司水菫 四
花弁によく似た蛾の翅の
蛾は、結局みつからなかった。
姿を見せた一瞬、鈍くメタリックに輝いて確かに私に存在を主張したくせに、今はどこにいるのか。
一瞬入ってきたもののすぐに出ていってしまったのかも知れない。それとも部屋の死角でひっそりと息を潜めているのか。死んでいるのか。
じっとしていたくない。
不安が隙間をこじ開けて遠慮なしに居座ってしまうから。
だから
忘れたというより、自分ごととして捉えることが出来ていないのか。そこから落ちたことも、水の冷たさも、溺れた恐怖、椿のことだって。
──私も解放されたいのに。
薄情だ。百合のように、苦しさを癒そうとするより他人事にしてしまった方が手っ取り早いかと思う。でも、あんなに強烈な記憶の手放しかたが分からない。何かに没頭でもすれば幾分ましかと思って、学校で借りた本を開いた。しばらくは集中していたが、事故のように強烈な言葉とぶつかった。
“きのふまた身を投げんと思ひて
利根川のほとりをさまよひしが
水の流れはやくして
わがなげきせきとむるすべもなければ
おめおめと生きながらへて
今日もまた河原に来り石投げてあそびくらしつ”
朔太郎の詩。人生を憂いて嘆いていた椿の姿と重なった。
わっと泣いた。許容量を超えた私の水は堰を切ってれんれんと溢れ出した。
どうしてこんな。私ばかり。
重くて、重くて、私はもはや
*
あくる日、学校帰りに家とは真反対の方角へ向かった。ここから十五分ほど先の距離に智世子お姉さんの通う学校がある。
──気が気じゃないの。いつか二人まで椿ちゃんみたいに──。
智世子お姉さんは自分ごととして椿の存在を覚えていた。蛾を好み、死に憧れて、日々泣くしかなかった複雑な椿のことを。あのとき私はあんな風に椿の話題を持ち出す人がいたことに衝撃を覚えたのではなかったか。
失った椿を、生きていた生身の椿として誰かと語り合いたかった。本当は家族とそうしたかったけれど、それができるのはむしろ家族外の人なのかも知れない。ならば、智世子お姉さんと話したい。
互いの家は向かい同士だったが、何となく家から離れた場所で落ち着いて話がしたかった。彼女は百合と同い年の最終学年だから、学校にはまだ残っている可能性が高い。そう思いついた私は衝動的に彼女の学校にまでやってきて、灰色の校門の傍で待っていた。しばらく智世子お姉さんと同じ制服の人が次々門をくぐるのを不思議な感覚で眺めていたら、よその制服で佇んでいる私は案外目立ったのだろう、生徒の一人が誰かに用事かと尋ねてくれた。
「三年の
そこからあっさりと取り次いでもらえて、やがて驚きの表情を浮かべた智世子お姉さんがこちらへ駆けてきた。
「話したくて」
どうかしたのかと問われるより先に、私は彼女に縋った。智世子お姉さんはその行動に一瞬目をまるくしたが、すぐに落ち着いてそっと尋ねた。
「椿ちゃんのこと? それとも百合ちゃん? 」
許可を得て、智世子お姉さんの学校の図書室へ入れてもらう。渡り廊下で繋がれているものの、独立した建物まるごとが図書室として使われているので実質図書館と呼ぶべき充実ぶりだ。智世子お姉さんは今年、図書委員になったのだという。人はまばらだ。
手招きされて入った場所は、受付台の奥の小さな作業部屋。記録帳やら台本板やらがそこらに置かれていて、居心地良い程度に雑然としている。委員はここで仕事をするのだそうだ。
どうして私の話したいことが分かったの、と校門近くで尋ねたとき、彼女は少し考え込んだ。
「私も二人のことを考えていたから」
「椿は分かるけど、百合のことも? 」
「そう。昨日の蝶や花や倶楽部で久し振りに落ち着いて会えたでしょう。椿ちゃんの葬儀から、ちょうど一年経ったくらい」
昨日の百合ちゃんを見て、次はあの子なんじゃないかって私、怖くなって──智世子お姉さんが不穏なことを言い出すので、たまらず私は遮った。
「智世子さん、昨日もそんなことを言った。どういうこと? 何か知っているの」
「私、今年から図書委員になったの。それで図書室の蔵書に詳しくなった。うちの図書室、地域の民俗学的な資料がすごく充実してるの」
「それと百合のこと、何か関係ある? 」
「ここの卒業生に民俗学の
説明がややこしいから見てもらった方が早いわ、と理解が追いつかない私をよそに智世子お姉さんは私を図書室に導き入れ、作業部屋に通したのだった。
棚や机も雑然としていたが、壁にも所狭しと作業表やら賞状やら貼られたり掛けられたりしている。賞状を順番に見ていると、智世子お姉さんがその中のひとつを指差した。
“貴女は**の民俗学の歴史の研究に於いて多大な功績を残し──”
難解な周りくどい言い回しであったが、民俗学の研究成果を讃えた内容の賞状だと分かる。これが智世子お姉さんの言う
「名前を見て」
言われてなんの構えもなくその名を見たものだから、思わず声が漏れてしまった。
“森沢
──森沢のおばさまだ。
「私も去年まで知らなかったの。彼女、ここの先輩だったのよ」
──
別れ際彼女から投げられた一言が、今になって重みを増して感じられた。私は古い椅子の背もたれに貼られた別珍の
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