会いに来たよ、亜季。

咲川音

会いに来たよ、亜季。

 朝テレビのスイッチを入れると、ニュースキャスターが「おはようございます。世界の終わりまであと七日になりました」と言う。

 シロは驚きのあまり流し見ていた液晶画面に釘付けになった。

 この惑星の、特にここ日本という島の住人は、労働を何よりも好む生き物だと聞いていたけれど、まさか滅亡を前にしてまで働いているとは。

「うわあ。あんまりの事態に気でも狂ったのかしら」

 安っぽいスタジオに似つかわしくない重々しい声が、政府は本日正午から対策本部を開き、午後二時には総理が記者会見を……と続ける。

「こんなに勤勉な生き物が絶滅するなんて、なんだか勿体ないな。ボクらの星なんてみんな人工知能頼りでだらけきっているというのに」

 呟きながら、テーブルに置いた朝食に手をかざす。ピッという機械音とともに、空中にディスプレイが表示された。

「黄色いのが130キロカロリーで、このパンってやつが233。えっ、この植物なんて山盛りで10キロカロリーしかないのか! なんて非効率的なんだろう」

 シロの母星とこの地球は、奇跡と言っていいほどよく似ている。人間をはじめとした生き物たちの姿形も、自転の周期も、豊かな水を湛えていることも、とにかく取り巻く環境の何もかもがそっくりなのだ。

 唯一違うところは、技術の発展である。母星ミゲルは地球の何千年も先を歩んでいる、いわば地球の未来の姿なのであった。

「すごいなあ、この家屋、歴史の教科書に載っていたまんまだ」

 四方を木造の壁で囲んだ小さな箱に、嵌め込むように配置されたシンプルな家具。玩具が散らかる和室に、まだ薄らと住人の体温が残るキッチンの食材たち。リビングから繋がる庭には、古ぼけた三輪車が雑草に半身を埋めて、孤独に息を引き取っている。

 ここに、家主だけがいない。

 「社会見学」なんて面倒臭いと思っていたけれど、やっぱり来てよかった。シロは食べ散らかした食器をそのままにわくわくと立ち上がる。まるでタイムスリップしたような気分だ。この歴史博物館のような星が、あと少しで消えてしまうと思うと、惜しい気持ちになるけれど。


 惑星ミゲルにとって、百万光年隔てた地球は興味深い研究対象だった。ただし、地球からこちらの存在は認識されていなかったが。

 文化から化学まであらゆる発展の資材となり得るその星は、けれどミゲルのワープ技術を以ってしても何度も往復するには遠すぎるのであった。

 そこで使用されたのが精神空間転移装置――通称ミゲル17。一人乗りの宇宙船のような装置に寝ることで、意識だけを別の空間に飛ばす。もしここに生身の体があったら外的刺激に対してどう反応するかという「仮定の像」を、地球上で結ぶのだ。

 勿論、限られた研究者しか搭乗することは出来ない。異星人が紛れ込んでいると分かれば要らぬ混乱を招くし、投影された映像のようなものとはいえ、あちらからすれば一人の人間がそこにいるように見えるのだ。関わりを持ちすぎてはならない。

 そういう訳で慎重に行われてきた調査であったが、そこに飛び込んできたのが地球に巨大隕石が接近しており、どうにも避けようがないという衝撃的なニュースだった。地球人が自分たちの滅亡を認識するよりも早く知れ渡ったそれは、ミゲルの住人を少なからず動揺させた。

 自分たちとよく似た惑星が消えるというセンセーショナルな見出しは同情を呼ぶ一方で、フィクションだと思っていた事態が今目の前で、更にいえば自分たちが傍観者でいられる所で起こっているという不思議な高揚感に、皆どこか心が浮き立っていたのだった。

 当然学者たちは総力を挙げて地球を救う手立てを考えていた。しかしそれも徒労に終わった今、住人たちの感情は完全に野次馬の方に傾いてしまったのである。

 地球における最後の調査が終わった時、研究機関はミゲル17を一般人にも開放した。例えば一般人が考えなしに暴走したとしても、影響を及ぼすような未来はもう地球には残されていないからだ。

 装置にも限りがあるため、厳正なる抽選が行われた結果、父親が勝手に応募していたシロは見事、終末の星への渡航券を手にしたのであった。

「ボク一人だけだったもんな、当たったの」

 学校は昨日から長期休みに入った。クラスメイト達は今頃地球に思いを馳せながら無為に過ごしているのだろう。

 折角だからレポートにまとめて発表してね、と教師は言った。最期の時を迎える地球人たちの様子を見て、思ったこととか感じたことをね。きっとあなたにとっていい経験になるわ。神妙な面持ちで頷いた彼女の目は、しかしゴシップに興じる民衆と同じく、らんらんと輝いていた。


 街はニュースで受けた印象よりも混沌としていた。

 アスファルトに吸収された日差しが湿気と共に立ち昇り、うっと息が詰まる。ミゲル17は転送先での刺激に対する感覚を母星にいる本体と同期しているのだ。こういう余計なものは取り除いてくれればよかったのに、と独りごちる。

 肌に纏わりつく蒸し暑さを掻き分けるように進んで行けば、商店街に立ち並ぶ飲食店では、酔っ払った青年たちが呂律の回らない舌でなにやら叫んでいた。古びた民家の窓辺では数珠をつけた人々が奇妙な念仏を一心不乱に唱え、道路の向こうに目を転じれば公園では母親が穏やかに子のブランコを揺らしている。

 シロはディスプレイからまだ白紙のレポートを開いて空中で打ち込んだ。

『実感が湧いている人間とそうでない人間の差が激しい』

 広い道に出ると、拡声器を持った老若男女が横並びになって、政府の陰謀論を訴えている。

『現実逃避に走る人間もいる』

 けれどああいう風に分かりやすく取り乱してくれた方がいいな、とシロは思う。この混迷の中で、微笑みながらブランコを揺らし続けるあの母子の方が、見ていて物悲しくなるものだ。

 と、人混みの向こう、紛れるように肩を丸めて歩いている男と目が合った。瞬間、引き結んだ口角をへらりと解く。彼もまた「当選者」か。男は遠慮がちにこちらに近づくと、思ったより凄いことになってますね、お互い大変ですね、と苦笑して去っていった。

 冷静にあたりを見渡してみれば、なるほど、他にも「同類」を見つけることが出来た。どんなに地球人と似ていても表情で分かるのだ。皆、映画のエキストラにでもなったかのような、地面から常に数ミリ浮いているような心の弾みを隠しきれていない。

「やめろ! 何するんだよ!」

 ――七日後以降も生き続ける同族達につられ、楽しい気持ちを取り戻したシロの頭を殴るように、叫び声が聞こえた。それはすぐ喧騒に掻き消されるも、地球人より聴覚の発達したミゲル星人には届いていた。あの路地だ。

「ふざけんな! ……ふざけんじゃねぇよ! ああああああああ!」

 少女が男二人に組み敷かれている。あの細い体から出ているとは思えない、獣のような怒りにシロは一瞬足を止める。が、

「や、やめろよ!」

 思いの外情けない声と共に駆け出した。少女のTシャツを無理やり引っ張っていた男の頬に拳を打ち込む。同級生の中では貧弱なシロも、地球人よりは遥かに強い。吹き飛ばされる男に、もう一人の男も少女も何が起きたのか分かっていない様子だった。

「立って! 早く逃げよう」

 その隙に少女の折れそうな腕を掴む。と、その声で我に返ったのか、立ち尽くしていた男が大声を上げた。

「てめぇ、何してんだよ!」

 少女がシロの背後を見て大きく目を見開いた。パチン、と微かな音が聞こえたと思えば、次の瞬間背中に熱い痛みが走る。

「ひ、人殺し!」

 崩れ落ちそうになりながら振り向けば、ナイフを持った男が蒼白な顔をこちらに向けている。この騒ぎに逆上せすぎたのか、衝動的にやってしまったようだ。

「いい、……いいから早く、早く走って」

 痛い。痛いけれど、これは感覚だけだ。血は出ないし、死ぬことも無い。

「で、でも」

「いいから……いいから、今は」

 シロは無理やり足を動かすと、少女を引き摺るようにして薄暗い路地を抜けた。


 走って走って、住宅街に出た頃には、痛みもだいぶ消えていた。

「ねえ、そんなに走ったらダメだよ、早く傷の手当てしないと――」

 少女はそこで、シロの背中から血が出ていないことに気がついたらしい。

「えっ、あれ、君、確かにさっき刺されて……」

「いや、あの――それより、大丈夫?」

 誤魔化そうとしたけれど、どう言えば良いのかわからず、結局ありきたりの声掛けしかできない。それでも息を整えた少女は笑顔を見せてくれた。

「助けに来てくれてありがとう。君、小学生くらいだよね? それなのに大の大人を二人も倒しちゃうなんて」

「いや、そんな……とにかく無事で良かった」

「背中、本当に怪我してないの? 今どこの病院も閉まっちゃってるから連れて行けないけど、刺されたなら早く止血しないと」

 背中を覗き込もうとする少女に、シロは背中を隠すようにして正面を向ける。明らかに不自然だけれど仕方ない。

「背中に厚い本入れてたから、あ、それはさっき落っことしちゃったんだけど、とにかく刺されてないよ」

「そうなの? ――良かった。ねえ、あんなクズ共と、真面目に勉強してきた私みたいな人間がさ、同じ日に一斉に死ぬなんて、ほんと、嫌になるね」

 吐き捨てるように言うと、

「私は亜季。君、こんな時に一人でいるの? お父さんとお母さんは?」

 目線を合わせて聞いてきた。

「ボクはシロ」

「シロ? 変わった名前」

「そうなの?」

「え? まあ、人間にはあまりつけない名前じゃない、シロって。普通犬とかさ」

 この星ではそうなのか。ミゲルでは高尚な地位に就く者も多くこの名を持つというのに。

「お父さんとお母さんは、えっと、遠い所にいる。だから大丈夫」

「大丈夫って……そんなわけないでしょ、あと一週間しかないっていうのに。遠い所ってことはシロ一人でここまで来たの? 住所言える?」

 住所。分からないでシラを切り通してしまおうか。いや、ああそうですかと放って行くような子ではなさそうだ。シロは事前に調べてきた都市の名前を必死に漁る。この日本だと……

「トウキョウ……そう、トウキョウにあるんだ、ボクの家」

「えっ! 東京? シロ、東京から来たの? 旅行で?」

 必死に頷くと、亜季は顔中に皺を寄せた。感情のまま、豊かに表情が変わる。

「そっかぁ、弱ったな。飛行機も新幹線も動いてないし……ヒッチハイクなんてできる状況でもないし」

「いいよいいよ。ボク自分で何とかするから」

「そんなわけにもいかないでしょ、子供一人で……親御さんも心配してるだろうし。ねえ、もし良かったら一緒に歩いてみる? シロの家まで。あと七日でどこまで行けるのか分からないけど、シロのお父さんお母さんもきっとこっちに向かってるだろうからさ、途中で会えるかもしれないよ」

 ああ、ミゲル17が一般人に固く禁じられてきた理由がよく分かる。こうやってその星の住人の運命をあらぬ方向に捻じ曲げてしまうのだ。

「そんなのダメだよ、亜季こそ家族と一緒にいないと。あと七日で地球は滅亡しちゃうのに」

 家族という単語に、亜季の目元に暗い影が落ちた。

「いいんだ、私は。家族って言ったって――世界の終わりにまでなって私の顔なんか見ていたくないでしょ、あの人達も」

 そのまま暫く押し黙っていたが、やがて笑顔で顔を上げると、固まった空気を蹴破るような明るい声が言った。

「私、どうしても会わなきゃいけない人がいるの。世界が終わるまでに――だからシロ、一緒に行こう」


 張り切ったはいいものの、どの方向に向かえばいいのか検討もつかない。電子機器は使えないし、通行人に聞いてみても全部一蹴されてしまうと亜季は嘆く。

「シロ、東京への帰り道なんて分からない、よね」

「うーん、亜季はどこに行きたいの?」

 繋がれた手は、先ほどの騒ぎとこの炎天下でびっしょりと汗に濡れている。

「どこっていうか……とにかく、あっちへ真っ直ぐ」

 指差す先は陽炎に揺れていて、二人をげんなりとさせた。

「亜季の行きたい方に行こうよ。もう時間が無いんだし、とにかく進めばどこかへ出るよ」

 自分の嘘の実家探しに、彼女の最後の七日間を浪費させるわけにはいかない。

「そうだね、うん……あーあ、なんで地球最後の日がよりにもよって真夏なんだろ。せめて冬だったらまだ歩きやすかったのに」

 そう憤慨してから、

「ああ、冬は駄目か……受験真っ最中だもんね」

 呟いて、萎れてしまった。

 どこまでも続く道路は、歩いても歩いても景色が変わらない。気を紛らわせるため、取り留めのない会話を延々と続けた。

「シロのお父さんとお母さん、優しい?」

「普通だと思う」

「怒られたりしないでしょ。シロ、何だか大人みたいにしっかりしてるんだもん」

 母星では至って標準的な学力なのだが、ここでは大人びて見えるらしい。

「私もさ、シロくらいの頃は凄かったんだよ。神童とか呼ばれちゃって。でも私は二十歳になる前に只の人になっちゃったなあ……」

 中学受験、全落ちしたの。御三家確実って言われてたのに。

「なんかもう、そこからね、ぜーんぶダメになっちゃった。本当は今年の受験でリベンジしろって言われてたんだけど……いいんだ、どうせ無理っぽかったし、エリート街道なんて今更、ねえ」

 シロにこの星の価値観は分からないけれど、亜季が泣き出しそうな顔をしていることだけは分かった。なんとか話を別の方向へ持っていこうとして、彼女が発した言葉に思い至る。

「さっき会わなきゃいけない人がいるって言ってたけど、誰のこと? 亜季の友達?」

「ううん、まだ一度も会ったことがない人。顔も知らないの」

「知らない人に会いに行くの? だって……最後なのに」

 最後という単語を口に出す度、自分が裏切り者のようで胸が痛んだ。

「物心ついた頃から、ずっとずっとその人に会いたかった。死ぬ前に一目、顔が見たい。どんな人なのか」

 シロにもいるよ、そういう人。少し先を歩いていた亜季が振り返って微笑んだ。もう少し大人になってたら、会えてたかもね。

 土埃を絡み上げた髪が、抜けるような青を背景に揺れている。カンバスにのせた何色もの絵の具を衝動的に塗り広げた様な、それでいて混ざり合った色彩の奥に緻密な線が透けるような、亜季はそういう少女だった。


 熱を孕んだ風もだいぶ和らいで、もう夕暮れが近い。

「できるだけ先に進みたいけど、昼間みたいな奴もいるからね。今日はここまでにしようか」

 今夜の宿は近くのアパートに決めた。こういう単身者用の賃貸は大体の住人が出払っている。終末の日に向けて実家にでも帰ったのであろう。

「私が男だったら夜通しでも歩けたんだけど。悔しいよね、女ってだけで地球滅亡だってのに思いのままに動けない」

 私を縛るもの、全部嫌になる。亜季は顔を歪め、それからぐしゃりと笑った。それももう全部おしまいになるんだから、良かったのかも。人類全員一斉にはい終わりって、かえって小気味いいっていうか。言い聞かせるように呟いていた。

 ベッドはシングルが一つしかなかったから、二人寄り添い合うようにして眠る。

「修学旅行の夜みたい。私、受験勉強で行ってないけど。ねえ、シロは学校に好きな女の子いるの」

 亜季ははしゃいで、ゴロゴロと寝返りをうつ。

「いない」

「そうだよねえ、だってシロのその人はずーっと遠くにいるんだもん」

「早く寝ないと明日が辛いよ。また一日中歩くんでしょ」

「……寝たら明日になっちゃうもん」

 そんな声で言われたら、シロはもう話に付き合うしかない。

「ねえ、遠いとか近いとか。亜季には何が見えてるの」

「……頭がおかしくなったって思わない?」

 亜季は手元のタオルケットをもじもじとさせる。小さな子供のようだ。

「思わないよ」

「……私ね、小さい時から赤い糸が見えるの」

「赤い糸って何?」

「えっ、聞いたことない? 運命の赤い糸。そっかあ、最近の小学生って知らないんだ……」

 少なくとも、母星にはない概念だ。

「あのね、小指から赤い糸が伸びてて、誰か別の人の指に繋がってるの。その二人は運命で結ばれるんだよ。カップルでも別の人に繋がってることもあるし、そもそも無い人もいるし、色々なんだけど」

 それで私の糸は、どこか遠くへ遠くへ伸びて、先が見えない。一人で旅行なんてできなかったから探しに行けなかったけど、地球が滅びる前に会ってみたくなったんだ。私の運命の人が、どんな人か。亜季は小指に軽くキスをして、ふふ、と笑っている。

「この糸はお守りみたいなものだったんだ。どんなに辛くても、私には運命の人がいるんだって。運命っていうくらいなんだから、きっと本当の私のこと、全部好きになってくれる。頭が悪くても、学校で虐められてても――どんな私でも」


 亜季が急に立ち止まったのは、歩き続けて五日目、黄昏時に差しかかろうかという時だった。どうしたの、と声をかけようとしてシロは息を飲む。亜季の手は細かく震えていた。

 亜季の目線を追って顔を上げると、そこにある看板には――

「私たち、反対側に向かって歩いてたんだ……」

 へたり、と座り込む亜季を慌てて支える。

「あと二日じゃ、到底間に合うわけない……」

 つられて慌てそうになるシロだが、よく考えれば東京へ行く必要なんて最初から全くないのだ。一気に気持ちが軽くなって、笑顔で亜季の背中を叩く。

「なあんだ、トウキョウのことなら別にいいよ。それより、亜季は糸の方向に向かってちゃんと歩いてたんでしょ? じゃあ大丈夫だよ、もうすぐ運命の人に会えるかもしれないんだから」

 けれどシロの慰めに、とうとう泣き出してしまった亜季はごめんね、ごめんねと顔を覆った。

「私どうかしてた。ちゃんと道を調べもしないで、こんなもの信じて……赤い糸なんて私が作り出した都合のいい幻覚かもしれないのに、シロの両親は私の運命の人なんかと違ってちゃんといるのに、会わせてあげるべきだったのに……」

 糸頼りの旅なんて、ちゃんとした道筋である可能性の方が低いと、それは亜季も承知の上だった。けれど刻一刻と迫る死の瞬間に、一向に先の見えない糸、そして東京とは全く違う地名を見た瞬間、張り詰めていたものがプツリと切れてしまったのだ。

 ごめん、ごめんと謝り続ける亜季に、シロは唇を引き結ぶと、覚悟を決めて言った。

「ボク、宇宙人なんだ。宇宙から来たんだよ、亜季」

 しゃくり上げていた亜季は、一瞬動きを止めると訝しげにシロを見上げる。

「ごめんね、本当は言っちゃいけないんだけど、亜季が秘密を教えてくれたからボクも言うよ。ボクはここから百万光年離れたミゲルっていう星から来たんだ。地球が滅びるっていうから、社会見学に来たんだ。だからトウキョウに家なんてない。だから泣かなくていいんだよ、亜季」

 必死にまくし立てるシロに、ぽかんとしていた亜季は、やがて傷ついたように小さく笑った。

「優しいね、シロ……可愛い宇宙人さん。ねえ、私って最後まで何もかも中途半端だ。東京には行けないし、赤い糸は全然先が見えない。きっともう間に合わない。私、もう、家にも帰れない……」

「帰りたいの、亜季」

 項垂れた亜季の肩が揺れる。

「私、ずっと両親のこと恨んでた。勉強のことになると人が変わったように怖くて、ずっとずっと辛くて、思い知らせてやれって――そう、家を出る時に私、最期の瞬間に家に帰らないんだぞって、それくらい娘に嫌われてるんだぞって、思い知ればいいって思った。死ぬほど後悔しろって、でも……」

 言葉に詰まった亜季を、シロはたまらない思いで抱きしめた。

「でも、パパとママのこと、やっぱり愛してた――愛してたんだと思う、分からないけど、死ぬ間際になって勘違いしてるだけかもしれないけど、でも……」

 もう会えない。どうやっても会えない。私いなくなっちゃった、誰もいなくなっちゃった。

 残照の海の底、泣き続ける亜季の悲しみと心中するように、シロはいつまでもいつまでも彼女に寄り添い続けていた。


「ねえ亜季、ボク思ったんだけど、遥か彼方の星からやって来た宇宙人と出会うなんて、それこそ運命なんじゃないかな」

 こんな体験してるの、地球中探しても亜季一人だけだよ。彼女の手を取って、シロは言葉を紡ぐ。

「だからさ、ボクのこと、とりあえず今日だけは、君の運命の人ってことにしない?」

 ――ずっとずっと、会いたかった。会いに来たよ、亜季。

 亜季は涙をたたえた目で微笑んで、私も会いたかった、と答えた。

「宇宙からはるばる会いに来てくれたの?」

「そうだよ、亜季に会うために来たんだよ」

 その言葉に、決して嘘はない。

 亜季はハッとした顔をすると、履いているスニーカーの靴紐を解きはじめる。少しくすんだ赤のそれは、二人の小指に結んでみると、互いに触れ合うほど近くなった。

「なんだ……ずっと一緒にいてくれてたんだ」

「亜季、ボクがそばにいるから。最後までそばにいるから。これでもう寂しくないでしょ」

 夜が更けても、二人の糸は繋がれたままだった。

「ねえ、シロ。シロの星のお話してよ。そうしたら、今日はよく眠れそう」

「いいよ。ボクの故郷のミゲルはね、凄く技術が発達してて、特に宇宙開発なんかはね――」


 ジリリリ、と無機質なベルが鳴ってシロは飛び起きた。狭い空間に身体があちこちぶつかる。

「亜季――」

 と、さあっと血の気が引いて、衝動のまま装置をこじ開けた。

「ああ、シロ、お帰り。駄目だよ、装置は慎重に扱わなくちゃ。精密機械なんだから……」

 呑気に笑う父親に、わなわなと震える唇からは乾いた空気しか出てこない。亜季は? まだ滅亡まで二日あったはずだ、どうして――

「そうそう、当選者数が少なすぎると苦情が入ってね。シロが旅立ってから、追加で増やしたんだよ。だから予定より早く帰ってきてもらった。なに、五日も滞在したんだ、もう充分だろう」

 シロは崩れ落ちるしかなかった。亜季を一人にしてしまった。最後の最後に。あれほど約束したのに――

 もう一度地球に戻るという願いは聞き届けられず、無情にも「その時」は近づいてくる。

 震えながら耳を塞いでも観衆の興奮した声は届き、シロは自分の運命の人が、もう何処にもいなくなったことを知ったのであった。


 休み明け、白紙のまま提出したレポートに教師は青筋を立てたが、「取り乱した地球人に背中を刺された、他にも想像を絶する酷い体験をして思い出すのも嫌だから書かなかった」と言えば口を噤んだ。

 クラスメイトも気を使っているのか、遠巻きにして見るのみだ。シロは少しばかり孤独だった。

「シロ。何? その赤い紐」

「……ねえ、運命の赤い糸って本当にあると思う?」

 服のほつれから引き抜いたそれを指先で弄びながら聞いてみる。

「なんだそれ?」

「さあ。発展途上な星の、どうしようもない、おまじないみたいなものだよ」

 それでも小指に糸を巻き付けて眠る夜、シロは決まって夢を見る。

 そこはあの日の続きの朝焼けで、まばゆい光の中、色彩豊かな少女が急に消えたシロに怒っている。シロはごめんごめんと笑いながら駆け寄るのだ。

 ――ずっとずっと、会いたかった。会いに来たよ、亜季。

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会いに来たよ、亜季。 咲川音 @sakikawa_oto

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