第18話

 苦痛が途端に消え去り、カストは目を開ける。

 見覚えのある庭には日が当たっており、真紅の薔薇が咲き乱れているのが見えた。


 絶望的な光景から転じた、あまりにも美しい初夏の花。

 それに気づいたときカストは、胃の腑がぐっと重くなるのを感じた。


「……また、死んだのか?」


 腹のあたりを抑えながら呆然と呟き、目の前の窓ガラスに上体を寄りかからせた。

 

 蝕まれる苦しみからは解放されている。

 しかし床でのたうち苦しむヴァンダ嬢の姿が、いまだ胸に黒い澱みを作っている。


 目を閉じれない。

 目を閉じれば倒れる彼女が瞼の裏に映る。


「カスト?」


 ふと背後から声をかけられた。

 清廉で穏やかな声。しかしそれを聞いた途端、カストの全身にぞわりと鳥肌が立った。


「カスト、どうしたんだ?具合が悪いのか?」

「……」


 こちらを心配する様子に、ゆっくりと肩越しに振り返る。

 窓から差し込む陽光に照らされる金髪。深い青の瞳。美しい顔立ち。


 しかしこの世の何よりもその存在が異形のもののように見えた。


「……ライモンド」


 恐らくカストは酷く恐ろしい顔をしていたに違いない。

 彼の名前を呼んだ時、友人は驚き目を見開いていた。


「本当にどうした?酷い顔色だ、死人のようじゃないか?」

「……なんでもねえよ」


 それだけ言うのが精いっぱいで、カストはライモンドから視線を逸らす。

 これ以上顔を合わせていたら、殴りかかってしまいそうだった。

 間違えれば、殺してしまうかもしれない。


 いまだ心配する声をかけるライモンドを放って、廊下を歩き出す。

 じわじわと嫌な汗が背中を伝っていた。


 胃が重い。もう毒は体内にないはずなのに、吐き気がする。

 見慣れた詰め所のはずなのに、現実味がない。


 それでも足を持ち上げて、何とか歩を進める。

 背中に突き刺さる、ライモンドの心配そうな視線を振り切りたかった。


「……調べねえと」


 ぽつりと呟きながら、カストは死の間際に交わしたヴァンダとの会話を思い出していた。


 彼女はライモンドの浮気相手はリンダではないと言った。

 答えを最後まで聞くことは出来なかったが、カストの手元にある情報だけでも考えればわかることだった。


 リンダは主人に付き従うメイド。

 住み込みで仕事をしている彼女に、自由に動ける時間などそう多くはない。


(可能性を考えてなかった……だってあの人は肉親だから……)


 最初にライモンドへあてた恋文を読んだときに嗅いだ匂い。

 あれは間違いなくカタリーナ・レグラマンティの香水の匂いだった。



 魔法文明および魔法遺物を専門に扱う研究所には、たくさんの発掘作業員と研究者が集まっている。

 出入口の前に立ち、カストは一人警備の仕事についていた。


 空は快晴で、少し暑い。が、初夏の風が心地よく散歩日和だった。


 その気候の中、日傘とともにふらふらと遺跡へと歩んでくる淑女の姿がある。

 隣にはぴったりと、メイド服姿の女性が付き従っている。


 カストは一人、それをじっと見つめていた。

 ここ数週間彼女たちのことを調べ続け、ヴァンダが言ったことの確証は得ている。


 彼らも一応わきまえているのか、なかなか尻尾を見せなかった。

 が、一週間前ライモンドと彼女が遺跡でひっそりと抱き合っているところを目撃していた。

 そして次は今日、研究所で待ち合わせしようと言っていたのも聞いている。


(……夫人の方が先にご到着か……)


 ライモンドは仕事で王都に出向いており、しばらく不在だった。

 自宅にも戻っていなかったので、直接ここに来るつもりだろう。


(……馬鹿だな、ライモンドも)


 胸中でぽつりと独り言ちる。


 友人の不貞の証拠を全てを目撃していたカストだったが、今は不思議と冷静な気分になっている。

 ライモンドの顔を見たときに感じた、胃の重さや吐き気ももうない。


 感情が怒りを通り越して呆れに変化し、かえって冷静になっているのかもしれない。


 やがて夫人とメイドが、ゆっくりと研究所の前にたどり着く。

 ちらりとこちらの方へ向いた淑女に、カストは声をかける。


 自分でも驚くほど冷たい口調だった。


「申し訳ありません、カタリーナ・レグラマンティ夫人ですね?」

「……あなたは?」

「警備団のカスト・フランチェスキです。今日はお聞きしたいことがありまして」


 そう告げると、ことりと少女のように首を傾げる淑女……カタリーナ・レグラマンティ夫人。

 やはり幼気(いたいけ)で儚げ、年齢がぼやけるほどの美しさを持っている。


 だがその顔を見ると、カストはつい顔が険しくなる。

 つり上がった己の目をみたせいか、メイドの女性、リンダ・メランドリがカストの前に立った。

 まるで妖精の姫を守る騎士のようだ。


「カタリーナ様に対して無礼ですよ。身の程をわきまえなさい」

「いいのよ、リンダ……。それで、カスト様、何の御用?」


 顔に無邪気な笑みを浮かべたカタリーナが、たおやかな足取りで前に出る。

 リンダはいまだもの言いたげにこちらを睨んでいたが、主人の命にしたがい口を閉ざした。


 ふわりと花畑のような香りが……彼女の香水の匂いが近くで漂う。

 その香りに嫌な光景が脳裏に過る。

 吐き気をともなう気持ち悪さが、体の中心によみがえってきた。


 だが、カストは平静を装い、夫人を真っ直ぐ見つめて口を開く。


「貴女の恋人、ライモンド・メンディーニについてお聞きしたいのです」


 きっぱりと言い切る己に、カタリーナの表情が微笑みのまま固まる。

 彼女が何か言う前に、怒気をにじませたメイドがばっとカストに掴みかかった。


「無礼者!下衆!下郎が!カタリーナ様に触るな!」

「触ってはいねえよ。聞いてるだけだ。……お心当たりはありますね、カタリーナ様」


 襟元に手を伸ばすリンダを軽くいなし、再度カタリーナに語り掛ける。

 彼女ははしばみ色の目を潤ませて、ふるふると小鹿のように体を震わせていた。


 庇護欲をそそる、愛らしい仕草だ。

 しかしなぜ彼女が自分が被害者であるかのような顔をするのか、わからなかった。


「……どうして娘の婚約者と関係を結んだのですか?このせいでレグラマンティ卿が迷惑をこうむっているんです」

「そ、そんな……」


 カタリーナの唇がふるりと揺れる。

 まつげに縁どられた目からぽろりと大粒の涙が流れた。


「ひ、ひどいわ」

「は……?」

「どうして、どうしてそんなひどいことをおっしゃるの?わたくしはメンディーニ様を愛しただけなのに……」


 紡がれた言葉に、今度はカストが固まった。

 返されるなら言い訳かごまかし、もしくは先ほどのリンダのように罵倒だと思っていた。


 だがカタリーナは体を震わせぽろぽろと涙をこぼし、「ひどい、ひどい」と呟くのみ。


 それを見てリンダがことさら顔を赤くする。

 カストの前に立って、使用人らしからぬ興奮した様子で口汚く罵ってくる。


「下郎!下衆!外道!卑怯者!ああ、お可哀そうなカタリーナ様、どうぞ泣かないでください……!」

「お可哀そうだ?一番可哀そうなのは裏切られたヴァンダ嬢だろ?……夫人、娘の気持ちを考えたことがあるのですか?」


 ヴァンダの名前が出た途端、びくりとカタリーナの肩が揺れ、手から日傘が滑り落ちる。

 彼女の柳眉がくしゃりと歪み、わっと手のひらで顔をおおった。


「あの娘はわたくしに厳しく当たるの。マルティーノ様と一緒になってわたくしをのけものに……わたくし、何もしていないのに……」

「……答えになっていません。酷いことをされたから復讐にと言うことですか?」

「うっ、うううっ!!」


 ついにカタリーナはしゃがみ込み、嗚咽をこぼしはじめてしまった。

 こうなってしまえば強く追及も出来ず、カストはたじろいだ。


 答えが返ってくるとも思えないし、こうまで泣かれてしまうと自分が悪いことをしているような気分になってくる。


「カタリーナ様、カタリーナ様、帰りましょう。このような輩を相手にしなくても良いのです」


 リンダが夫人を助け起こし、肩を抱きながら来た方向へ歩き出す。

 最後に親の仇でも見るかのような目でぎろりと鋭い目を向けてきた。


 呆然とするしかできないカストは、しばらく微動だにせず二人の背中を見ていた。

 ふと気づくと、夫人たちの姿はなくなっていた。


 地に落ちたまま拾われなかった日傘が、所在なさげに風に揺れている。


「なん、だったんだ……?あれは……」


 誰も聞くことのない呟きが、空気に混じって消える。

 まるで別の世界の怪物を相手にしていたような感覚だった。

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