⑸
新型ウイルスによって入社式が大幅に短縮されたおかげで、昼過ぎには家に帰った。
「ただいま」
家には誰もいないが、俺は挨拶をした。挨拶はするものだ。
小学校一年生の時、俺は家の中にいるばあちゃんに気づいてもらうまで、玄関の外でずっと「ただいま」と言い続けていたそうだ。「ただいま」と言えば「おかえり」と言われるのが当たり前だったのだろう。
大学に入り、一人暮らしを始めてから時々思う。「一人なんだから、ただいまと言う必要なんてないだろう」と。
だが結局、俺は「ただいま」と言い続けている。きっと、ランドセルを背負い始めたその時から癖になっているに違いない。
そんなことを考えながらスマホを見ると、また母ちゃんから連絡があった。今度は電話ではなくラインだった。
「入社式お疲れ!これで健一も社会人の一員やね!これから辛いこともあるやろうけど頑張ってね!」
所々に挿入されている感嘆符が気になるが、俺は母の激励に対して「ありがとう」と返した。
親父からの連絡は、特になかった。
俺は制服姿のまま横になった。今日の予定はもう何もない。帰ったら部屋の片付けでもしようかと心変わりもしかけたが、まあ、今日じゃなくても良いだろう。
それよりも、感傷に浸る時間が欲しい。何しろ今日、俺は社会人になったのだから。
「……本当に、俺は社会人になったのか?」
あの時と一緒の感覚だ。二十歳の誕生日でも、俺は大人になったと実感できなかった。
このまま寝てしまえば、起きたら入社式が帳消しになり、また社会人ではない自分がいるのではないかとさえ思えてきた。
本当にどうしようもない妄想だ。
俺は寝返りを打って、徐に鞄の中から辞令を取り出し、それを見た。
社長から手渡された辞令。俺が社会人になったことを示す何よりの証拠だ。間違いなく、俺はもう寝ても覚めても社会人なのだ。
俺は辞令を目に焼き付けて傍に置いた。
しかし、社会人になったという実感がないのも事実だ。こんな薄い紙を一枚貰っただけで、本当に、俺は社会人になれたのだろうか。
物語みたいに、もう少し明確な線引きが用意されているだろうと想像していた。
だが、そんなことはなく、あるのは辞令一枚。現実は、ドラマのように点と点が結ばれていくのではなく、初めから連続した一つの線に過ぎず、明確な点など存在しないということだろうか。
考え始めたはいいものの、良く分からなくなってくる。
しかし、ひとつ確かなことも分かった。想像というのは、やはり嘘で虚言で偽りなのだろう。
そういえば、社会人になったことだし、流石に今の俺は大人に……。
「目が合って伏せる奴が大人だって?」
俺は考えるのを止めた。どうやら、社会人=大人という安直な解を、俺は嫌っているようだ。
ピロリとスマホが鳴る。
今度は何だと思いながら開くと、大学の研究室の同期たちが社会人になったことを悲観し合っている最中だった。
俺はそれをボーッと見つめていると、いつの間にか瞼を閉じていた。
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