ラブホから出てきたと勘違いされた俺と彼女が付き合う可能性は、どれくらいあるのだろうか。
アジのフライ
第1話 始まったのはラブコメではないなにか
「おい、あいつが…………」
「ああ。あんなやる気のなさそうな目をしてるけど、かなり……」
「冴えない顔して、すげえな……」
背後からひそひそと漏れ聞こえる同級生の男子生徒達の声に嫌気がさす。
どうして、こうなった?
自分自身にそう問いながらも、理由なんて分かりきっていた。
俺は教室へと続く廊下をとぼとぼと進みながら、つい一週間前のことを思い返す。
――ああ、今でも鮮明に覚えているさ。
あれは入学式から数日後の放課後のことだ。
高校生の仲間入りを果たした俺は、今までの冴えない学生生活を少しは青春っぽい日々に変えられればいいな、ラブコメ的展開が少しはあったらいいな、なんて希望を胸に抱きながら帰宅していた。
どうせ、みんなそんなもんだろ?
結局は今までとなんら変わりはしないと分かっていても、新しい環境とこの春の独特の空気感ってのは人を変なテンションにする。しかもそれが高校生ともなれば、なおさらだ。
桜色に色づくこの景色も普段よりワントーン上がっている気がして、ただの代わり映えしない通学路が特別な道に見えて、道行く他の生徒たちもどこか輝いて見える。
イヤホンから流れる青春ぽい曲に心躍らせ、自然と足が前へ前へと進んでいく。まるで、自らが物語の主人公にでもなったかのような感覚。
……いや、まあ実際はただの冴えない男子高校生なんだけど。そんなことを、どこかで思ってしまうのだ。
だからこれはきっと、この春の空気のせいだ。
入学式の前の日の夜に読んだ、激エモい青春ラブコメもののライトノベルのせいだ。
耳元で流れていた青春ソングのせいだ。
別になんのせいでも構わない。なんのせいにしたって、もうこの事実は変わらないのだから。
雰囲気にのまれ、浮かれていた俺のポケットからひらりと舞い落ちた一枚のハンカチ。
それが、全ての始まりだった。
それを狙いすましていたかのようにくわえ、走り出す一匹の黒猫。
慌ててその猫を追いかけながら、ふと青春ラブコメものの主人公もこんな風に走ってたな、なんて思う。
揺れるリュックの重みを感じつつ風を切り、周りの景色を置いてけぼりにしていく。なるほど青春とは、こうして追いかけていくものなのかもしれない。
桜の木々を抜け、右手に伸びる細い道に折れた黒猫の背を追う。まだ小さいからか、すぐに追いついた。
「ふう……」
にゃあにゃあと鳴き声をあげる猫を抱きかかえてハンカチをどうにか奪い返し、元来た道を戻る。
車が一台通れるかどうかくらいの細い道。両脇は草木に覆われていて、人通りはあまりなさそうな道だった。ただ、車のタイヤが通った跡らしき溝だけがくっきりと残っている。
抱き上げたままの猫は、逃げようともせずに俺の腕の中にいた。こいつ、ハンカチが欲しかったんじゃなく構って欲しかったのかもな。ふん、かわいいやつめ。なんて思いつつ、小脇に猫を抱えたまま元の大通りへ。
――ざわり、と空気が震える音がした。
俺と同じ制服を着た生徒たちの視線が、こちらの方へ一同に集まっていた。な、なんだ?
「おい、まじかよ」
「やばくね?」
「は、早すぎるって」
ざわめく生徒たち。なんのことが分からず、俺は自らの状況を俯瞰する。特に変わった所はない。強いて言うなら、この猫か?
……なんだ? 猫をいじめてはいないのだが。俺は、にゃあと鳴いた黒猫をおそるおそる地面に下ろしてやる。生徒たちの俺を見る目は変わらない。
――続けて、俺の真横でもうひとつ、にゃあ、という鳴き声がした。
見ると、やけにふてぶてしい顔をした三毛猫がそこにはいた。
「おい、どっちも猫連れてるぞ……?」
「猫プレイ……?」
「や、やべえよ……」
周囲から聞こえるのは、聞き慣れないそんなワード。
――どっちも、だと?
ゆっくりと顔を上げると、三毛猫のすぐそばで困ったような顔をした女の子がじっとこちらを見ていた。まったく気づかなかった。この子、いつの間に?
女の子は、艶のある黒髪のショートボブをさらりと風に揺らしていた。大きくぱちりとした目は、春の青空みたいに澄んでいる。肌の色はやけに白く、どこか大人しそうな雰囲気だ。
そして、その顔に浮かぶのは、なにが起きているのか分からないという表情。
きっと、俺も同じ顔をしていたことだろう。
ふと、視界の隅に何かが映る。背の小さめなその女の子よりもさらに上。俺は無意識に視線を上げた。
それは、やや古ぼけた看板だった。
ゴテゴテしたピンク中心の色使いをされたその看板には、ええと……?
ほ、ホテル…………ギンギン☆……マックス…………ぱ、パーティ……だと……?
俺は背筋が凍えるような感覚と、それに反して全身からぶわりと汗が噴き出すのを感じた。
ち、ちょっと待て。まさか、こ、この看板は……。
俺はそのあられもない文字が刻まれた看板の下、電飾の付いた矢印が示す方向へゆっくりと視線を向ける。それは、今まさに俺が歩いてきた道だった。
これは、どこからどう見ても間違いなくラブ……くっ、な、なんで通学路にこんなものが……?
それに、この道から出てきたのが俺だけならまだいい、この子はなんで俺の隣にいた? これじゃあまるで、俺とこの子が……。
見ると、俺と同じように女の子の左手にはキーホルダーらしきものが握られていた。
俺は全てを理解する。
こ、このクソ猫野郎ども……。睨みつけた猫たちは、なにも無かったかのようにくわああ、とあくびをした。か、かわいい。じゃなくて。
俺たちを囲むざわめきはさらに大きさを増し、生徒の数もいつの間にか増えている。
「…………どうしたんですか?」
名前も知らない、そしてこの置かれた状況もまだ知らない女の子は驚いたように周囲を見回した後、首を傾げて俺に訊ねる。
純粋な視線が痛い。
俺はがたがたと震えながら、視線を逸らして例の看板を指さした。
「…………?」
女の子は自らに向けられた俺の指にもう一度首を傾げてから、ようやく俺の指し示すものに気づいたのか、不思議そうな顔をして振り返った。
数秒置いて、わなわなと震えはじめる小さな肩。
「ほほ……ほてる…………ぎ、ぎんぎん☆……まっくすぱーてぃ……?」
耳まで真っ赤にしたその女の子は、カタコトで看板の文字を読み上げた。
そして、彼女は勢いよくこちらを睨む。
続けて俺も同じように、こちらへと熱い視線を向けている生徒たちへと向き直った。
そして、叫んだ。
「ちがいます!!!!!!」
「誤解だ!!!!!!!!」
俺の知っている高校生活は、少なくともこんな始まり方じゃなかったはずだ。
数日前に読んだ青春ラブコメの本も、耳元で流れていた青春ソングも、こんな始まり方はしていない。
もっとこう、甘酸っぱい感じで一目惚れをしたりだとか、トラブルに巻き込まれてやれやれ困ったな、なんて言いながら主人公の青春はスタートしていく。
――そう、俺の高校生活だって、そんな風に始まりを迎えるはずだったのに。
「お、おう! ……
「お、おはよう」
廊下でばったり会った同じクラスの爽やか好青年の
いいやつだなあ……でも、すごく距離を感じるのはどうしてだろう……。
そうしてようやく俺は自らの教室、一年三組へと辿り着く。
一つ隣、一年四組の教室に今まさに入ろうとしていた女の子がこちらを見ていることに気づいた。
彼女の白い頬は赤く染まり、その瞳はこちらを鋭く睨みつけている。そう、あの子が俺とあらぬ勘違いを受けている女の子だ。
そうして彼女、
俺もひとつため息をついてから、教室へ。
自然とこちらへ視線が集まる。
「ギンギンマックス先輩のお出ましだ……」
どこからともなく、声が聞こえた。
「…………」
席に着く。
さて。
どうも誤解を解かなければ、俺の、
代わりに始まったのはラブコメなどではなく、ラブホメだったのだ。
……なに言ってるんだろうな、俺。
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