32.それはまるで母親のような。
結局その日、
そもそも相手の連絡先を知っているわけでもなければ、共通の知り合いがいるわけでもない人間とコンタクトを取る方法なんて「闇雲に探し回る」くらいしかないわけで、そんな絨毯爆撃のような作戦では当然見つかることもなかった。
食事の時、アテナにはいじられ、
一応、会話自体は間違えなかったものの、こころここにあらず状態だったのは間違いないし、違和感は抱かれてしまったかもしれない。
そんな賑やかな夕食も、本来ならば百合カップルがいちゃつく場面が目撃できる可能性のある入浴も、どこかふわふわと宙に浮かんでいるような状態で過ごしていた。
原因なんて分かり切っている。
昼間の一件だ。
正直、もうちょっと単純なものだと思っていた。ただ、単純に
もちろん、育巳が碧にほれ込んでいるのは間違いない。碧が“描かない天才”なのも、もしかしたら間違いではないかもしれない。
けれど、その“描かない理由”はなんだ?
ただ、怠けているだけなら、たまに描いてあげればいいだけの話だ。それがもし今日だったとするならば、ちょいと実力相応のデッサンをすればよかったはずなのだ。それできっと育巳は満足しただろう。それは恐らく碧も理解しているはずだ。
けれど、彼女はそれをしなかった。
どころか育巳から嫌われるような行動をとった。
恐らくはわざと。
ため息。
分からない。尊敬してくれる後輩をわざと失望させる理由なんてあるのだろうか。
「はーな」
いきなり後ろから抱き着かれる。背中に柔らかい感触が感じられる。
彼方だった。さっきまでずーっと本を読んでいるようだったから、俺のことは気にしないだろうと思って油断していた。
「あ、あの、当たってますけど」
「当ててんのよ」
どういうことだよ。
「ま、それは半分冗談だけど」
半分なの?
「どしたの?ため息なんかついちゃって。なんか困ったことでもあった?」
あったといえばあった。そして、そんなことは彼方からしてみればお見通しのはずだ。どこか上の空な俺の姿をずっと見ていたはずだ。
様子を見て、話しかけるか否か、相談相手になれるか、否か。そんなことを天秤にかけたのだ。そのうえで、最終的に「後ろから抱き着いて、胸を当てる」という、俺が男なら大喜びするような手段で接触を図ったんだ。いや、男だけどね?中身は。
「困った……ってわけじゃないんだけど、分からないことがあって」
「分からないこと?」
「うん」
それから、俺は今日起きた出来事の一部始終を、お届けできる範囲で話した。碧にキスされた下りは当然のように省いたし、全裸でのモデルだったことも伏せておいた。恥ずかしい……というのもあるけれど、そもそも必要な情報じゃないだろうしね。
話を聞いた(ちなみにこの時点で俺と彼方はベッドの上で向かい合う状態になっていた)彼方は腕を組んで首を傾げて、
「
「あるよ。ちょっと待ってて」
俺は自分の机に置いておいた碧のデッサンらしきなにかを持ってきて、彼方に手渡す。当の彼方はといえば、それを受け取った時点で、
「これはまた……」
苦笑いをする。その気持ちは分かる。デッサンというワードからあの絵が出てくるのは流石に想像出来ないだろう。
暫く碧の絵を眺めていた彼方だったが、
「……絵自体の線は綺麗だね」
そう。
それは俺も気になったところだ。
実際、俺にも絵画の素養がそこまであるわけではないし、学校の美術に毛が生えたくらいのことしか分からない。
ただ、そんな素人同然の俺からしてみても、碧の描いた前衛芸術は割と「整っている」ように見えた。
内容としてはとてもデッサンとは言い難いし、あれだけを見せられて俺を描いたものだと言い当てられる人間は、恐らくこの地球上に存在しないのではないかとも思う。
けれど、問題はそれだけだ。
線そのものには迷いが無いし、なんなら「題材が
頭の先からつま先までの体のライン。そして、唯一体を隠すアイテムとして持っていた毛布。それらが全てきちんと表現されてはいるのだ。
もちろん、前情報があってようやくわかるレベルである。それでも、ただ雑に描いただけでないということだけははっきりと分かる絵だった。その感想は彼方も同じみたいだ。
彼方は「ありがと」と言いつつ碧の絵を俺に手渡して、
「これは私の勝手な予想なんだけどさ」
「うん」
「馬部先輩は
「諦めさせたい……?」
彼方は縦に頷いて、
「そう。自分はそんな凄い人間じゃないんだぞって。尊敬されるような力はないんだぞって。幻滅させて、諦めさせようと思った。だから、そんな突拍子もない絵を描いた。だけど、実力が無いわけじゃないから、基本的な構図とか、線は綺麗なまま、なんじゃないかな」
諦めさせる。
確かに、そう考えれば納得は行く。実際、育巳はやりきれない怒りと共に部室を後にしていたし、碧自身もまた「期待させないために描いた」ということを言ってはいた。もし目的が「育巳を幻滅させるため」であれば、結果はあれでよかったことになる。けど、
「……なんで、諦めさせようと思ったんだろう」
「……そこなんだよね」
うーん。
二人して腕組みをして考え込んでしまう。
やがて彼方が、
「ねえ、華」
「ん?何?」
「華はさ、どうしてそんなに真剣なの?」
「どうして……?」
彼方は誤解を招いたと思ったのか、両手をぶんぶんと振って否定し、
「あ、違う。聞き方が悪かったね」
ひとつ咳ばらいをして仕切り直し、
「私はさ、華が悩んでるなら、力になりたいと思うし、それはルームメイトとしてでもあるし、同好の士としてでもあるし、友達としてであるよ?でも、華は?こう言っちゃうと冷たく聞こえるかもしれないけど、華と馬部先輩たちは元々関係なかったわけじゃない?なんで、そんなに真剣になれるのかなって」
「それは……」
なんでだろう。
ふと、答えに詰まってしまった。
最初の目的なら言える。二人が百合カップルだと思ったからだ。その見立ては今でも変わっていない。二人の関係がどんなにこじれていようと、育巳が碧の技術にほれ込んでいることには変わりが無いし、碧がその技術を惜しみなく披露するようになったら、きっと今までのマイナス感情が全てプラスへと変換されるはずだ。それが恋愛に発展するかまでは分からないけれど、可能性はある。その行く末を見届けたいという思いは、今でも消えていない。
けど、一方で、もっと純粋な気持ちで「なんとかしたい」という思っているのもまた事実である。乗りかかった船、ということもある。けれど、それ以上に、
「悩みを、分かってあげられる人になれるといいね」
「え?」
彼方が思わず聞き返す。
だけど、それ以上に俺自身が驚いている。
悩みを分かってあげられるように。自然と出てきた言葉。一体これはどこから出てきたんだ?分からない。だけど、今、確かに頭に浮かんだんだ。悩みを分かってあげられる人になれるといいね。そんな言葉が。
俺が、自分でも一体どうして出てきたのかも分からない言葉に困惑していると、彼方が、
「ま、いいんだけどね。ただ、華がそんなに気を揉まなくてもいいんじゃないって思っただけだから」
そう結論付けた。
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