第4話 柿の木

 ああ、せっかく落ち着く空間に来たんだから漫画のネタを考えよう。鉛筆とメモは忘れたけれどもスマホのメモ機能で充分だ。


 店内を見渡すとカウンターに数名、常連と思われるお客がいる。

 ボックス席にも何人かお客がいる。新聞を広げている人、本を読んでいる人。

 こんな朝早くから喫茶店に来る人の生活リズムってどんなタイムスケジュールなんだろう。


 僕は窓際に座っていたので窓の外を見る。三月上旬、街はまだ寒そうだった。

 なんの目標もなく視線を泳がせる。一本の木が目にとまる。枝が、上を向いている。なんだこれは。違う木を見ても枝が上を向いていた。そうか、花や実がついていないからか。



 僕は去年の秋を思い出す。近所の柿の木は、確実に重力に従っていた。柿が大きくなるにつれて、枝が「重そう」だなと思っていた。柿はだんだん熟していく。色が濃くなってゆく。



 子どもの頃は近所の柿の木の横を通るたびに「おいしそうだな」と思ってお腹を空かせていた気がする。ある日、地面に柿が落ちていた。熟してしまった柿は破裂していた。皮が破れて実がオレンジで汁が飛び散っていた。おいしそうなオレンジ色をして、汁が甘そうに見えた。上を見ると木の枝には同じように熟した柿が生なっていた。僕はごくりと生唾を飲んだ。


「これ、おいしいかな?」


 僕は一緒に帰っていた友達に聞いてみた。

 一人だったら柿のにおいをかいで食べていたかもしれない。友達の目を気にして柿に触れることはせず、質問をした。返ってきた言葉に僕は驚いた。


「この柿食べるとお腹壊すんだよ、おかあさんが言ってた」


 知らなかった。やっぱり勝手に人の柿を食べると罰が当たるのかと思った。

 僕は寸前で罪をまぬがれたのだけれども、一人だったら食べていたかもしれないという罪悪感でいっぱいだった。そのあとは冷静を装って友達と話しながら帰った。


 帰宅して親に聞くと、柿は焼酎につけなければ渋くて食べられないと知った。あの家の人は柿を収穫せずに放置しているのだと知った。



 子どもの頃を思い出していた。漫画のネタを考える時はいつもそうだった。自分の記憶を辿ろうとすると、今まで忘れていた記憶が蘇る。苦い記憶も甘い記憶も。


 そうだ、木の枝が上を向いているのに驚いていたんだ。

 柿を収穫して、木守こもがきを残して葉が散り雪が降る。

 僕たち雪国の人間は雪かきに追われる。地面の雪ばかり見ていて木の雪を気にしたことがない。その間、木の枝は上を向いていたのだと予想する。太陽に向かって伸びていたのだろう。生命力を感じる。



 喫茶店を出て木の枝を直接見た。風は冷たいけれども日差しが出ていた。このまま帰るのももったいない気がして本屋に寄ってから帰ることにした。



 パウンドケーキがスーパーで売っているのを思い出したのは偶然かつ必然だった。

 開店時間が一番早いスーパーに確認しに行くのは必然だった。

 そうして朝ごはんを食べるために喫茶店に寄ったのはなんとなくだった。そこは高校時代につきあっていた彼女と一緒に来た喫茶店。たぶん僕はその時以来にこの喫茶店に来た。その帰り道、その彼女に会うなんて。



「あれ? 久しぶり」


 向こうから声をかけてきた。すぐには分からなかった。昔の彼女は化粧をしてきれいな大人の女性になっていた。気づいた僕は「あっ」とまぬけな声を出していた。彼女の地元も市内だけれどもまさか近所の本屋で会うとは思っていなかった。


 ここは個人経営の小さな本屋だった。僕は近所なのでよく来るけれども、車で十五分ほど行くとツタヤがある。ほとんどの人はCDもDVDも置いてあるツタヤに行く。


「まだ漫画描いてる?」


 元気? とお決まりのもんくを交わしたあと彼女は言った。僕が漫画を描いているのを覚えていたんだという気持ちになった。高校生の時はクラスのみんなに言っていたからなぁ。


「描いてるよ、全然受賞できないけれど」


 自虐でもなんでもなく、ただ正直に言った。


「そっか、描き続けてるんだね。この先もう会うことはないかもしれないけれども応援してるからね」


 彼女は、じゃあ連れがいるからと言って彼氏と思われる男と本屋を出て行った。

 彼氏と思われる男は僕とは正反対のタイプだった。ジムで本格的に鍛えているようながっしりした体型で細身のパンツにジャケットを着ていたオシャレさんだった。


 昔の彼女はふんわりした素材の水色のロングスカートに白いコートをはおっていた。コートの下は黒と白のチェックのニットを着て、足元は華奢きゃしゃな靴を履いていた。明らかに冬仕様の靴ではなく、寒そうだなと思った。


 髪の毛は茶色になっていて軽そうだった。

 高校時代の彼女は黒髪を一本にっていた。制服で毎日会っていた。休日には私服で会った。どんな私服だったかは思い出せない。



 一人残された僕は、言葉で表せない気持ちになった。


 なんだったんだろう。応援していると言われたことが嬉しかった。ああそうだった。彼女はドラマみたいな台詞を自然と言うんだった。そこに惹かれていたことを思い出した。少し懐かしくなった。この気持ちを漫画に活かそうと思った


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