6 湿った関係
浅葱は平均レベルの大学へ、縹はO大学の映画科に入り、それぞれ別々の世界へ飛び込んだ。
ところで薄柿と縹との交際だが、結局縹から薄柿を切ったようだった。
「近いうちに会えない?」
薄柿から突然メールが届いて、浅葱は大学に入ってから数週間も経たないうちに再び元同級生と会うことになった。平日は彼女も専門学校へ通うために暇がなかった。しかし浅葱からしてみて、彼女のために自分の生活を打ち切って、遠い街へ移動することはできなかった。彼女には浅葱の住んでいる街まで来てもらえるように頼んだ。浅葱の家もこのころは母が家を飛び出して、兄が家を荒らすからという理由で、浅葱も父親も別の住居で生活をすることを余儀なくされていた。父はそれでも堅実に勤めを果たした。そのために浅葱は家の概念を持たない連中を軽蔑した。それは浅葱自身の家族に向けられた批判だった。浅葱は自ら兄のもとを離れ、彼の語る私見を排除し、兄をいっそう孤独に陥れた。しかしそれは内弁慶である兄自身が悪いのだということを知らしめるたにしたことで、彼からしてみれば当たり前に行われたことだった。浅葱はもともと言うべきことを言わないことで他人を撥ねつける気質があった。しかしその分、彼にとっての興味と好奇心を持つ物事は、いっそう根強く彼自身の心理とともに伴われるのだ。
浅葱は薄柿と駅の改札で待ち合わせた。向かい合うなり彼女の身体は浅葱の身体へ飛び込んできた。浅葱が「いったいどうした?」と訊いたところで彼女は何も言わない。ただそのままの状態で泣き出した。浅葱はハンカチで彼女の顔を拭き、改札のハシのジャマにならないところへ彼女を連れていった。再び彼女が抱きついてくると浅葱も彼女を抱きよせた。彼は何度か訳を訊いたが、彼女は応えなかった。彼は少しの間そのままの態勢でどうしたものかと考えた。
浅葱が「ここにいても仕方ない」というと彼女は胸に顔をうずめたまま、うんと頷いて、胸の中から少し離れた。浅葱は彼女の手をとって家まで連れていくことにした。
家までの道のりで、浅葱が彼女と話したのはほんの二言三言だった。縹と別れたこと、それで僕を訪ねたのかということ、大丈夫なのかということである。彼女はどれにもうんとしか応えなかった。
薄柿を家に招き入れると、浅葱は昼食を準備した。彼女は畳の部屋で寝転がった。浅葱はいつまでも寝たままでいる薄柿を見兼ねて布団を敷いた。
「昼食」と声をかけても彼女は起きては来なかった。彼は黙って食事を済ませると、彼女の寝込んだ布団の傍まで寄った。身体をゆすっても彼女は起きる気もないようだった。浅葱は彼女の手を握った。彼女はそれを強く引いた。そして浅葱と薄柿は布団の中で抱き合った。
一方の縹は、薄柿と別れた後の沈痛に見舞われていた。
縹は「あんな娘、親の顔が見てみたい」と言ったが、浅葱からしてみてその言葉は滑稽だった。吐き捨てた台詞は縹の顔色とはチグハグなのだ。浅葱は縹に薄柿の話をするのはよした。それでは縹と同罪だ。薄柿の父親は父親で、死別していたし、浅葱はクラスメイトであったためにそれをよくわかっていた。そしてこの女性がどこかで人に依存するような態度をとるということも。
「うちに来れない?」
そうメールが来たのは深夜2時だった。浅葱は呆れる他なく、力なくして
「明日」と返すと、
「殺されそう」と返ってきた。
誰に、どうして、と馬鹿らしく思いながら、胸中では何が彼女をそうさせるのか浅葱には気がかりでならなかった。高校のころに見た薄柿は非常に不安定な人物だった。授業中に急に泣き出したり、朝は大分遅くに登校したり、忘れモノが多いのもそうであるし、顔を合わせている時は笑ったりおおらかなタイプの人間を思わせたにしても、普段は無口な態度をとるのにもかかわらず、話しだすと嬉しそうに良く話をする。その要領を理解しい得ないまま縹と付き合いだしてすぐに別れた彼女が今度は自分の方へと向くというその真意が尋常ではないと彼は思った。メールが毎晩来ることにも浅葱は驚いたし、彼が休日に出かけている時でも、居場所を聞いてわざわざ訪れる彼女は不思議で仕方がなかった。
翌日結局朝早くに彼女の家まで行くことになった浅葱は、教えられるままに世田谷の街にいた。駅前で彼女と待ち合わせ、家まで引かれていった。彼女の家は外観が教会みたいだった。階段を上ると玄関があり中へ入れば2階がそのままリビングで、第一級ホテルか何かの一室のようだ。南側は一面ガラス張りの窓であるし、かしこに観葉植物が置かれ、壁には数点絵画が飾られている。大理石風の床はひんやりとして、スリッパを渡されるまで浅葱は足の指を上下に踊らせていた。
「親は?」と訊くと、「仕事」と答えた。薄柿は半円を描くように並べられたソファーに座って浅葱を手招きした。中心に丸いテーブルがあり、下着と新聞が投げ置かれていた。なるままに浅葱がとなりに座ると、彼女は腕をつかみ彼の肩に頬をつけた。浅葱は不思議と安らぐ気分に包まれた。ふと彼女は顔をあげた。それを見た彼は、彼女の唇が紅くなり表情が火照るのに気がついた。高揚した胸の内で目のくらむ衝動にかられ、彼は思わず彼女の唇に接吻した。……
それから長い時間を彼女は話に費やした。彼女の父はレストランを経営していた。六本木や恵比寿、表参道に店舗を構え、娘が幼少の時、父親はある建築家の持つ空き家を買い取った。それがこの家だった。小学校を卒業する手前で父親と死別し、母親が仕事をはじめ、居酒屋で飲んだくれる。その親を娘は小学生のころから介抱した。このごろは大分マシになった母親だが、それがどうしてなのかと言えば、その居酒屋で引っかけた男を毎晩家に連れ込むためにあるのだと言った。
「ママ水商売してたから」
「お父さんとはそこで?」
「知らない。聞いたことない」
浅葱は上京した女の人がお金欲しさに水商売を初めて、水商売気分の抜けないまま結婚をしうまくいかなかったようなことだと、偏見を持った。そんな風に薄柿の母親のことを思った。しかしそれが単なる思い込みであったとしても、居酒屋で男を引っ掛けて、親でもない男を連れ込んでいる母親など良いようには聞こえなかった。
そして彼女はこうも言った。
「ママ、時どき、こう言うの〝ヤッパリわたし、へんなのかな?〟って」
「親が子どもにそんなこと言うのも、面白い話だね」
浅葱も相槌を打ちながら時どき簡単に意見した。
居酒屋で引っかけた男は、毎晩誘いもしないのに家を訪れたという。母親は男に飽きて会うのをやめようとした。というより、娘のことを考えれば、また近所の眼を考えれば、男を連れるのは良くないと思うのが当然のようだった。そしてそれはまた、その男が暴力的な人間だったためにもあった。しかし男が来なくなったのは一時的なことだった。男は母親に冷たくあしらわれたとしても、しつこく何度も薄柿の家を訪れ、玄関で喚き散らし、庭まで来てガラス戸を叩いて脅しをかけた。娘は警察を呼んだ。しかし警察がきても男が「何でもない」と言えばそのまま帰って行ってしまう。結局、母はその男を家に入れるしかなく、娘は母親の勝手を「どうして入れてしまうの?」と責めたが「どうしてアンタの言うことを聞かなきゃいけないの?」と言われたのだと言った。浅葱は「そんなの母親じゃないんじゃないかな?」と返すと「あの男がいるのにはもう慣れた」と返した。けれどもどうしてそれなら、と浅葱は考えた。しかしこの家族にとって、外から来るものは受け入れるしかないのだろうとも思った。やはり女だけの家にいつ何があるかわからないと考えることさえありうることで、なにかあったにせよ、それが男を受け入れるだけのことだったのだとすれば、それは大した危害にはならないのだろう。それにもともと男を誘ったのは母親なのだ。その責任を簡単に娘のためと言って、打ち切るのは人としてあまりに身勝手であるし、そんなことで男が納得できるとも思えない。それに、いざこざを続けて問題になれば、この家族の方が危なかったのかも知れない。そしてこれは母親が悪いと決まっているのに、彼女がそれを責めることもできないのは、この娘がこの母の子であるがためであった。
「(男が)怖い?」
「わからない」
それは本音のようだった。何も理解できることの範囲で決められた出来事ではなかった。娘にとって良くわからぬままに通り過ぎた事実であって、母親は男手を失くしたこの家をまるで動物のような意志で切り盛りしていたようだ。彼女は話の中でこうも言っていた「いやなことなんか沢山あったけど、それでも生きていることをやめられないでしょ」そしてしかし彼女の母親にとって、生きることに行き詰れば、男の存在が頭をよぎることもあるのではなかろうか――。この少女が浅葱を呼んだのも恐らくただ本能のおもむくままのことだったようにも思えた。そして彼もそれに関してなにかしら断りをいれることもなかっただけのことだった。
夕方遅く薄柿は浅葱にご飯を食べていけと言った。浅葱はそれを断わり、帰る支度をした。彼女は玄関まで迎え出た。浅葱が「それじゃあ」というと彼女は「今晩ママ出張で、わたしひとりなの……」とドアから顔をのぞかせるような姿勢のまま浅葱を見ていた。
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