第30話 多神夕美1(たがみゆうみ)
伝えたい思いを、誰かに正確に伝えることは難しい。自分の気持ちを、誰かに分かってもらうことは、更に難しい。その難しさは、誰にでも経験があると思っている。
適切な言葉が見つからなければ、思いを伝えることはできないというのは、嘘だ。たとえ相手が拒んだとしても、その片鱗さえ伝えられないということはないのだから。結果はどうであれ、その機会が全く与えられないってことはないはずだ。それでも、大なり小なり勇気は必要なんだ。それは、自分が考えているよりも、本当はちょっとした勇気なのかもしれない。
「なあ、多神。お前、一通もらった手紙に返事を書かないって本当か?」
「それは誰だって、返事が来る前に出すだろう。年始の挨拶なんだから」
朝、多神夕美は教室に入ってくる時には、郵便配達員くらいに手紙の束を持っていた。でも、これは誰に配るのための物ではなかった。窓際の後ろから二番目の席に着くと、手紙の束を無造作に机の上に置いた。同時に鞄も机の横に掛けた。朝の教室は、登校してくる生徒で、何かと慌ただしかった。
教室にいた生徒は、多神夕美を見て、あんなにたくさんの手紙、どうするのだろうと不思議に思うことがあっても、思っただけで何も尋ねなかった。だから、彼女は郵便屋さんと呼ばれていた。でも、そうではなかった。それは、全て彼女に届けられた手紙だった。
多神夕美は席に着くと、持ってきた手紙を、ぴかぴかのちょっと高級そうなハサミで封を切り始めた。ちょきちょきと迷いなく封を切る。彼女は封を切る時は丁寧だったが、中身の手紙は案外粗雑に扱った。手紙に目を通す時もあれば、一瞥して机の上に投げてしまう時もあった。器用に折りたたんで、紙飛行機にすることもあった。
紙飛行機は、きっちりと折り目を揃えて折った。狙いをつけて放った。紙飛行機は真っ直ぐにゴミ箱へ向かった。惜しい。ゴミ箱の縁に当たって入らなかった。彼女の机の中は、いつも手紙で一杯だった。毎日尋常ではない量だったが、彼女は全ての手紙の封を開いた。手紙は、全部彼女へのラブレターだった。
「多神、相変わらずその手紙の量すごいよな」
「お前の普通は、他の人にとっては普通じゃないぞ」
多神夕美が登校してくると、靴箱の中は上履きが隠れてしまうほど、手紙で一杯だった。靴箱を開けた途端に、手紙が落ちてくることもあった。彼女は郵便局員のように、靴箱から手紙の束を取り出すと、教室に向かった。手紙の表書きには、多神夕美様と、彼女の名前が様々な筆跡で書かれていた。その中に、同じ筆跡の物も見当たらなかった。プリンターで印字した物もあった。が、ほとんどが、それが尊い物のように手書きの方が多かった。多神夕美は教室に着くまでの間、それを確かめながら歩いた。
滅多にないことだが、手紙の束の中に違う名前の物が紛れていることがあった。その日は、宇野美月様と書かれた手紙が交ざっていた。そういう時は、本当の郵便配達員のように、間違って届いた手紙を本人の机の中に入れておいた。多神夕美は、小さな秘密を見つけたみたいに楽しくなった。
多神夕美が、それらの手紙に返事を書くことはなかった。たまに特定の手紙に興味を示すことはあっても、やはり返事はしなかった。それに放っておいても、手紙の数は減らなかった。
手紙は、一通として同じ物がなかった。何通も靴箱の中に入れられるから、同じ物を書いても読まれないということを恐れてのことだろう。それに手紙は一人一通と暗黙の了解が得られていた。そうしないと、多神夕美が大変だと気を遣ってのことだった。
「手紙の文面なんて、一々覚えていないだろ」
「それってどんな文面だ?」
「何だ。教えてくれないのか」
手紙には大きく分けて、二種類の手紙があった。差出人の名前を明記してある物と、差出人不明の物だった。どちらも自分の想いを伝えたいということは、同じだった。多いのは自分の名前を覚えてもらうために、便箋の上から下まで自分の名前を書いて、最後に好きだと告白するものだった。インパクトもあるし、きっと名前を覚えられると思っているのだ。
だが、こういった手紙は、多神夕美は一目見てゴミ箱行きにするか、読み終えた手紙の上に交ぜてしまう。差出人の名前だけだから、わざわざ読む必要もないし、それなら彼女のことが好きなのではなく、手紙を出した本人自身のことが好きなのかと思ってしまうからだ。
これによく似た文面に、多神夕美と便箋の上から下まで書いて、最後に好きだと締め括る手紙があった。これも漢字の練習ではないのだから、彼女は一瞬見て手紙の山に重ねた。こんなにたくさん彼女の名前を書かれて、一々それを繰り返し読めというのか。彼女にとって、それは読む必要のない手紙だった。
そういった種類の手紙の中には、ちょっと悪戯の気分で、出してみようと思った生徒の手紙も含まれていた。が、たとえ誰かがみんなの真似をして、悪戯で手紙を出そうとしても、手紙を書いているうちに、その考えを改めてしまうことは、よくあることだった。黒髪の長く美しい、涼しい目元の多神夕美はそれほど魅力的だったし、手紙を書くということは、人の心を改心させる特別な行為のようだった。だが、中途半端な気持ちだから、何て書いていいか分からずに、そんな奇策に頼ってしまう生徒もいた。
「手紙は書いた人の気持ちが、よく表れるからな」
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