第6話

 研究室に帰還したヒオリは、ニールを室内に招き入れた。

 彼もまた認識証を持っているが、秘密保持のため基本的に他部の人間はゲートを潜れないようになっている。

 どうしても入室したい場合は部門長以上の人間に許可を得て、ゲートに認識証を登録しなければならなかった。


 ゲートをくぐって現れた見慣れぬ褐色の肌の美青年の登場に、研究員たちは動きを止めてざわめき始める。

 ハオラン室長もまた意外そうな顔でこちらに歩み寄ってくると、ぱちぱちと目を瞬かせてヒオリにたずねた。


「ヒオリくん、この方が今日こちらに来た方かい?」

「ええ、そうです。こちら魔法美容部門に配属されたニールさん」

「どうも」


 にっこり微笑んだニールに手をさし伸ばされ、室長は「ああ、こりゃどうも」と笑顔を浮かべて握手に応じる。


「実は魔法アロマの調香に興味がありまして。ヒオリ殿に連れて来てもらったんですよ。ここで勉強させて頂いても構いませんか?」

「ええ。もちろん構いませんよ。いやあ、良かったね、ヒオリくん」


 何が良かったね、なのだろう?見ると周りの同僚たちも、何故だかうんうんと頷いている。

 確かにこんな美男子が研究室にやって来ることは無いから、テンションがあがるものなのかもしれない。


 ハオラン室長も自分たちの研究に興味を持ってくれたことが嬉しいのか、妙に機嫌が良さそうだ。

 年甲斐もなくはしゃいでいる彼に、ヒオリは口元に笑みを浮かべて肩を竦めた。


「ニールさん、こちらです」


 室長から離れた位置にニールを手招いて、デスクに案内する。

 彼の横顔にはまだ好奇心の混じった視線が注がれており、その美貌がどれほど人の目を惹くのかを知ることとなった。


 しかし青年はマイペースで気にした様子はなく、ヒオリの机の上を興味深そうに眺めている。

 彼の視線の先には、昼食前に作っていた精油をブレンドしたものが入っている遮光性の瓶が置いてあった。


 それは温室から採れたラベンダーとスイートオレンジ、人気のあるその二種類を特殊な分量で混ぜた、ヒオリのオリジナルである。


「魔法アロマはほぼ普通のアロマと作り方は変わりません。植物から香りを抽出して精油を作ります」

「精油の作り方は水蒸気蒸留法ですか?」

「ほとんどそうですね。香りを強く出したい場合はアブソリュートも作っています」


 ちらりと視線を蒸留室へ続く扉へ転じ、ヒオリはそう説明する。

 アロマの抽出方法はいくつかあり、この研究室で使っているのは水蒸気で植物の成分を取り出す水蒸気蒸留法である。


 ちなみにアブソリュートとは特殊な溶剤を用いた抽出法で取り出した精油のことだ。

 ローズやジャスミンなど熱を加えると成分の壊れる繊細な植物に用いることが多い。


 他にもいろいろと方法があるが、アロマは大量生産して市場に出せる値段で収まる手間にしなければならない。


「私が調整するのはそれぞれの香りの割合と……それを引き出す魔力の濃度です。精油に魔法を混ぜるのは……」

「こちらの魔法道具ですね」


 精油の隣、デスクの中央に置かれている器具を見つめるニールに、ヒオリは頷く。

 『魔術師』ではない人間が魔法を扱うには、特殊な魔法道具を必要とする。


 ヒオリが使うのは家庭用のプラネタリウムにも似た、丸く小さな機械だ。

 上部にふたがついて中が空洞になっており、全体的に淡く青紫色に発光している神秘的な機械である。


 これは研究者や個人が使う小型のもので、工場には大量に魔力をこめる大型の機械も存在している。

 使用するには特殊な資格を必要とするが、もちろん研究所内の博士たちは皆取得済だった。


「魔力の割合は極秘です。先ほども言いましたが精油のブレンド割合も教えられません」

「もちろんですよ」


 肩越しに微笑む気配を感じ、ヒオリは息を吐いて椅子に腰かける。

 横顔に注がれる視線を気にしないようにして、魔法道具のふたを開けてオリジナルアロマの瓶を入れる。


 静かにふたを閉じ、吐息を深く吸って球体に手をかざして意識を集中した。


「……【αρχήアルケー】」


 唇に乗せるのは『力の言葉』。

 ヒオリの一声に反応し、魔法道具はさらに光を強める。


 目を閉じると内部に入れた遮光瓶の周りを流れていた魔力が、渦巻いていくイメージを感じた。

 浮かび上がるイメージを壊さぬようヒオリは今一度、『力の言葉』を口にした。


「【ύπνοςヒュプノス】、【θεραπείαセラピア】」


 声に反応するように、頭に浮かぶイメージが渦巻き、編み上がっていく。

 さらに意識を集中して、中の小瓶を織り上がった布のような魔力で包み込んでいく。

 やがて魔力は収縮し、小瓶と一つになっていった。


「【τέλοςテロス】」


 その言葉を最後に、魔道具に渦巻く魔力の波は途絶える。

 ヒオリはそっと目を開け、肩の力を抜いた。僅かな疲労感に息を吐き、魔道具のふたを開ける。


 見た目には先ほどと変わらぬが、自分の織りあげた魔力が込められた特製アロマが完成した。


§


 「出来ました」と背後で見守っていたニールに小瓶をかざすと、感嘆の声が上がったのを聞く。

 振り返れば彼はまじましと己の手元を見下ろし、感慨深げに何度も頷いていた。


「魔力を込めるのは精油をブレンドしたあとなのですね」

「基本的にはそうですね。前に込めた魔力が混ざると効果が変化することがありますから」


 魔力を込めた精油をブレンドする場合もあるが、ほとんどイレギュラーだ。

 興味深げに小瓶を見つめる青年にそっと手渡すと、彼はまた小さく満足げな声を上げる。


「ほう……。ラベンダーとオレンジの持つ魔力の効能を高めたのですね」

「ええ。プラシーボだけでなく、魔法のアロマは実際に医療の場でも使用されますからね。効果はありますよ」


 魔法が込められた製品は、その効能が高められたり、道具であったら長時間の使用に耐えうるように性質が変化しているものだ。

 ヒオリたち魔法博士が作るアロマも効果が認められているものなので、医薬品もしくは医薬外部品としてディアトン国では販売されている。


 古来にいたという『魔術師』たちは、もっとおとぎ話じみた魔法を使ったと言われている。

 一瞬で花を咲かせたり、死者ですら復活させる薬品を作成したり……それを見てみたいとは思うが、現代の魔法博士に出来るのはこのくらいであった。


 そこでふとヒオリは思いついて、声を潜めながらニールを見据えた。


「……ニールさん、夢を操る魔法というのは現代に存在するとお思いですか?」

「夢?」


 不思議そうに目を瞬かせた青年の顔を観察しながら、ヒオリは頷く。


「例えば魔法アロマを嗅いで眠っただけで特定の夢を見せるような……そんな効果を持たせることは可能だと思いますか?」


 続けて問いかけるが、ニールの顔色は変わらない。

 ただほんの少しだけ思案するように「ふむ」と口元に手を当てて唸ったあと、非常に冷静な声で見解を告げた。


「……そう言った魔法の話は文献で読んだことがありますが、恐らくもう失われているでしょう。『魔術師』たちは既に過去の人間ですから」

「魔法の歴史でありましたね……。しかし、そうなると夢に作用するような魔法は、やはり『魔術師』の領域に入ると言うことでしょうか?」


 熟考する格好のまま、ニールはヒオリの目を見て「そうですね」と頷く。


「過去の『魔術師』たちは何もない場所から炎を出し、水を噴き上げ、他者の精神まで操ったと聞きます。今現代に残っているのはその恩恵の欠片にも満たないでしょう。もちろん夢を完全に操ることも今は不可能だと言われています」

「なるほど、やはりそうですか……」


 『魔術師』という存在が魔法博士と置き換わったのは産業革命のあと、歴史にしてみればごく最近だ。

 しかしその僅かの間に、世界の中心であった『魔術師』たちはすっかり姿を消してしまっている。


 魔法が一般市民にも浸透していき、やがて彼らの出番がなくなったゆえに廃業するものが多かったというのが歴史家の定説だった。

 無論、本当のところはわからない。


 神秘が神秘でなくなったゆえ、彼らは自らこの地を立ち去ったのだろうか?

 もうこの世のどこにもいないのかもしれない存在に思いを馳せていると、ふいにニールがヒオリに問いかけた。


「しかしどうしてそのようなことを聞くのです?夢に関して、何か気になることでも?」


 何処か探るように青い瞳がこちらを覗き込んでおり、ヒオリの心臓は静かに脈だった。

 居心地が悪くなりそうなほど、深い青。まるで心の中を覗かれているような気分である。


 それを見ていると、何でもないですとそっけなく突っぱねたい気持ちが湧き出てくる。

 何重にも猫を被ることで何とか抑えて、ヒオリは苦笑して首を横に振った。


「いいえ。最近夢見が悪かっただけですよ。何とか緩和する方法が無いかと思って」


 一応答えてみた言い訳にニールは少しだけ間をあけたあと「そうでしたか」と頷いた。

 さらに問い詰められるかと思っていただけに、あまりにあっさりした態度に軽く驚きその顔を凝視する。


 こちらを見つめる瞳は相変わらず深く、唇には薄っすらとした笑みが浮かんでいた。

 食堂で見た、心を隠すような胡散臭い笑顔だった。


 特に追及することでもないと思われたのか、それとも他に思惑があるのか。

 顔色をうかがうだけではいまいち判断出来なかった。


(夢のことを聞いても顔色一つ変えなかったし、関係ないのかしら?じゃあ、他に可能性があるとしたら……)


 ヒオリは食堂での出来事を思い出す。

 あの時、彼と食事をともにしたとき、嗅ぎ覚えのある香りが鼻孔に入ってきた。


 確かあれは、リリアン女史が二人の間に乱入する前のことだったか───……。

 よくよく思い出そうと頭を働かせたとき、ふいに研究室から温室へと続く重い扉が音を立てて開かれる。


「室長、ヒオリちゃんも、ちょっといいですかぁ?」


 温室から顔を覗かせたのは、難しい顔をした同僚であった。

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