築会社の方との出会い。


2018年

長年待たされ続けた区画整理事業の移動でやっと新居へ


2020年

東京オリンピック開催の年


この年の正月、年女である私は縁起物と絵馬が欲しいと日光の二荒山神社に向かっていた。


 日光東照宮、二荒山神社には初詣の客は少なくて、ほとんどが中国からの観光客でごった返しておりました。


私は2019年からの武漢から出たウイルスを思い出し、そそくさと参拝し、買い物を済まして日光を後にしたのでした。


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