2 メガネの少年

 休憩室で来月の勤務シフト表を眺めていた。俺が居る輸出課には、百人を超える人間が所属している。この事務所のどこにそんなに人数が入るのか不思議だが、朝、昼、晩、休暇と入れ代わり立ち代わりで働いているし、俺がいつもしている仕事の他にも、さまざまな業務を担う人が居るので、事務所内でてんやわんやしているのは常時平均三十人くらい居るということになる。現在、国際貨物部門は絶賛拡大中の事業であるため、来月から一気に十人の新人がOJTに投入されてくるのだが、教える側の俺たちでアサインされているのは同期、先輩を含めて五人。

「いやいやいや、浜島さんこれ無理ですよ。今でもギリギリじゃないですか」

 手元のシフト表から顔を上げて、ソファに座る浜島さんに話しかける。浜島さんは足を揃え、携帯を手にテレビを眺めていた。ゆっくりとこちらを向くメガネに、テレビの画面が映りこむ。

「宗方くん……、耐えるしかないの」

 そう言ってまたゆっくりとテレビに視線を戻した。今日も変わらず黒髪のキューティクルが絶好調で、天使の輪ができている。

「どんな人たちが来るのかなあ」

 山近さんがお菓子を食べながら言う。お菓子と言ってもジャンクな感じではなく、洋菓子屋で買ってきました、といった見た目のマカロンや果物屋のフルーツサンド、和菓子屋のきんつばなどだ。焼きそばやチャーハンはもとより、弁当を食べている姿すら見かけたことがない。そんなに腹は減っていなかったが、俺も晩飯を食べようと冷蔵庫に入れておいた弁当を取りに行く。

「ない」

 出勤前にちょっと遠回りして、旅客ターミナルにある弁当屋で買ってきた弁当が消えている。いい値段のする弁当が並ぶ中、穴場的に安い生姜焼き弁当はいつも売り切れていているのに、今日は最後の一個を買えたのだ。一度冷蔵庫を閉めて、もう一度開けてみるが、ない。

「まじか」

 午後八時、もう駐車場のコンビニは閉店している。弁当がないとわかった途端、腹の虫が抗議の声を上げ始めた。ちらりと休憩室を見回す。山近さんはお菓子を食べている。浜島さんはさっきサラダを食べていた。あんな野菜だけで腹が満たされるのか疑問だが、あの体の細さを見ればきっと十分なのだろう。他に休憩室に人は居ない。俺が必死にロサンゼルス便と闘っていた午後、誰かが弁当を盗んだのだと思うと、怒りよりも先に、そんな暇な奴がいるのかという驚きを覚えた。いずれにしても弁当がなければ休憩も意味がない。仕事はいくらでもあるのだ。失意に暮れつつ、事務所に戻ることにした。

 事務所に戻ると、後輩の藤嶋が〆作業をしていた。今日、彼女はサンフランシスコと台北を担当している。台北は俺と丸本で〆の作業を引き取って終わらせたが、サンフランまで手伝ってしまうといつまで立っても独り立ちできないという理由で、一人残って作業をしていた。藤嶋は彼女の同期でただ一人、今日まで残った人材だった。

「藤嶋、何か手伝おうか?」

 話しかけると、今にも泣きそうな顔でこちらを向く。

「何度やってもこのエラーが出ちゃって……」

 隣の席から椅子を持ってきて座り、藤島の隣で画面を覗きこむ。数カ月前に新システムに切り替わってから毎日意味不明なエラーが出ていて、これもそのうちの一つだった。

「ああ、それは一度別画面で貨物を登録して戻ってこないと、こっちの画面に出てこないんだよ、ちょっとごめん」

 マウスを借りて操作する。俺らが休憩に行ってからずっとこのエラーで止まっていたのだとすると、三十分近く立ち往生していたことになる。悪いことをしたと思った。

「はい、これで進めると思うよ」

「ありがとうございます!」

 まるで俺が命の恩人であるかように頭を下げられるので、恐縮してしまう。

「いや、いいよいいよ、俺も水瀬さんに教えてもらったやり方だし。それより他、なんか手伝よ」

 藤嶋がシステムでの作業を進める隣で、各種書類や電報の整理整頓をしていると腹が鳴った。俺のではなく、藤嶋の腹だ。

「す、すみません、恥ずかしい」

顔を真っ赤にしている。

「いや、こんな時間まで働いてたら腹も減るよ。俺もさっきさ――」

弁当を盗られた、と話そうとしたが、事務所のど真ん中で話すことでもないかと思いやめる。ごまかそうと事務所を見回していたら、カップ飲料の自販機が目に入った。

「ちょっと待ってて」

 最近、あまりにも周囲に店が無さすぎて従業員のQOL(クオリティ・オブ・ライフ)がひどいことになっている、という懇願により、このカップ式自販機が事務所内に導入された。木枯らしが吹き始めても『つめた~い』しかなかったのに、やっと半分が『あたたか~い』に変更されていて、一番右下にコーンスープが追加されている。

(地獄に仏とはこのことか……!)

二つ買って藤嶋の席に戻った。

「はい、とりあえずこれ飲んでしのいで」

藤嶋の机が書類でめちゃくちゃだったので、一度書類を全部こちらの席に引き取ってカップを置いた。

「あ、ありがとうございます!」

 藤嶋は拝むように手を合わせてお礼を言うと、両手でカップを包み込みゆっくりスープを飲んだ。温泉に入った人みたいな表情をする。俺も続いてスープを飲んだが、五臓六腑に染み渡るのがわかった。『人間、腹が減っていると碌なことをしない』と田舎のばあちゃんが言っていたのを思い出す。俺は引き続き藤嶋の隣の席に座って、書類の整理を手伝う。本来であれば明日の午前便の準備が始まっている時間なので、AWBを捌いたり、危険物のチェックをしに行ったりと、やることがあるのだが、このまま藤嶋を放っておくことはさすがにできなかった。


 電話が鳴る。事務所の別の島から誰かが声を上げた。

「たぶんキャシーからだぞー」

藤嶋の顔に焦りの色が見える。キャシーはサンフランに居る輸入担当で、日本時間の午後八時半くらいまでに便を〆終えないと催促の電話をかけてくるのだ。

「あとどのくらいで終わりそう?」

画面を覗きながら訊ねる。見たところさっきのエラーが解決して以降、作業は順調に進んでいるようだった。

「あ、あと三十分くらいです」

藤嶋が画面から目を離さずに言う。俺は鳴り続ける電話の受話器を取った。国際電話特有のちょっとこもった音質で、いつものキャシーの声が聞こえる。まくし立てるようになにかを言っているが、毎度全然聞き取れない。一通り聞き流したあと、向こうがひと息ついたのを見計らって

「ソーリー ウィ アー ゴーイング トゥ フィニッシュ イット イン サーティ ミニッツ」

とゆっくり言うと、「オーケー」と言って電話は切られた。この言葉を覚えていればたいていの場合キャシーは退散するので、事務所内では魔除けの呪文のように重宝されている。

「キャシー怒ってました?」

おそるおそる藤嶋が訊くので、実際はわりと怒っていたものの

「そうでもなかったよ」

と答えつつ、近くにあった裏紙を小さくちぎって魔除けの呪文を書いて渡す。英語のスペルがよくわからないので、カタカナで。藤嶋はメモを見て読み上げる。

「ソーリー ウィ アー ゴーイング トゥ フィニッシュ イット イン サーティ ミニッツ」

二人で呪文を詠唱する練習をしていると、浜島さんが怪訝そうに眺めながら近くを通り過ぎて行った。

「キャシーから電話かかってきたら、とりあえずそれ言えば一度は退散するよ。でも二度目は効かないから気を付けて」

「ありがとうございます!」

藤嶋はそう言って近くのセロハンテープを手に取ると、自分のノートの表紙の内側にメモを貼り付けていた。便を〆終えるまで、キャシーは何度でも電話をかけてくる。ソウルや台北なら飛行機がすぐ着いてしまうのでまだわかるが、サンフラン行きはまだまだ太平洋の上だろうに、キャシーはせっかちだ。向こうには向こうの事情があるのだろうけれど。藤嶋は二十分ほどで便を〆終え、二度目のキャシー襲来を未然に防ぐことができた。

 それから俺たちは、当たり前のように残業をして次の日の準備をした後、タクシーに相乗りして帰宅した。車内に流れるラジオ深夜便の落ち着いた声を聞いているといつの間にか眠ってしまう。運転手さんに起こされてタクシーを降りたときには、午前一時を回っていた。


 世間が年末年始の休みに入るころ、空港は実に賑やかになる。通勤時の電車の混み具合もさることながら、駅も空港内も人でごった返していて、そんな浮かれた人々を横目に、今日も貨物地区へ向かう。

 旅客ターミナルの喧騒とは打って変わって、貨物上屋は静寂に包まれている。もともと貨物が喋るわけではないが、物量そのものが減っているので、上屋もいつもに比べるとがらんとしていて、とても静かだ。いつもは轢かれないかと用心するフォークリフトも見当たらない。空港で働いている、と他人に言うと年末年始は忙しくて大変でしょうと言われるが、貨物地区に限っていえば、すごく暇だ。貨物を乗せずに乗客とバゲージだけを積んで飛んでいく便もあるくらいで、現場で働く者としては楽で楽でしょうがない。こんなこと言うと営業部門に怒られそうだが。というわけで今、事務所内にはこの上ない平穏が訪れている。いつもけたたましく鳴り響く電話も沈黙。無線も我々とは関係のないやりとりが聞こえてくるだけ。

「平和ですね……」

「平和だね……」

 今日の俺のシフトは受付業務で、山近さんと一緒に担当している。同期や年次の近い先輩である水瀬さんたちは旅客便の業務専門だが、俺は出向期間にできるだけいろんな業務を経験するために受付もやっていた。受付カウンターの椅子に座って外を眺めているが、誰も来ない。あと数日で今年が終わるのだから、もう皆ゆっくり家で大掃除でもしておいてくれ、と思っていたら、課長代理の佐原さんがバケツと雑巾、ハンディモップを持ってきた。

「はい、あんたたち暇そうだから掃除でもしてね」

三角巾をつけて、はたきを手にあちこち移動する様子は、とても課長代理には見えないが、あの人がまぎれもなくこの輸出課を取りまとめているのだ。そのボスの命令とあらば、背くことはできない。どうせ暇だ。ネイルが汚れるのを避けるため、山近さんがどこからかゴム手袋を調達してきた。

「はい、晋ちゃんの」

「ありがとうございます」

まずは受付周りを丹念に拭いていく。なんだかんだ言ってトラックやフォークリフトの排気ガスがどこからか入ってきているようで、窓は特に汚れていた。

「うわー、私達排気ガス吸い込みまくってるね」

山近さんが真っ黒になった雑巾を広げて見せてくる。

「そういえばアウトサイドの人、結構マスクつけてますよね、関係あんのかな」

外でフォークリフトに乗ったりタグ車で貨物を運んだりしている人たちはアウトサイドと呼ばれていて、同じ建物で働くグループ会社ではあるものの、別会社の人間だ。この業界に入ってわかったことは、とにかく細かく分業化されているということで、子会社からさらに孫会社、その子会社と、さまざまな所属の人間が働いている。一見似たような制服を着ているが、別会社の人だった、ということもよくある。

「今度から私もマスクつけて仕事しよっかなー」

「ていうか、掃除してる今こそマスクした方がいいんじゃないですかね」

「確かに! ちょっと待ってね」

そう言うと、またどこからか、山近さんが不織布のマスクを調達してきた。

「はい、あげる」

「ありがとうございます、山近さんなんでも持ってますね」

「ファンがいるから、もらってきた」

そう言って憚らない山近さんには、確かにファンが多い。トラックの運転手もだが、アウトサイドの男性スタッフや、数少ない女性スタッフからの人気も高くて、山近さんが受付業務をしているとクレームが少ないのも、それが関係しているのではないかと思っている。

 受付エリアを飛び出して、今度は書棚付近を掃除していると、使われなくなったデスクトップパソコン置き場で山近さんが何かを見つけた。

「懐かしー、この写真。晋ちゃん見て見て」

右手にチェキの写真を持って、左手のハンディモップで手招きしている。せっかく集めたほこりがぽろぽろ落ちていく。

「ちょ、ほこり、ほこりがすごいです」

マスクを肘の内側で押さえつつ近づくと、名刺サイズのチェキにはメガネの少年が写っていた。浜島さんに勝るとも劣らない艶々のキューティクル黒髪が耳を覆っている。

「誰ですかこれ」

「誰でしょう?」

「……」

「…………」

「………………」

「陽ちゃんだよ」

「え!」

もう一度写真を見たが、水瀬さんには見えない。でもメガネと髪の毛を隠して、鼻と口だけを見ると、確かに水瀬さんの従兄弟かな? くらいには見えてくる。

「これ、ほんとに水瀬さんですか? 従兄弟とかじゃなくて?」

「なんで陽ちゃんの従兄弟の写真が会社にあるの」

鼻で笑われた。

「だって、これどう見ても水瀬さんじゃないですよ、めちゃくちゃ優等生で心優しい、小動物飼ってる少年にしか見えないじゃないですか。実際の水瀬さんはヤンキー……」

頭に軽い衝撃を受けて振り返ると、書類を挟んだバインダーを持った水瀬さんが立っている。短髪で茶髪。メガネはかけていない。

「ヤンキーがなんだって?」

「ヤンキー……ス、のファンですよね」

今度は肩をバインダーでぶたれる。

「ファンじゃねーよ」

水瀬さんは俺の横から回り込んで山近さんの手にあるチェキを奪い取り、近くのごみ箱に捨てた。壁にかけられているヘルメットを手に取ると、危険物チェックをしに事務所の外に出ていく。

「あ、捨てられちゃったね」

山近さんが少し悲しそうに言ったので、ゴミ箱から拾い上げた。

「これ、なんの写真なんですか?」

よく見るとメガネの奥の目が少し笑っている。

「新入社員紹介のときの写真だよ。皆のチェキ撮って、それを画用紙に貼って、紹介ポスター作ったの」

「山近さんが?」

「ううん、陽ちゃんが」

「え! 水瀬さんそんなマメなことやるんですか?」

言ったあとでハッとして後ろを振り返るが、誰もいない。藤嶋が近くで書類を捌いているだけだ。

「そうだよ、陽ちゃん絵も上手だしね。この写真はたぶんポスター作るときに、テストで撮ったやつだと思うな」

「へえ……意外ですね……、ん?」

香水の匂いに気づいた数秒後、横から浜島さんが現れた。

「なに見てるの?」

そう言いながら勢いよく俺の手元に顔を近づける。反射的に逃げる腕を、がしっとつかまれた。

「ああ、水瀬くんね、まだブラック水瀬になる前の可愛かったころ……」

俺の腕を離すと、自分のメガネのつるを握って調整する。顔を近づけたときにズレたらしい。

「いや、ブラウン水瀬かな、フフ」

満足そうに言うと事務所の奥に去っていく。立ち聞きしていた藤嶋に「今は茶髪だからよ」と念押ししていた。「はあ」と戸惑う藤嶋を見て、山近さんが

「そういえば、藤嶋ちゃんの雰囲気にどことなく似てたかも」

と言う。バリバリに仕事ができる水瀬さんと、毎日仕事に苦戦している藤嶋では全然似ても似つかないと思うのだが、藤嶋の前でそれを言うのもなんとなく悪いような気がして

「そうなんですね」

と適当に返事をしたら

「適当だね」

と山近さんに見抜かれた。とりあえず写真は近くの机に置いて、掃除を再開する。それにしても本当に暇だ。各便の状況を記すホワイトボードを見ても貨物がないことを示す“NIL”の文字がいくつも並んでいて、いつもなら皆、走り回っている時間なのにのんびり〆作業をしている。丸本は既に便を〆終えたようで、何かを黙々と作っていた。

「何やってんの」

机の上にはプラスチックのファイルと、名前が印刷されたテプラが無造作に置かれている。

「新しく入ってくる子たちの、教育記録ファイルを作ってるんだよ」

丸本は教員免許を持っているからか、この輸出課では教育担当グループに入れられている。いろんな担当業務があって、山近さんや俺は安全管理グループのメンバーになっている。ヘルメットとか救急箱とかそういうのを点検したりする係。なんだか中学生の時の生活委員会とか、図書委員会、みたいだなと思う。机の上のファイルを数えると、十個ある。

「やっぱ十人来るんだな……」

つい、ため息が出た。

「そうだよ、僕この子たちの座学も担当しないといけないんだよね」

ファイルを眺めながら「この子たち」と言う丸本は結構やりがいを感じているように見える。

「座学ってなにやんの?」

「ほら、僕たちが新人のとき、楠木さんがやってくれたみたいなやつだよ」

「あー、あれかあ、……楠木さん元気かな」

楠木さんというのは、俺たちの同期を教育してくれた先輩で、いつも笑顔を絶やさない、皆のお姉さん、という感じの太陽のような女性だ。俺と同じく出向者だったのだが、二カ月前、異動になり成田を離れた。

「楠木さん神だったな」

「神だったねえ、あんな風に僕も教えられるように頑張らないと」

そう言って、エヘヘと笑う丸本は、のんびりしているように見えて結構しっかりしている。今もテプラをプラスチックファイルの背表紙に貼っているが、すべてのファイルに鉛筆で印がつけられていて、寸分の狂いも許さない本気度が伺えた。

「邪魔してごめんな、手伝いたいけど俺、多分テプラ貼るのへたくそだから掃除に戻るわ」

「うん、掃除頑張って」

佐原さんがこっちを見ている。仕方なく目を合わせると、手に持った社用車のスマートキーを顔の前に上げている。

「なんでしょう? ドライブ連れて行ってくれるんですか」

近づきながら訊ねると、キーを渡され

「洗車持ってって」

と言われた。これはめんどくさいやつだ。という顔をしたら

「めんどくさい顔しないの! どうせ暇でしょ!」

とたしなめられる。まあ、確かに今、この事務所で暇な人間暫定一位は俺なので、仕方なくキーを受け取った。受付に置いておいたバケツに雑巾とゴム手袋を投げ入れて、トイレで手を洗うと、上着を取ってきて外に出た。駐車場に向かって歩いていると、上屋から出てきた人が近づいてくる。

「昼飯~?」

水瀬さんだ。

「いや、社用車を洗車に持っていくんです」

「昼飯は?」

「食べてないです」

「じゃあ昼飯に行ったついでに洗車してくればいいじゃん」

「腹減ってるんですか」

「うん、ちょっとサイフ取ってくるから待ってて」

有無を言わさず洗車の予定に昼飯が差し込まれてきた。ヘルメットを脱ぎながら事務所へ入っていく姿を見送り、運転席に乗り込む。天気がいいからか、車の中は陽射しに温められて程よくあたたかい。昼寝するにはちょうどよさそうだな、と考えていると助手席と後部座席のドアが同時に開いた。

「藤嶋も誘ってみた。丸本は今日久しぶりに手作り弁当持ってきてるんだって。あと山近には宗方くん休憩行くから、って伝えといた」

シートベルトをつけながら水瀬さんが一気に話し終えると、タイミングを待っていたように後ろから

「お邪魔します」

と藤嶋の声が聞こえてきた。「はいよ」と返事をしてエンジンをかける。

「で、何食べます?」

水瀬さんに訊ねると、

「うーん、なんでもいいんだよなー、藤嶋決めてよ」

と後ろを振り返って言った。バックミラー越しに見えた藤嶋は、自分に決定権が回って来るとは思っていなかったようで、戸惑っている。困っている様子に悪いと思ったのか、水瀬さんは俺の方を向くと

「じゃあとりあえずターミナル行くか、店見て決めればいいし。運転よろしくね」

と言いつつ、横からポンポンと肩を叩く。

「了解です」

俺は車を発進させた。

「中から行きますね」

制限区域内を走る。一度ゲートの外に出るよりもこの方が早い。飛行機の真後ろを通っていると、藤嶋が窓に顔をつけて外を眺めていたので、こちらで操作して窓を開けた。

「すごい、近いですねー」

普段は事務所内でしか勤務しない俺たちが飛行機の側まで来るのは稀で、もし来ることがあるとすれば、かなりひどいトラブルが起きているときだったりする。例えば書類の積み残しが発覚したとか、わりと最悪な部類のものだ。そういうピンチのときには祖父江さんが車を走らせてくれる。焦っているとついスピードを出してしまうが、機側では時速三○㎞以下で走らないといけないし、空港では飛行機が何よりも優先なので、もし機体が動き始めたら止まって待たなくてはならない。なので常に冷静な祖父江さんにいつも白羽の矢が立つ。

「めずらしいじゃん、こっち通るの」

水瀬さんも窓を開けて外を見ていた。飛行機の後ろを通り過ぎて、ターミナルの建物に近づくと、陸橋の陰になっている駐車場に車を停めた。カードキーをかざしてドアのロックを開けると、関係者用通路から空港の中に入る。無機質な通路を歩いて、つきあたりのドアを開けると目の前には旅客ターミナルの賑わいが広がる。

「わあ、こんなところに出るんですね」

「しまった」

感動している藤嶋の隣で、水瀬さんがつぶやくと同時に、俺も同じことを思った。貨物地区があまりに静寂に包まれているので、すっかり世の中は全部がそうなんだと思い込んでいたが、今は年末の書き入れ時、空港は大混雑だった。

「一応、見てみます?」

レストランフロアの方を指差して言ってみるが、水瀬さんは首を横に振って

「いや、時間の無駄だと思うな、やめよ」

さっき閉めたドアにまた手をかけた。藤嶋がおろおろしている。

「税関食堂行こうか、安いし」

「ああ、それいいですね、そうしましょう」

俺が同意すると、水瀬さんは藤嶋の方を見て

「ごめんな藤嶋。というわけで戻る」

そう言うと、さっき閉めたドアをまた開けた。


貨物地区に戻ってくるとそのまま税関へ向かった。車を降りて建物に入る。

「税関来るのも初めて?」

藤嶋に聞くと、こくりと頷いて「はい」と言う。物珍しそうな笑顔できょろきょろしている。

「藤嶋がNACCSでミスやらかしたら、浜島さんとかのリーダーが謝りにくるところだよ」

先頭を歩く水瀬さんが言う。NACCSとは便を〆る作業の最後に行う税関申告業務のことだ。当然だが実際に搭載した個数を正確に申告しなければならない。が、人間はミスをすることもある。あと税関申告個数がややこしい、罠みたいな貨物もある。俺はその罠にかかったことがあった。

「宗方くんのとき、浜島さん来てたんだっけ?」

振り向いて意地悪そうににやりとする。

「いや、あのときは佐原さんが行ってくれてた気がしますけど、あれ、罠ですから」

「まあ確かにあれは運が悪かったよなあ」

二人の会話を聞いても藤嶋はピンとこない様子だったが、そのうち出くわすだろうと思うので、詳細な説明はしないでおいた。

 税関食堂は安い。味については賛否両論あるかもしれないが、少なくとも俺はコスパに優れていると思う。俺はいつもの生姜焼き定食、水瀬さんは唐揚げ定食、藤嶋はオムライスを注文した。

「水瀬さん、いつも唐揚げ食ってますね」

唐揚げの横に太めに切られた千切りキャベツがどっさり乗っている。くし切りのレモンは皿の端に寄せられたままだ。水瀬さんは唐揚げにレモン果汁をかけない。

「宗方くんだって、いつも生姜焼き食ってんじゃん」

確かに俺は生姜焼きが好きだ。でもいつもは食べていないので、水瀬さんはただ適当にオウム返ししたか、もしくはいつも唐揚げを食べていることを指摘されてちょっと恥ずかしくてムキになっているか、のいずれか、もしくは両方だと思う。

「藤嶋ってオムライスって感じするよな」

水瀬さんに言われて藤嶋は首を傾げる。

「それは、どういう意味でですか?」

スプーンを持つ手が止まってしまった。

「いや、なんとなくだけど……」

深い意味はなかったのか、水瀬さんが少し困った様子だったので

「ああ、確かにケチャップでかわいい顔とか描いてそうですよね」

とフォローしたら、二人して怪訝そうな表情をする。話題を変えることにした。

「来月から、新人入ってきますね」

「うん、そうだね」

「丸本が座学の準備してましたよ」

「あれ、丸本が座学やんの? 國井さんだと思ってた」

國井さんは、もとは本体の社員だったが、今は転籍してこの会社で働いているおじさんだ。いつもぼーっとしていて、薄いグラデーションの入ったメガネをかけているのもあり表情が見えず、なにを考えているのかわからない。

「水瀬さんのときは國井さんだったんですか? 座学」

藤嶋が訊ねると、口を動かしながら水瀬さんが首を縦に何度か振った。ほおばりすぎているのかなかなか飲みこまないので、俺が代わりに話を続ける。

「あの人、知識はすごいからな。自前の無線腰につけて歩いてるし」

「確かにたまに無線聞こえてくるなと思ったら、近くに國井さんが居ることありますもんね」

藤嶋も目撃したことがあったようだ。休憩室でテレビを見ている時に『國井無線』が鳴ると、まあまあうるさいので結構嫌がられている。

「でも楠木さんの方が評判よかったから、俺らの次の次の代くらいから楠木さんが座学やってたよ」

水瀬さんはそう言うと「ごっさん」と手を合わせ、水を一気飲みする。

「仕事も便担当やってないし、なにやってるのか謎ですね」

そう言う藤嶋もオムライスを食べ終えている。気づけば俺だけ半分しか食べていない。急いでかきこむ。

「國井さんも、もうおじいちゃんなんだから、ゆっくりしてりゃいいんじゃないの?」

テーブルに置かれているピッチャーの水を、皆のグラスに注ぎながら、水瀬さんはこの話題に飽きている様子だった。

「来月から、私もインストラクターやるんですかね……」

藤嶋が不安そうに視線を落とす。今の藤嶋の力量だと、後輩の面倒を見ながら業務を遂行するのは難しそうだ、と俺は思ったが、水瀬さんは違うようだった。

「藤嶋ならいい先生になると思うけどな。自分がつまずいたりとか、わからないことがあったりとかした経験が多いほど、いろんなパターンの新人に対応できると思うし」

藤嶋の顔がぱっと明るくなったのがわかった。水瀬さんが続ける。

「まあでも、まだイントラはやらないと思うけど。俺らや宗方くんたちが居るからさ。その間に独り立ちできるように、頑張らないとな。後輩に負けんなよ」

「はい! 頑張ります!」

こういうとき、水瀬さんが皆に好かれて信頼されている理由がわかる気がする。隣で聞いている俺もすっかり水瀬ファンなのだ。

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