第9話
───早朝。研究所の中をずんずんと歩くヒオリは、珍しく不機嫌な顔をしていた。
恐らく他の研究者とすれ違いでもしたら、「何事か」と驚かれ距離を取られる。そんな表情だったが、幸運なことに自分以外に人の気配は無かった。
しかし廊下を曲がり、たどり着いたカフェテリアはすでに活気づいており、眉間のしわを僅かに浅くする。
朝食をここで済ませようと早くから研究所に入る所員が多いため、限定メニューをそろえてすでに開店しているのだ。よく顔を合わせる店員らにおかしな目で見られるのは流石に居たたまれない。
一つため息をついて心を落ち着かせ、気に入りのたまごとハムのサンドイッチと野菜ジュースを頼み、ヒオリは席を探す。
ぽつぽつと席が埋まっているカフェテリア内。その窓際の席にふと目をやると、柔らかな黒髪を持つ男が優雅に腰掛けていた。
コーヒーカップを唇に触れさせる仕草に妙な色気があり、近くに座る所員たちの目が釘付けになっている。
ヒオリは先ほどより深いため息を床へと落とし、彼が座る席へと速足で近づいた。
己の気配に気が付いたのか、男は青色の目をこちらに向けて瞬かせる。
驚いた様子はなく、穏やかな笑みすら浮かべている。もしかしたら己が来ることを予想していたのか。
朝にふさわしい静穏なる雰囲気をまとう彼は、ゆっくりと唇を開いた。
「おはようございます、ヒオリ殿。おや、ずいぶん険しい顔をなさっていますが、どうかしたのですか?」
何事もなかったような声であいさつをする彼に、ひくりと頬の筋肉がひきつったのを感じる。
くすぶる怒りを深呼吸することで押さえ、ヒオリは低い声で「前を失礼するわ」と断りを入れた。
もはや敬語を使う気持ちもない。いきなり怒鳴りつけないだけありがたいと思ってほしかった。
「……もう少し率直に聞くべきだったわね、ニールさん。やっぱり貴方、夢で逢っていたんじゃない」
「夢で、とはなかなかロマンティックなことをおっしゃいますね」
「からかわないで。わかっているでしょう」
鋭い目付きでニールを睨みつけると、彼は動揺した様子もなく再びコーヒーをすする。
ヒオリもまたたまごとハム、そしてしゃきしゃきのレタスが挟まったサンドイッチを口に運んだ。
相変わらず研究所のカフェテリア職員の腕は一流だ。荒ぶる海のような感情が僅かに平坦になっていく。
自らの苛立ちをコントロールするため、しばし無言の朝食を続けた。
やがてヒオリは一つ目のサンドイッチを食べ終え、テーブル向こうを睨みつけながら尋ねる。
「あの夢は貴方が見せているの?……それともリリアン女史?」
「さて、ヒオリ殿が何を言っているのかはわかりませんが、私は何も関与していませんよ」
何処までもはぐらかすつもりなのか。
再び苛立ちが舞い戻ってきたが冷静さを保ち、彼の言葉に「そう……」と頷いた。
納得したわけではない。ニールがあの夢に関与していることは間違いないとは思っている。
しかし昨日リリアンから漂った香り、そして昨晩の夢の内容から推測して、原因は彼ではなく彼女である可能性が高いのではと考えているのだ。
それでも目の前の男の胡散臭さは変わらないが……これ以上問い詰めても暖簾に腕押しだと判断して、ヒオリは質問を変える。
「貴方は夢や精神を操る魔法はすでに失われていると言ったわね」
「ええ、そうですね。過去に存在した魔術師ならいざ知らず、現在その力を使える人間はいないでしょう」
「だけど私たちが見た夢……いえ、入り込んだとでも言うべき夢には、人為的な何かを感じるわ。これはどういうことかしら?」
ニールは何も答えなかった。
曖昧な笑みを唇に浮かべて、じっとこちらを伺うように見つめている。
ヒオリもまたその深海のように深い青色の瞳と視線を交じり合わせ続け、辛抱強く返答を待つ。
「失われたと言えど過去には確かに存在していたもの……。例えば誰かがそれを復活させたとしたら?」
やがて口を開いたニールに、ヒオリは目を細める。
思いもよらない発言だったが興味を惹かれ、やや身を乗り出すようにして再度たずねた。
「その口ぶりだと、過去の魔法が復活している可能性があると言うことかしら?」
「ディアトン国が内密に『魔術師』を復活させる計画を立てているという噂は聞いたことがありますね。無論、眉唾ですが」
そう言って肩を竦めるニールだが、ヒオリはこめかみに指をあてながら長考する。
確かに彼の言う通り、国家が過去の技術を復興させようなどとSFか伝記小説かと思うほど、眉唾物の話だ。
だが魔法の歴史の中、ヒオリも過去文明が『魔術師』によって栄えたことを知っているし、その技法を記した書物が残っていても不思議では無い。
問題は現在の……しかも一般魔法博士がそれを再現できるか否かと言うことだが。
リリアン女史が才女だと有名だとしても、そんな神がかった現象を起こすことが可能だとは思えなかった。
考えの渦にはまり、ヒオリは小さく唸った。
§
リリアン女史の研究や発明をよく調べておくべきかとヒオリが考えだした時、ふとニールが傍らにあったカバンを探り始めた。
すっとスマートな仕草で取り出したのは、小型のタブレット。つい最近発売されたばかりの最新魔法機器で、研究所内の博士たちは皆愛用している。
ヒオリが様子を眺めているうちに彼はタブレットの画面をタップし、テーブルに置いてこちらに向かって差し出した。
「ヒオリ殿。少々こちらを見てくださいますか?」
「これは、何かの資料……なの?」
タブレット画面に映されているのは、データ編集ソフトでまとめた表とグラフであった。
日付、時間、天候などが事細かに記されており、隣には人名が書き込まれている。
その中にはヒオリやメル、ハオラン室長などのアロマ研究室一同、そしてニール自身やヴェロニカ女史の名前もあった。
これはいったい何を示している?と視線で彼に問いかけると、青色の瞳は柔らかに細まる。
「ここ一か月温室内に出入りした者のリストです。お役に立てるといいのですが」
「昨日の今日でもうまとめたの?」
「ええ。職員の入退出履歴の記録は警備室にありますから。違反にならない程度にお借りしてきました」
「へえ、仕事が早いのね」
目を丸くして男を見つめると、彼は僅かに頬を染めて「このくらいでしたらすぐですよ」と頷く。
どうやら昨日ヒオリの前で言い切った啖呵は、嘘ではないようだ。
本当にこの男は自分の力量に自信があり、それを実現出来る実力を持っているのだろうと感心する。
怒りは一旦収めて「すごいわね、ありがとう」と素直に礼を言い、ヒオリはタブレットの資料に目を通していく。
知っている名前を下から上に見送っていると、目当ての人物が温室に入っていた記録があった。
(……リリアン女史は、今月でもかなりの回数入っているようね)
しかし彼女は魔法道具部。植物を頻繁に使う研究をするのだろうか?
もちろん無いとは言い切れないし、他道具部門の博士たちも何回か温室に入室している。しかしリリアンは他の職員に比べ、頻度が多すぎる。
彼女の専門は子供用玩具のはずであるし、おもちゃの研究でここまで植物を必要とすることがあるだろうか。
ならば他に目的があって温室に入ったのか?と思い今一度リストを見ると、隣にクロードの名前があった。
入室日時も二人ぴったりで、同時に温室に入ったと思って間違いない。……恐らく、逢引でもしていたのだろう。
(温室をデートスポットに使わないで欲しいんだけど……。まあ、言っても無駄だろうな)
ふうと小さく嘆息しつつ、これほど頻繁に温室に入れば彼らが外から種を持ち込む可能性も高いと考える。
だがはっきりした証拠もない今の状態では、所詮はただ頭の中で繰り広げられた空想にしかすぎない。
「まずはこれをもとに温室に入った人間から話を聞いた方がいいかもしれないわね。何か変わったことがあったかもしれないし」
「手分けをした方がいいですかね。私は美容部門に、ヒオリ殿は薬品部門に」
「そうね……、いえ」
薬品部門も働いている博士は多いから、聞き込みが一日二日で済むとは思えない。
しかしそれは美容部門のニールも同じだ。二人の仕事が終わる前に、メルがあの植物の調査を終えているかもしれない。
ヒオリはタブレットに映し出されているリリアンと、その隣にあるクロード所長の名前を見つめる。
(───二人とも夢に出てきた人たちだわ……)
何か関連があるのだろうか?しかも昨日の夢でスタッフルームにいたのはリリアン。それに彼女からはあの香りがしている。
しばらく悩んだが、結局可能性が高いところを当たった方がいいだろうと結論付けた。
タブレットから男へと視線を転じ、鋭く睨む。
「まずは数の少ない魔法道具部……玩具研究室のリリアン女史とその関係者に二人で会いに行きましょう。貴方は彼女に気に入られているらしいから、お茶に誘えば口を割るかもしれないわ」
昨日の昼食時のことを思い出しながら意地悪く告げると、ニールはぱちぱちと軽く目を瞬かせた。
「おや、私をダシに使うおつもりですか?」
「リリアン女史が何故貴方を執拗に誘おうとしたのかも気になるしね。夢以外で何か心当たりはないのかしら?」
「さて……」
ニールは薄い、秘密めいた笑みを唇に浮かべる。
先ほどから件の夢とリリアン女史について、確信に触れる返答はしていなかった。
本当に知らない───というよりも、意識して隠しているといった雰囲気だ。
(本当に胡散臭い人ね。この人についても、もう少し調べたほうがいいな)
過去の実績や所属、研究などは、魔術協会の関連ホームページや論文を調べれば出てくるだろう。
警戒心を強めていると、時計が始業時間に近づいていることに気が付き、ヒオリはニールとともに席を立った。
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