第22話 小谷真心2

 放課後に突入すると、小谷真心と佐野真奈は鞄を持って二人で約束通り、学校帰りの繁華街にカラオケボックスへ訪れた。


 部屋は、カラオケ装置とテーブルにソファーと、必要最低限の物しか置かれていない、立方体の空間だった。佐野真奈はカルピスウォーターをぐいっと一口飲んだ。冷たさと甘さが体の芯に染み透って、親父みたいに、あーと息をついた。透かさずモバイルのタッチパネルで、手慣れた手付きで選曲を始めた。小谷真心は、女の子にしては少し大きめの手のひらで、マイクを転がしていた。


 小谷真心は、歌うことは割と得意だった。声は小さかったが、それでもマイクのお陰で声は発散できた。カラオケは何かと悩みを溜め込みがちな、彼女のような学生には、ストレスを発散させるために都合のいい手段だった。カラオケの時の彼女の声は、早朝の爽やかな小鳥のような美しい声だった。


 小谷真心は歌っていると、一日の嫌なことが浄化されるような心地になった。頭の中を空っぽにして、音楽だけが踊るように、脳に浸透していく。歌うことは、小谷真心の自慢だった。どんな事が遭ったとしても、歌っている間は幸せだ、と言っても過言ではなかった。


「真心、相変わらず歌うの上手いよね。何か、ちょっと嫉妬しちゃう」

 佐野真奈の褒め言葉に、小谷真心も満更でもなかった。

「私も真心みたいに、綺麗に歌いたい!」

「どうやったら、綺麗に歌えるの? 何かコツがあるんでしょ。ねえ、笑ってないで教えなさいよ」

 佐野真奈は、一緒にいると楽しい気分にさせてくれた。二人でいるから楽しいのであって、一人でカラオケに来ても詰まらないだろうと、小谷真心は思った。


 小谷真心は最初から全力で飛ばし、一番好きな曲を歌う。部屋一杯に鮮やかな花びらが舞うような、美しい声が満たされる。

「真心、飛ばしているねー!」

 佐野真奈は、小谷真心の歌声にうっとりと酔った気分で、両手を上げ、ゆらゆらと体を揺らす。あとは流行りの曲を流し、最後にまた一番好きな曲でしめる。


 初めて挑戦する流行りの曲を歌えば、気持ちも真っ新になった。どうして、こんなに心が浮き浮きするのだろう。

「それ新曲じゃない。今、流行ってるよね。私も新しい曲にしようかな」


 佐野真奈は、大人たちが歌うような懐かしい曲を平気で選曲する。よくそんな古い曲、知っているねと小谷真心が尋ねると、親と一緒にカラオケに来るからと、佐野真奈はおどけて言った。小谷真心は、驚くのと同時に多少羨ましくなった。彼女は親とカラオケに来たことは一度もないし、やっぱり恥ずかしいと思った。


 決められた一時間は、あっと言う間に過ぎた。終わりはいつも慌ただしかった。急がなければ、帰宅が遅くなったしまう。暗い町の景色を見て、現実に引き戻される気がした。手にした鞄は、思いのほか重かった。はしゃいだ分、小谷真心の体は気怠かった。


 小谷真心は、一時間目から体が重かった。気分も重かった。この怠さは、はしゃぎ過ぎた前日のカラオケが響いているのだと思ったくらいだ。小谷真心は重い体に鞭打って、ノートだけはしっかり取った。黒板一杯に、白墨の角ばった文字が綴られていく。黒板の文字に追い付こうと必死だった。


 授業は大事なところだったから、先生は熱が籠もっていた。例の如く、先生が小谷真心を指名した。彼女はノートを取ることに必死だったから、一瞬自分の名前が呼ばれたことに気づかなかった。先生が二度目に名前を呼んで、彼女は狼狽えて立ち上がった。


「この文章を和訳しなさい」

 小谷真心の声はいつものように小さく、口籠もっていた。自信がなかったのも、運の悪さに拍車を掛けた。先生は小谷真心の発言を無視し、もう一度、和訳しなさいと同じ言葉を繰り返した。先生には、彼女の声が聞こえていなかった。答えが分からなかったわけではない。声が届かなかっただけだった。


 すーと息を吸い込んで、小谷真心は言葉を発しようとした。その瞬間、悪戯好きの男子学生が、わっと彼女の背後から大きな声を出した。思わぬ不意打ちだった。教室中の心臓が、彼女の胸に集まってきたように、どくんと大きく波打った。彼女は心臓が飛び出すほど驚いた。それから、小刻みにどくどくと鼓動が早まった。


「こら、そこ。授業中に何やっているんだ!」

 眉間に皺を寄せ、先生が指を差して男子生徒を厳しく咎めた。小谷真心の動悸は、なかなか治らなかった。彼女の気持ちと関係なく、先生は再び答えを促した。


 小谷真心は先生の声に従うように勇気を出し、答えを発しようとした。異変に気づいたのは、その時だ。言葉が出ない。試しに短めの声を出そうと、あっと口を開いてみた。頭の中で、あっと言っているのに、しゃべり方を忘れたオウムみたいに声は出なかった。小谷真心は、しゃべることができなくなってしまったのだ。黙ったままの小谷真心に先生は、もういい座りなさいと言って手を下げた。

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