第17話

 血液の臭いを嗅ぎ取ったような気がして、リザリーは目を開ける。

 視界いっぱいに広がったのは、見覚えのない広い天井だった。


 自分が今どういう状況なのか不思議と思い出せず、二、三度瞬き、そして視線だけであたりを見回す。

 どうやら自分は清潔なシーツのベッドで眠っていたらしい。

 少し腕を動かすと、毛布がずれていく。その動きで手のひらにぴりりとした痛みが走り、眉をしかめた。


「……いた」


 発した声が意外なほど掠れており、驚きながら目の前に手がかざす。

 手のひらに包帯が巻かれている。どうやらすりむいているようで、動かすとちりちりとした痛みが走った。


 それでもぼんやりと、幾度か手を握り、開く。

 この痛みが何かを思い出させてくれそうな、しかし何故だが怖いような、そんな心地だ。


 どうして自分はここで寝ていたのだろう。

 それが知りたくて、真っ白な頭の中に、何とかここに来る前の光景を描こうとする。


「…っう」


 刹那、ぴりりと強い痛みが手のひらに走った。

 思考に集中していたため、開閉していた手をつい強く握ってしまったのか…と思い、ふと停止する。


 自分はこの手で誰かの手を握っていなかっただろうか?

 そんな疑問が頭の中に過った瞬間、何も映ってなかった頭の中に赤い場面が浮かんだ。


 赤い、と思ったものは滲みだった。

 真っ白な頭の中にぽつりと現れたその染みは、じわりじわりと大きく広がっていく。

 次第に真っ赤になっていく思考は、リザリーに過去の記憶をフラッシュバックさせる。


 ───背中に穴の開いた、真っ赤な血で汚れていくドレス……。


「……ミモザ、さん?」


 その名を呼べば途端に全てが頭の中に流れ込んできた。

 ひゅ、ひゅっ、と小さく荒い呼吸の音がする。どこか遠くで聞こえたその呼吸が自分のものだと気づいたのは、一瞬あとだった。


「み、もざさ…っ!!」


 ベッドから跳ね起き、裸足のまま床へ降りる。

 部屋から出るべく歩き出すが、寝起きのためか足に力が入らずにふらついた。


 よろよろと進み、しかしついに自分の足につまずいて転倒する。

 隣にあった見舞客用の椅子を巻き込んで、リザリーは体を床へ強かに打ち付けてしまった。


「クラントンさん!大丈夫ですか?クラントンさん!!」


 大きな物音に近くにいた看護婦が気づいたらしい。

 酷く慌てた様子で部屋に駆け込んでくると、何とか上半身を起こそうとする己の肩を支えた。


「クラントンさん。大丈夫ですか?立てますか?」

「いや、ミモザさ、ん!助けないと、ミモザさん……っ!!」

「落ち着いて!誰か!先生!!」


 手を払おうと暴れるリザリーに、看護婦は叫ぶように応援を呼んだ。

 騒ぎを聞きつけた医者と他の看護婦が足音荒く入室し、数人がかりで身体を抑えられ、ベッドに運ばれる。


 涙を流し、最後までミモザ・マーティンの名を呼んだが、むろん返事は返らない。

 ただ看護婦たちの「大丈夫、大丈夫ですよ」という優し気な声が虚しく聞こえてくるのみだった。


 自分の手を離れた女流作家の面影をまぶたの裏に見ながら、リザリーは打たれた鎮静剤のおかげで再び深い眠りについた。


(ミモザさんは、死んだんだ……)


 次に目が覚めたとき、リザリーはそれをはっきりと自覚していた。

 ミモザが撃たれたあとからの記憶がない。あの後すぐに気を失って、病院に運ばれたのだろう。


 しばらくぼんやりと天井を見つめ、今度はゆっくりとベッドから起き上がる。


 息を深く吸い、深く吐いて、足を床に下ろす。落ち着いて立てば、今度はふらつくことは無かった。

 ベッドの隣に据え置かれたテーブルを見ると、自分のものと思われる衣服が揃えてある。


 恐らくカトレアが数日の入院のために部屋から取ってきてくれたのだろう。

 ありがたく思いながら、リザリーは手早くそれに着替えて、病室を出た。


 リザリーが運ばれたのはセントラル病院だったらしい。

 幸運だと思った。ここは己が発見した、指のない男が運ばれた病院だったからだ。


(私が眠って、どのくらい時間が経ったんだろう。もう彼は目覚めているかもしれない)


 病室を一つ一つ調べるつもりで、廊下をずんずんと歩く。

 無意識に鬼気迫る表情をしていたのだろう、すれ違う看護婦や患者たちがぎょっといた様子でリザリーを振り返る。


 目立ってしまっている。だがそれを気にする余裕は無い。

 まずはこの階を回ろうか、と考えたながらふと中庭を覗く窓に視線を転ると───リザリーは目を見開いた。


 車いすに乗った男が、疲れた表情で花壇を見つめている。

 30代半ばの痩身の男である。


「……あっ!」


 その顔に見覚えがあり、リザリーは跳ねるように前へ駆け出した。


 唐突に叫んた己に、他の入院患者たちは驚いた様子だったが構っていられない。

 なりふり構わず階段を降りて中庭に続く扉を潜ると、そこにはまだこちらに背を向けた車いすが佇んでいた。


「……貴方は」


 所在なさげに腰かける入院着の背中に声をかけると、長い間を置いて彼は振り返る。

 虚ろな目がリザリーを捉えた。やつれて真っ青になっているが、やはり見覚えのある顔だった。


「あんたは?前にあったっけ……?」


 ことりと首を傾げて問う男は、間違いなく自分が発見し病院に運んだ男。

 車いすのひじ掛けに乗っている左手には、一本指が欠けている。


 彼に気づかれぬよう、ぐっと拳を強く握りしめながら、リザリーは掠れる声で話しかけた。


「お久しぶりです。覚えていませんか?私は貴方が裏路地で倒れていたときに声をかけた……」

「あ、ああ!あの時の人か……!」


 血の気の無かった彼の頬が、僅かに紅潮する。驚いて興奮したのかもしれない。

 リザリーはゆっくりと呼吸することを心掛けながら、言葉を選んで彼に訊ねた。


「お怪我は大丈夫でしたか?酷く憔悴している様子だったので心配していたんです」

「……ああ、大丈夫だったよ。残念なことにな」

「残念な……?」


 随分後ろ向きな言葉に眉を跳ね上げた己に、男はふっと苦笑する。


「すまんね。どうにも気力が湧かないんだ。せっかく助けてもらったのにね」

「……何があったのです?」


 暗い顔でうつむいてしまった彼に、心配するそぶりで再度訊ねる。

 彼は深くため息をついて、しばし自分の膝元を見ていた。

 が、リザリーが「話せば楽になるかもしれませんよ」と囁けば、視線だけをこちらに向けた。


「まあ、あんたには命を救われちまったしな……。知る権利があるか……」

「……」

「俺のところにな。奇妙な手紙が来たのが始まりだったんだ」


 ぎょっと、リザリーは呼吸を止める。

 『手紙』と言う単語に嫌な予感が募り、この男が病院に運ばれる前に己に言った……「俺の物語は最低なものなんだ」という言葉を思い出したのである。


 まさか、と思う間もなく彼は車いすごと体をこちらに向け、堰を切ったように語り続けた。


「なんか変なことがたくさん書いてあったんだ。俺のしたことは最低だとか、誰も望んでいなかったとか、それと……」

「最低な、物語だとか?」

「ああ、そうそう。あれ?俺、あんたに言ったっけね?」


 問いかけられて、リザリーは「気絶なさる前に」と頷く。

 そうか、と彼は頭をかき、酷く空っぽな笑みを浮かべて続ける。


「何か俺を、舞台俳優と勘違いしてるんじゃないかって文章だったんだよ。最初は気にしてなかったんだが、次第に俺の私生活を言い当ててきてね」

「私生活、ですか?」

「ああ、なんていうかその、俺しか知らないことを知っているような手紙が来たんだ」


 ふと男の表情が曇り、リザリーから視線を逸らす。

 決まりが悪そうな表情に、彼が考えていることを何となく察した。


 送られてきた手紙の内容は、ミモザ・マーティンに指の入った小包を送ったことを書かれていたのではなかろうか?

 自らの犯罪行為を誰かわからないものに言い当てられて、男は酷く怯えてしまったに違いない。


 彼に喋らせるために推理の内容や自分が新聞社の人間だとは言わなかったが、肯定するように彼はぶるりと身を震わせた。


「四六時中監視されてなんて言うかね。まず気になって眠れなくなってきた。それで食欲が無くなってきたところであいつらが来た」

「あいつ?」


 首を傾げるリザリーだがしばらく男は答えなかった。

 体の震えも止まらない。男の額にぷくりと浮き出てきた脂汗に、その精神状態がぎりぎりなのだと察する。


「自らを背景って名乗る、奇妙な奴らだ。俺の物語は最悪なものだと言って俺を捕まえようとした……」


 そこまで言って、男は口を閉ざした。

 顔色は真っ青を通り越して土気色、死人のようだった。


 これ以上話を聞くのは出来なそうだ。

 己の知っている情報を持ち出して揺さぶることは出来るかもしれないが、騒ぎになってはいけない。

 病室に連れ戻されて、最悪軟禁されてしまうかもしれなかった。


 彼の肩にそっと手を置き、リザリーは優しく「もう大丈夫です」と告げて礼を言う。

 最後にお大事にしてくださいと言い残し立ち去ろうとしたが、ふと男が顔を上げて己を呼び止めた。


「さっき俺を憔悴してると言ったが、今は方が死にそうな顔をしてるぜ。何かあったのかい?」


 これにリザリーは、苦笑で返した。

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