激しい雨

なゆうき

「ママー、怖いよぉ」


 娘の有紀ゆきが今にも泣きだしそうな表情を浮かべ私にすり寄ってくる。私は有紀を抱きかかえながら窓の外に視線を向ける。


7月が終わり8月も幾日かが過ぎたその日は午前中からギラギラとした厳しい日差しで地面を照らしていた。午後に入り分厚く背の高い雲が、なにか巨大な生き物が上空を覆うかのように姿を現した。徐々に空は暗くなり、暗澹たる様相を表し、蝉の鳴き声に交じり雷が近づいてくる響きを轟かせていた。


 私は有紀に大丈夫だよと声をかけ、その背中をさすりながらある日の事を思い出していた。

それは私が高校一年の、今と同じような夕立があった夏の日の事だった。





 私には歳の離れた妹が一人いた。当時十六歳だった私とは十歳差で、小学一年生だった。妹の清美きよみは明るく陽気な子でいろいろと抱え込みがちな私とは正反対な性格だった。私は姉ながら清美のその明るい性格に憧れる気持ちを持っていた。


 そんな清美に病魔が忍び寄ったのだった。ある日まぶたが腫れぼったくなり、しだいに手足に浮腫が出てきた。両親は何か病気だろうかと思い病院へ連れていくと、その日から入院生活を余儀なくされた。


 当時清美の病名は母から聞いたのだが難しい事が続きあまり理解できていなかった。腎臓の病気である事、難病指定されている病気である事、基本的に完治はなく薬で発症を抑えていくしかなく長い付き合いになる病気である事などが断片的に頭の中に収まっていった。


 突然入院となったものだから両親は慌てていた。清美の病状や今後の治療方針の説明、入院に必要なものの準備など今まで病院のお世話になる事があまりない家族だった為とにかくバタバタしていたらしい。


 その日は母が病院に泊まり込み清美の面倒を見る事となった。部活から帰宅した私はその経緯を父から聞かされた。夕飯にコンビニのお弁当を食べ、私は清美と共同で使っている子供部屋で昨日までそこにいたはずの清美の事を思い浮かべてぼぅっとしていた。


 何で清美がそんな病気にならなくてならないのか、この先一か月も入院になるなんて小学一年生の清美に耐える事は出来るだろうかなど頭の中でグルグルと思考が駆け巡る。


 どれくらいたっただろうか、気が付くと時計は23時を回っていた。夏のもわったした気持ちの悪い風が部屋の中をひとなでし、私の顔にも触れてきた。顔は汗が滲んでいて喉がカラカラな事に気付く。私は飲み物を取りに台所へ移動した。その途中薄暗い部屋でテレビの光に顔を照らされた父の姿が目に入った。父は泣いていた。


 翌日私は父と清美の病院へお見舞いに行った。父は気丈に私へ接してくれているが、昨日の父の姿を見てしまったのでどこか心に痛みを感じていた。病室に入ると清美の全身が浮腫んでいた。体に管をつけられ横になっている姿は痛々しく、元気だった頃の清美からかけ離れたその姿に私は目の奥がツンとなり、直視する事が出来なかった。


 その日はまだ入院したばかりで落ち着かない状況だったので母と私は早々に引き上げ、代わりに父が面会時間一杯まで付き添う事になった。


 それからは主に母が面会時間一杯まで付き合い、夜は清美一人で過ごす事になった。清美が可哀そうだと思う反面、母や父も疲労が溜まっていってしまうのでそういう事になった。私も何日かに一度は顔を出した。毎日でも行ってあげたい気持ちもあったが、痛々しい清美を見るのがつらく逃げてしまっている自分がいた。


 ある日清美は手の甲に貼ってあるカーゼをめくりながらこう言った。


「お姉ちゃん見てこれ、ここに針が刺さっているでしょ?これさす時すごく痛かったんだよ。でも清美泣かなかったんだよ。」


 清美は自慢げにその針の刺さっている部分を見せてきた。付き添いはあるものの病室からは一歩も出る事が出来ず、夜は一人で過ごさなきゃならないようなこの状況でこのように振舞える清美をみてやはり強い子だなぁと感じた。清美は私と違って強い子だから病気なんて難なく乗り越えてしまうんじゃないかと思い始めていた。


 その日清美は荒れていた。気丈に見えた清美もやはりまだ小学1年生なのだ。外に出る事も出来ず、食べたい物も食べられない事に苛立ちを弾けさせていた。


「なんで清美ばっかり我慢しなくちゃいけないのっ! みんな外で遊んでるのになんで清美はダメなのっ!」


 幼い清美を納得させる事は出来ず、母もただオロオロしながら見守るしかなかった。それは私にしても同じで病室に転がる枕を拾い上げて抱きしめる他なかった。


 暴れ疲れた清美はベッドに横になり寝息を立てている。何も出来なかった私達はベッドの横にある丸椅子に腰掛け、清美を見つめている。母の目には涙が溜まっていた。そんな母がともて悲しく見え、大丈夫かと聞いた。


「大丈夫よ。つらいのは清美だもんね。お母さんはその辛さを飲み込んであげなきゃならないからね」


 清美のおでこを優しく撫でながら言った。


「つらいよね、こんな病気に産んでしまってごめんね……」


 母の肩が震えだした。私は見てはいけない気がして病室を静かに後にした。


 私は両親のこの様な姿や清美の姿、それらを見るうちに自分が感じている辛さを表に出してはいけないと思った。みんな自分の気持ちの処理だけで精いっぱいだ。私が辛いだなんて言ってみんなをこれ以上悲しい気持ちにさせてはいけない、唇を強く噛み締めて私は気持ちを強く持とうと決めた。


 それ以来私はみんなと接する時は極力明るい自分を演じた。自分が感じている寂しさや不安を押し殺してみんなが笑顔でいる事が出来るようにと行動した。しかし、部屋に一人でいる時は清美がいない寂しさやこれから清美が辿るであろう日々に悲観的になったりしていた。


 本格的な夏の日差しがアスファルトを照らし、病院までの道はゆらゆらと揺れる様に見えた。私はむしかえるような暑さの中病室にたどり着いた。


 病室では清美が何やらノートの上に色鉛筆を走らせていた。覗き込むとお手製のカレンダーに赤い鉛筆で星印を描いていた。


「清美ねぇ、カレンダー作ったんだよ。この星印はねお姉ちゃんの誕生日! この時には清美お家に帰ってお姉ちゃんの誕生日をお祝いするんだ!」


 清美は本当に嬉しそうに言っていた。その顔を見た瞬間私は胸をギュッと握られた気がした。自分がこんな状況でも私の事を想っていてくれている。その優しさを噛み締める反面、なんでこんな優しい子がこんな病気に苦しめられなくてはならないのか……この無慈悲な状況に心が潰されそうになる。


 その時病室に母が入ってきて清美の着替えを取りに家に一度帰るから私も一緒に帰ろうと言い出した。一人になる清美の為にアニメのビデオをセットして私達は清美の病室を後にした。


 病院を出ると大きな積乱雲が視界に飛び込んできた。夕方前であるが空は暗さを携えて夕立ちが今にも雨を降らせようとしていた。


 私達は家へ向かう途中押し黙ったまま歩いた。お互いがこの空模様に気持ちを感化された様に口をつぐんでいた。


 商店街に差し掛かったあたりで、空がもう限界だといわんばかりにいきなり強い雨を降らせた。私達は駆け出し、店先にあるひさしで雨宿りをする事にした。


「やっぱり夕立来ちゃったね。間に合うかと思ったけど無理だったかぁ」


 母は雨に濡れた髪を撫でつけ、そう言いながら軽く笑った。


 その笑い顔を見た時、私の抑えていた気持ちが弾け飛んだ。私は雨に濡れた顔を更に涙で濡らした。とめどなく涙が流れた。堰を切ったように言葉を吐き出した。なんで清美は病気になってしまったのか、清美はこれからどうなってしまうのか、父や母の辛さをなんとか減らす事は出来ないか、私は溢れ出す感情を言葉に乗せた。更に言葉は止まらず、本当は私も辛い、父や母、清美を見ているのが辛いし悲しい。それを吐き出したかったけど我慢しなくてはならない気がしていてずっと我慢していた事を口にしたのだった。


 母はじっと前を見ながら私の言葉を頷きながら受け止めてくれていた。私はひとしきり言葉を吐き出した。雨とも涙とも付かず濡れた顔で前を見つめながら荒い呼吸に肩を震わせていた。


 すると母が私の方へ体を向け、そっと抱き寄せてきた。


「ごめんね。もう我慢しなくていいからね」


 母は私の耳元で囁くように言った。


「お母さんあなたに甘えちゃってたみたい。あなたが強くいてくれた事が無理やりなんじゃないかってどこがで分かってた」


 更に母は続けた。


「お母さんも苦しくて、あなたの苦しみに気づかない振りをしていたのかもしれないわ。本当にごめんね」


 私を包むその腕に力が込められた。私はその力を感じながら目を閉じて黙ったまま体を動かせずにいた。


「お母さん強くなるね。だからあなたは安心して私に悲しい気持ちや苦しい気持ちを言ってね」


 私を包んでいた手が私の頭を優しく撫でていた。私は先程までの不安な気持ちが嘘かのようになくなっていた。目を開けると激しく降り続いていた雨が上がっていた。空は赤とも黄色と紫とも取れる綺麗な光を携えていた。


 母と二人で歩き出す。二人で歩きながら空を見上げるとそこには虹が出ていた。





 有紀をなだめていると不意に強い雨が降り始めた。部屋から外をみると階下では幾人もの人があちらこちらへと慌てて動きだしている。


 有紀を抱えながらしばらく外を見ていると来客を知らせるチャイムが鳴った。ドアを開けると雨に濡らした制服姿の清美が飛び込んできた。


「最悪だよー、やっぱ雨降ったよ! 夕立ちってやつ? すごいんだからー」


 清美は渡されたタオルを手に部屋の中へ入ってくる。


「清美ちゃーん!」


 先程までの震えていた有紀は晴れやかな顔をして清美の方へ駆け寄った。


「有紀ちゃんまた可愛くなったねー」


 清美も顔をにこやかにして有紀を出迎える。


 外では雨が弱まっている。私はあの日のようにまた虹が見れるかなと思いながら空を見上げていた。

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