女優の子

モノ カキコ

水 一

水の引力 げに恐ろしき

ああおそろしや おそろしや おそろしや

誘惑によろめき幾度落下しそうになったことか

心せよ あそこに落ちたなら 

お前はもうお前ではれぬから







わたくしの感覚では、橋を渡るときというのはほとんど平均台の上にいるような心地です。何はともあれ渡ることにのみひたすらに集中しなければなりません。もし下の水流に気を取られようものなら、そちらに吸い込まれて落下してしまいますから。

水に備わっているのは浮力ではなく引力であると、そう感じているのはわたくしだけでしょうか。

油断したほんの隙間、引き込まれる。水底に沈められて、ようやく浮力が機能するのは死ののちとなる。そんな印象があります。

いつも渡るこの橋の下に流れている川は、たいへんに大きく深いのです。ゆえに引きの力が非常に強い。さらに悪いことに、その橋は川と川の合流地点にあるのです。小さな川の濁った茶色と、大きな川の澄んだあおが共生して、でも混じり合わず、縦にはっきりと色の境が出来たままに流れているのです。そうすると本来汚らしいはずの濁り色の水さえ愛おしく、非常に美しく思えたものです。


わたくしはある昼下がり、余りにも見惚れ過ぎてしまったのです。


それは突然の出来事でした。橋の上で足を滑らせ、あっと落下してひんやり細かな気泡に包まれました。空が透過とおかして水色でした。

そうしてわたくしの目に水面越しに映ったのは、糸レースのような繊細な雲でした。







気付けばわたくしの佇んでいるのは驚くことに涼やかな林でした。木立の葉は見れば見るほど繊細で、まるで妖精の持つ、美しい薄いはねのよう。けれど触れると記憶のどこかが刺激されてちくりとするので、わたくしはいちど触れたそれきり、手を引っ込めました。

水の底にこのような場所があるのだとは、わたくしはついぞ知りませんでした。

わたくしはゆらゆらと歩いています。冷たいみどりの鬱蒼うっそうとした林の中では水や光、呼気はすべて白いのです。だから溜め息も白。うるわしい。


歩いた先で、一人の少女と出会いました。少女、というよりか、幼女と呼ぶのが相応しいような姿でした。この場所で彼女の着物だけが紅く、完璧な化粧を施しておりました。

「きれいですね」

彼女はゆったりと微笑みました。今思えば、わたくしのその物言いは曖昧でした。わたくしの指す“きれい”の対象がこの場所なのか彼女なのか、はっきりさせなかったからです。

此処ここは、きよいでしょう」

「とても」

「白いでしょう」

「ええ」

「水の澄んでいることは、その水場が正しく機能している証拠ですよ」

一度此処でさらに浄化されるのです、彼女は続けて言葉を投げかけます。

「野生の鳥や動物は、ほとんどが完璧に綺麗でしょう。白い水鳥なども、お金をかけずとも撥水性と純白さを保っていて不思議でしょう。どうしてか、お分かりですか」

「どうしてかしら」

「若くして死ぬからですよ」

わたくしはハッとしました。確かにわたくしも、二、三歳の頃は何をせずとも全てがみずみずしかったのではないかしら。野生の動物は、あの状態で死ぬということなのね。

「此処はつまり、そういう場所なのですよ」

ほとんどの人が知らないことですが、あらゆる水場に落ちた娘達が此処に集められ浄化されたのち入れ替わって居るのです──彼女にそう教えられて、わたくしはほうと感心してしまいました。

「その証拠に、今あなたの心は穏やかでしょう? ご自身のお名前は分かりますか。ご年齢は? 」


わたくしは黙ってにっこりしました。






“入れ替わっているのです、


あらゆる水場に落ちた娘達が、


此処で。”


その言葉が水の中で鼓膜を揺さぶりました。

あんまり心地かったのです。わたくしは何か酷く辛かったことがあったように思うのですけれど、もうそれもどうでもいいような気持ちになってしまいました。

わたくしは入れ替わるのね。誰か他の娘さんと。そう思ったら、隅々まで軽やかになりました。



忘れていいの、ほとんどすべて

ただ

愛されていた記憶だけ、憶えていて



誰かがそう囁いたように思いました。あの幼女の声ではないようでした。

ただそれはわたくしにとって、永遠の救いのようでした。

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