第5話
美しい冬だった。
愛している。踏みにじられて土に塗れてばしゃばしゃとまるで吐しゃ物みたいだ。消化したはずのものも消化しきれなかったものも混沌としている。見下ろせばそのまま飛び込んでしまいそうになるから視線は向けなかった。まるで肖像だ。飲み干したいとさえ思った。
早く彼女を抱きしめたいと、僕は逸る気持ちのままに駆けた。特に約束をした訳でもない。ただの思い付きだ。今日は少し寒いから、せいぜいそれくらいのことだ。暖を取るのと彼女と寝ることは同じみたいなものだろう。そういうことができるのだと思うと、彼女を脅してよかったと思う。以前の僕なら考えられないことだ。汚い。
耳鳴りみたいに彼女の悲鳴が響いている。僕の指に、舌に、身体に、すべてに、彼女は拒絶の悲鳴を血管から噴き出す。吐きそうだ。なんて心地がいいんだろう。
彼女の部屋まで階段で行った。彼女の元に行くのにわざわざエレベーターを使うような大袈裟は必要ない。僕の足でも簡単にそこには届くのだ。地上19mの地底に彼女は住んでいる。
扉の前に立った。
声が聞こえる。
聴こえるべきでない声だ。
聴くべきではなかった声だ。
僕と同じだ。
扉を開く。
丁度ノブに手を伸ばしていた彼女はぱちくりと瞬いていた。思えばこうして対面するのは初めてか、ああいや、そういえばサクノに紹介されたことがあった。そうか、確かに彼女は、しいのことをずっと見ていたような気がする。
「河野さんか。どうも」
会釈をして彼女の隣をすり抜ける。
しいは立ち尽くしている。僕は彼女をベッドへと誘った。むせ返るような華の匂い。脳が軋む。僕はいっちょまえに嫉妬しているのだと思った。それとも興奮していたのかもしれない。今からこの部屋は彼女で満たされる。換気なんて必要なかった。人間一人分の湿度は空の雲さえ地に落とすだろう。
「なにしてるの」
河野臨が彼女に問うた。
彼女は疲れた様子で僕に身を任せていた。彼女の舌はミントの味がする。きっとずいぶんと酷使したのだろう。無意識のように僕を迎える動きはぎこちない。代わりに応えた。
「見て分かるだろう。愛し合っているんだよ」
簡単に分かる嘘だった。彼女のブラウスのボタンを外す腕が掴まれる。
「離してくれないか」
「しーちゃんに触らないで」
「なぜ?こいつは僕のものだ」
「しーちゃんに触らないで」
長く鋭い爪の先が僕の肌を裂いた。
僕も伸ばしてみようか。どうせこの指は彼女を傷つけることしか知らない。
僕は笑った。
「混ぜてほしいならそう言えばいい」
「はぁ?」
「独占欲なんて止めておけ。無駄だって分かっているだろう、君も」
僕は腕を振り払った。ブラウスのボタンを引き千切る。彼女の上半身が露になる。ブラにフィットする小ぶりな乳房に釘付けになる。今日はこれを犯してやろうとそう思った。
玄関の閉まる音がやかましく響いた。
どうやら河野臨は想像していたのとはまた違うようだった。滑稽だ。馬鹿なんじゃないのか。
「―――コトリは」
と。
彼女の手が頬に触れる。
しゅるりと頬を撫でて、眼鏡が取り払われた。
ああ。
ずいぶんと久しぶりに、彼女の顔を見た気がする。
彼女もそうなのかもしれない。ぱちぱちと瞬くのが分かる。
「コトリは、私を独占したくないの」
「したいさ。当たり前だろう」
違う。だめだ。分かっていても言葉は零れ落ちた。とっくに僕は限界だった。分かっていた。汚物を吐き出すしか僕にはもうできないはずなのに。彼女を汚すことしかできないはずなのに。どうしてこんなものが紛れこんでいるんだ。僕の中にこんな白妙は要らない。違う、僕は、
「でも、でも君は僕のものでしかないじゃないか」
そうだ。そうなんだ。
これは僕のものだ。それは間違いのないことだ。誰に
これは僕の物だ。
だったらもうどうしようもないじゃないか。
幸福で死にそうだ。
「どうして君は僕を拒絶してくれなかったんだ」
「したかったよ」
答えは単純だった。
知っていた。彼女はそういう人間だ。僕はそれをよく知っている。その理由を説明するための言葉はもう僕のものではない。僕の物はもうこれしかないんだ。もう輪郭さえも分からないこれしか。
彼女の手が僕の頬を挟む。
僕の舌はなんの味がするのだろう。
「コトリ。サクノに隠れてこれからも私を抱いてよ」
「どうして、嫌だ、僕は、僕は本当は、だって、」
「じゃないと私、サクノに全部言う」
彼女は笑顔だった。
「ノゾミにしたこと、コトリにされたこと、サクノを裏切ってたこと、全部」
彼女はあまりにも美しかった。
「黙っていて欲しかったら、私を抱いてよ」
親友に脅された。僕は彼女を好きにしようと思う。
―――
終了です。
お目汚し失礼いたしました。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます