司水菫 六
橋の下で交わる、小さな濁りの川はいつから濁っていたのだっけか。記憶を辿る。あの川にまつわる最古の記憶は私の前を歩く椿の後ろ姿と
──耳と鼻はホルマリンに漬けてよ。
──軟骨は残らないでしょう。
沼に渦巻く水流に流されながら、椿の言葉を思い出していた。
ホルマリン漬けにする暇もない、この身体に腐敗はない。
私たちの身体はいつからあって、私たちは幾度水呼びを通過したのだろう。記録に残っている平安の時代より以前から、この風習は続いていたに違いない。
死んでいるのか生き返っているのかも判然としない状態で、水に浄化され水みたいに何度でも巡る。意識下では覚えていなかったのに、こうして何度も水漬いてきたことを血が憶えている。
──人ではないみたいね。
前回と違い、今回の私に
ふと、淋しくなった。
浄化って何を浄化しているのだろう。汚いものはもちろん、個々の大切な思い出まで含めて乱暴に全部浄化するの?
命は尽きず身体が健やかなまま残っても、私の内面全てに纏わることがすべて消え失せるなら。
それは実質死なのではないだろうか。
百合や椿はそれを淋しいとは思わないのだろうか。思わないのかも知れない。
私はきっと最初から、百合や椿のようではなかったのだ。三姉妹で一番しっかり者と評されるのはいつも私だった。器用なほうだった。けれど、私には姉二人のような生まれ持った独特の佇まいはない。椿だけが助からなかったと思っていた。でも逆だ。ほんとうは私だけが置いていかれたのだ──考えたいことは幾らでもあったのだけれど、徐々に意識が遠のく。眠りに落ちては醒めるを何度となく繰り返し、ひんやりと不穏な夢を何度となく見た。
*
白く美しい林を通過した気がする。葉ひとつひとつが透けるように光る、神秘的な林だった。夢の続きのように通り過ぎて、導かれるようにそのはずれ、深く澱んだ
これが浄化しきれなかった濁りの水。
百合と椿はこの水が溜まった淵の底に囚われになっているという。ちはるという娘と澪、森沢のおばさまはすでにここに入っているのだろうか。
私は今日この日、浄化される。菫ではなくなる。──なんて考えていたって仕方がないから、それ以上考えずに足から浸った。
聞いていた通り、底には大量の沈殿物が溜まっていた。夢の中で走るみたいに進みにくい。
泥のような澱みが絡みついて重い。この腐敗した言の葉はちはるから出たと聞いた。でも、これは私の澱みでもある。いや、森沢のおばさまによると、司水家全体の澱みと言っていたか。
──嬉しいことから、不要物とみなされて削られていくみたい。
椿は以前そう言っていたが、そうではなかった。私たちは本来常人よりずっときれいなはずだった。けれど、一族全体の澱みをたった数人で担っていたのだとしたら、年々耐久力が衰えていくのも当然のことだったろう。
「椿」
思わず呟いたら、水の中にもかかわらず声を出せたことに驚く。堆積物がわっと踊って、そのはずみに埋まっていたものが顔を出した。白い脚。その先端のちいさな踵と、細い筋。
「椿! 」
がむしゃらに引っ張ったら、眠り込んでいたらしい椿は意識を取り戻した。さらにその下から起き上がってきたのは、百合。本物の百合だ。
「助けに来てくれたの? 」
半分寝惚けたままで椿が問う。
「そうよ」
二人を見つけた安堵感に、私は幼い末っ子の菫に戻ってしまう。
「だって、百合と椿がいないと、意味ないもの。私ばっかり」
おいていかないでよ──最後は泣き声になって二人の姉にしがみついて泣き続けた。
椿が死んだと思って悲しかった。
百合が百合ではないみたいで不安だった。
けれど素直な感情なんて曝け出していられる状況ではなくて、私がどうにか両親を支えなければと強がっていた。
一年分の心の緊張が今この場で一気に解けて、淵の底を揺らがせた。姉二人もそれぞれ私と抱きあって三人分の塊となって、一緒に泣いた。揺らいだ淵の水と一緒になって揺れていた澱みは半透明から徐々に透明になり、きらきらと瞬いてきれいだった。
必要なものなんて、本当は特にないのだと気がつく。個々の思い出なんて、残そうと躍起にならなくたってちゃんと残るもの。あの白い林の葉ひとつひとつはそういう美しいものでできている。そこで浄化の期間を過ごす娘がこの上なく幸福なのは当然のことなのだ。
みんな透明になったらいい。許されたらいい。森沢のおばさまも、澪も、伊澤ちはるも。
忘れていいの、ほとんどすべて。
ただ、愛されていた記憶だけ憶えていて。
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