第7話

 ふたをしたシャーレを持って登場したメルは、ヒオリの隣にニールがいるのを見て目を瞬かせる。


「あらぁ、ニールさん。お疲れさまですぅ。何か御用でしたかぁ?」

「少々ヒオリさんの調香を見せてもらっていたのですよ。どうかしたのですか?」


 来訪者に問い返され、メルはヒオリとかたわらにやって来たハオラン室長に目配せをすると、一同の前にふたを取ったシャーレを差し出す。


「ちょっとこれを見てくれますか?温室で採取したものなんですけどぉ」

「……これは、何の植物だね?こんなもの植えられていたかい?」


 シャーレを覗き込んだハオランが、普段は柔らかい眼差しに怪訝な光をたたえて呟いた。

 ヒオリもまた見覚えのない形の植物に、眉間に深いしわを刻む。


 5センチほどの大きさの心形の葉が一枚、シャーレの中に入っている。

 緑が深く、青々としているが、葉の先端はやや黄色っぽい。葉柄が長くひょろりとツルが伸びており、ツル性植物の一種にも見えた。


 しかしヒオリの記憶が確かながら、こんな植物が温室に植えられていた覚えはない。

 疑問に思って視線をハオランに視線を転じると、彼もまた難しい顔をしてあごに手を当てていた。


「雑草かね?外から種が入ってきたのか?しかし温室の出入り口には消毒室があるが」


 温室へのゲートは、内部、そして外部に植物の種を持ち込まないために、除菌防除効果のあるものとなっている。

 出入りの際に職員たちは必ずそこを通らなければならず、魔法道具でもあるその防除ゲートがあれば高確率で植物の種や花粉、菌は死滅するはずだった。


 だがこの見覚えのない植物は、確かに温室に生えている。


「この植物の生態は今調べるところですぅ。あとこの植物が持ち込まれた経路も調査しないと」

「それは私が調べるわ。任せてもらっていいかな?」


 ぽつりと告げると、一同の視線がいっきにこちらを向いた。

 ヒオリは苦笑して肩を竦めながら、再度シャーレの植物に顔を近づけた。


「アロマの香りを嗅ぎたいのに、このままじゃまともな研究が出来ないもの。事態を早く収束させたいのよ」


 苦笑しつつ告げて、ヒオリはくん、と鼻をひくつかせる。

 鼻孔の中に広がったのは不思議な香り……それは夢の中で嗅いだあの匂いによく似ていた。


 様々な香りが混ざったような、純粋な植物のような複雑な匂いに、ヒオリの心は冷静に研ぎ澄ませれる。

 夢と先ほどの食堂で嗅いだ香り、そしてこの植物。偶然なのだろうか?


(……さっきの香りはリリアン女史からしていた?もしかしてあの夢に関りがあるのは彼女、なのかな?)


 香りを嗅ぎながらつい視線を鋭くしていると、シャーレを持っていたメルが落ち着かない様子で目を瞬かせる。

 戸惑わせてしまったことを謝罪しながら、ヒオリは彼女から体を離してハオラン室長を見た。


「室長、薬品部長とクロード所長に、私が調査する許可を取って貰ってもいいですか?」

「構わんが……ヒオリくん、何かあてがあるのかね?」


 うかがう眼差しで室長に問われ、ヒオリは曖昧に笑って「ええ、まあ」と頷く。

 ハオラン室長に納得した様子はなかったが、わかったと小さく頷き「私も協力しよう」と告げた。


 ヒオリ自身、己の感じたものが『あて』と言うほどの確証とは思っていない。

 たかが似た香りだけで何かを怪しむなど証拠不足にもほどがある。

 しかし昨晩見た夢のこともあり、どうしても自分の目で真偽を確かめたかった。


 ───まずはリリアン女史の研究を調べようか。そう考えたとき、ふと青い瞳がこちらを見ていることに気が付く。


 己よりずっと高い位置にあるニールの顔が、じっとヒオリを見つめている。

 何か言いたいことがあるのだろうか?と首を傾げた瞬間、青年はすっと視線をハオランに向けて口を挟んできた。


「何か大変なことが起こっているようですね」

「すみません、ニールさん。配属されて間もなくこんなトラブルが……」


 苦笑したハオラン室長が、青年に起こったことを説明する。

 彼は長い指を唇にあてて「なるほど」と、何事か考えて再びヒオリに視線を転じた。


「調査はお一人では大変でしょう?私もお手伝いさせてもらってもいいですか?」

「え?……は?」


 薄い笑みを浮かべるニールの顔をぎょっと凝視する。

 ハオランやメルでさえ驚いた様子で顔を見合せたというのに、気付かぬのか青年は「どうでしょう?」と再度たずねてきた。


「……どちらかと言えば私は一人のほうがやりやすいのですが」

「お邪魔だけはしませんよ。助手か何かとでも思って、雑用をお申し付けください」

「魔法美容部門の研究は?」

「そちらの方も手を抜くつもりはありません。仕事は早い方なんです」


 ためらうことなく、彼は告げる。

 口調こそ穏やかだが、何が何でもヒオリとともに行動をしたそうだった。


§


 ヒオリはしばらくニールの顔を見つめ、考えた。

 彼の厚意にはありがたいと思うべきなのかもしれないが、この男は胡散臭くいまいち信用に値しない。

 断りたいと言う気持ちが先行するが、何と言っていいものか頭が痛くなりそうである。


 いつの間にか睨むような形でニールを見ていたヒオリは、警戒心をむき出しにして告げた。


「手伝ってくれるなら容赦しませんよ。とことん雑用係として使わせて貰います。先に断っておきますが、私は人使いが荒いですよ」

「もちろん構いません。よろしくお願いします」


 これにも彼は戸惑うことなく笑顔で頷く。

 己を侮っているのか、体力に自信があるのか、雑用が好きなのか。

 ……それとも他にヒオリについていなければならない理由があるのか。


 しばし彼と視線を交わし合い、やがてぽりぽりと頬をかいたヒオリはため息をついた。


「わかりました。明日からお願いしてもいいですか?ちょっと気になることがあるんです」


 観念したヒオリの前で、ニールは「ありがとうございます」と笑みを深めた。

 晴れ晴れとしたその顔が何となく腹立たしく、ふうと深く吐息を漏らして視線を逸らす。


 外野から「おお、ヒオリくんを圧倒したぞ」「逸材ですねぇ」とひそひそ話す声が聞こえてきて、さらに腹が立った。



 午後の業務は大方件の植物の対処をどうするかの話し合いとなり、他の部門の責任者なども出てきて潰れた。

 終業のチャイムが研究所内に鳴り響き一同が解散したあと、特に残業のないヒオリはまだ調べものをしたいというメルを残し帰路につく。


 今日の夕飯は何にしようかとつらつら考えながら廊下を歩いていると、ふと曲がり角に立つスーツ姿の男を見つけた。

 あの人は先ほど研究室で別れたはずだが……と、思わず眉を跳ね上げ口を曲げる。


「ニールさん。調査は明日からの予定ですよ」

「ヒオリ殿を待っていたんですよ。もう少しお話をしたくなりましてね、一緒に帰りませんか?」


 歩み寄ってきてにっこりと微笑む胡散臭い青年を、ヒオリはちらりと睨み上げて通り過ぎた。

 鋭い己の眼差しの上に冷たい態度の己をしかし、ニールは気にした様子もなく隣について歩きはじめる。

 ともに帰ることなど了承していないのだが。とため息をつく。


 しかしこの男に執着されるような理由が、何処かにあっただろうか?

 魔法アロマに興味があると言うだけで、ここまで執着されるなどありえない。


 もしや昨日ヒオリが見た夢を彼もまた見ていて、己にその真相を訪ねたいと思っているのだろうか?

 その可能性もあるのなら、やはりこちらからから切り込むべきか……。


 色々と考えあぐねて言葉を選び、なるべく世間話になるように自然に切り込もうとした。が。


「ニールさん、私たち……先日どこかで会いましたか?」


 言い放って───失敗した。馬鹿かと思った。

 これでは夢見がちな学生の台詞のようではないか。先ほどのリリアン女史の誘い文句を全く笑えない。

 下手なナンパをしているのではないかと疑われても仕方ないと、思わず頭が痛くなって額を押さえる。


 呆然とするニールの顔を想像して、ヒオリは険しい顔で改めて見上げた。

 だが不思議なことに、彼は己の発言を訝しみも笑いもしていなかった。もちろん、あきれ果てていたわけでもない。


 彼は唇に浮かんでいた笑みすら決して、真っ直ぐにヒオリを見下ろしていた。

 瞳の色も合わさって、その表情はまるで凪いだしじまの海のよう。

 あまりにも静かな雰囲気が、青年を美しく、神秘的にすら見せていた。


 それを目にしたヒオリの胸は、彼の表情と反対に酷く騒ぐ。

 「すみません、忘れてください」と、何事もなかったように謝罪すべきだった。が、言葉すら忘れ、しばし美しいニールの表情に見入っていた。


 もしかして時が止まっているのかと錯覚する空間で見つめ合う。

 否、二人の間に流れていた時間は、その時確かに止まって感じていた。永遠の時のようで、鼓動の音だけが聞こえている。


 やがて……停止した空気を再び動かしたのは、ふっと持ち上げられた青年の唇の端だった。


「ヒオリ殿は私と逢った記憶があるんですか?それは、いつ?」

「……いえ、その。何と言いますか」


 夢で逢いました。とは流石に言えない。

 純朴な恋する学生ですら口にしないような台詞である。

 ニールが夢のことを知らなければ、ヒオリはさらに奇妙な人間として彼の記憶に残ってしまうだろう。


 ぐっと言葉に詰まった己をニールはしばし見つめていたが、やがてくすくすと笑って眉をたれ下げた。


「すみません、いいんです。気にしないでくださいね」

「え?あ、いや、それはこっちの台詞なんですが……」

「ふふ……」


 軽やかな笑い声をもらした青年は、再び廊下を歩き出す。

 何だか狐につままれたような気分になりながら、ヒオリは彼の後に続いた。

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