第12話 安堵
男の名前はチーノといった。腕を見ると、出身はヴァンの故郷の隣の村を示す錨のタトゥーが刻まれていた。隣の村は親交が深く、ほぼ同郷といってもよかった。儀式や長老の話など幼い頃の想い出を語り合い、ヴァンはチーノと打ち解けていった。もちろん、警戒心がなかったわけではなかった。荒くれ者の集まるこの房に入れられたということはそれなりの事情があるのだろう。それでもチーノは、嫌がるヴァンを連れて房を案内した。鉱山での一日のやり過ごし方、敵に回してはいけない囚人、そして看守に叩かれるときの痛みの軽減の仕方。チーノはそれらを楽しそうに話していく。最初こそヴァンはうっとうしがっていたが、チーノの親切心に徐々に、心を開いていく。チーノはそうやって信頼を獲得しようとしていた。その言動を見ていると、ヴァンは人相や背景などどうでもいいことのように思えてきた。
次第にヴァンはチーノといることが多くなった。食堂で味の薄い料理を食べるときも、仕事道具であるつるはしの修繕をするときも自然チーノとともにいた。
「鉱山では素行の悪い者は房に入れられるんだ。小屋でなく。俺たち移民はバルザイの手によって、ふるいにかけられる」
房のなかでチーノは鉱山のシステムを説明した。どうしてそういうことを知っているのかとヴァンが聞くと、食堂で盗み聞きしたと悪びれることなくいった。房に入ったばかりのチーノが情報通なのはそういう理由があったのだった。
夜――といってもそれは看守の点呼でしか分からないのだが、房のなかでヴァンは壁に寄りかかり、暗闇に目を凝らした。房は広く、移民たちが入るゆとりはまだ充分にあった。それでも四隅に固まるのは人間の常なのだろうか。ただでさえ暗闇なのに、自分も含め同房の奴らは薄汚れた衣類を着ているから尚のこと視認しづらかった。小さな灯りを頼りに目を細めると、気の合う者同士が密になって談笑しているのが分かった。気楽なものだ。バルザイはこの房全員が一つの集団かのように扱っていたが、現状はグループ内でさらにグループを作っているようだった。ヴァンはなんとなしに、彼ら一人一人に目を向けた。額に傷を負った男、大腿部に大きな治療痕が残る男。いずれも力仕事には問題なさそうだが、やはり人相の悪い奴らが集中している気がする。
「何か基準があるんだろうか。ここはやけに変わった奴らが集まっている気がする」ヴァンはいった。
「基準か……」チーノは唸り、「さあな。そればかりは分からねぇな。バルザイの気分次第ってのもあるからな」とまっすぐ同房の者を見つめ、「ただ、推測はできる」
「というと?」
「仕事の難しさだよ。どういうわけか、この鉱山は変わっていて、奥へ行くほど鉱石の質は上がるんだ。だが、おいそれと進めばいいってもんじゃねぇ。鉱山の奥には何があるか分からねぇんだ。そういうわけだから、俺たちみたいな奴らが選ばれるんじゃないか」
「なるほど。危険ってことか」
「ああ。さながら俺たちは都合のいい人柱だよ」
チーノは下唇を舐める。
奥まった場所から笑い声が聞こえてきた。食堂で飲んだ質の悪い酒のせいで酔いが回っているのか。脳天気な声に、ヴァンは嫌気が差す。
「楽園だと思ってた」思わずヴァンは呟いた。
「どうしてそう思ったんだ」チーノが訊ねる。
「広場を見て。彼らはとても幸せそうだった。鉱山法の前、移民がルデカルの街を歩いていると、それだけで袋だたきになった。なのに、ここではみんな楽しそうだった。穏やかな顔をして。ルデカルでは絶対に見ないような表情だった」
「それで勘違いしたわけだ」
「勘違い?」ヴァンは小男に目をやった。チーノの汚れた頬が目に入る。
「ああ。広場にいた奴らを見て、みんなそう勘違いするんだ。しかし、実際あいつらは使い物にならない。鉱石の採掘ができねぇから、食堂や診療所をやっているわけさ。女子供、それに腰の曲がった老人だっていただろう。お前さん、覚えてないのかい。男はいなかったんじゃないのか」
チーノは笑う。そうだっただろうか。ヴァンは記憶を遡った。広場には女や子供、老人がいたことは覚えている。ただ、男はどうだっただろうか。そう思って後日、わずかな休憩時間を利用して広場に出かけると、チーノのいう通りどこに視線を向けても男はいなかった。隣にいたチーノによると、力の不足している彼らはヴァンたち採掘人を支えるための仕事をしているとのことだった。そうすると、彼らに解放のチャンスはないことになる。はなからここで生きて、死ぬことが決められているのだ。その背景を知ると、彼らの笑みがまた別の意味に感じられる。諦念に基づく笑い、そうはいえないだろうか。
「噂では薬を打たれているともいわれていた」
「薬?」
「確かなことはいえねぇ。だが、その薬を打たれると酔っ払ったみたいに気持ちよくなれるみたいだぜ。案外、あいつら全員薬漬けにされているのかもな」
チーノはいって笑ったが、ヴァンには冗談だと思えなかった。ヴァンの顔がいっそう険しくなった。やはり、ここは偽りの楽園だった。バルザイは調子のよいことをいってヴァンを油断させたのだ。
いうしかない。ヴァンはずっと温めていたある計画をチーノに話すことにした。
「チーノ」ヴァンは呼びかける。
「なんだよ、急に」
「脱獄しないか」
静かに、まるで世間話かのようにいったヴァンにチーノは戸惑いを隠さなかった。
「脱獄って、お前さん正気か」
「ああ。アンタだっていってただろう。看守を襲う気があったって」
「そりゃあそうだけども……」チーノの歯切れは悪かった。「こういっちゃ悪いがあれは半分冗談だ。お前さんに近づくための口実みたいなもので。責めないでくれよ。俺だって一人で心細かったんだ」
チーノは申し訳なさそうにいった。けれど、それで諦めるヴァンではなかった。
ここにいても未来はないのだ。だったら動かなければならない。どうせ待っていても、やってくるのは死あるのみ。それに、当然のことではあるが、鉱山にいると外部の情報はまったく遮断されていた。サリュもどうしているか。ヴァンは心配で溜まらなかった。
「チーノ」ヴァンはチーノの目を捉えた。
チーノの目が泳いでいる。チーノは体を強ばらせ、怯えているようにも迷っているようにも見えた。しかし、ヴァンにはどちらでもよかった。本気であることを伝えたかった。
向こうから看守が近づいてくる。さっきから二人で広場にいるから不審に思っているのだろう。チーノはその場から立ち去ろうとする。だが、ヴァンはその腕を離さなかった。
「お前さん、どうしちゃったんだよ」チーノは腕を振りほどこうとする。
これは賭けだった。看守を襲おうとした自分を助けてくれたのだから、チーノは信用できる。どうしても取り込みたかった。それこそチーノがいっていた仲間として。
「アンタが頷くまでやめない」
ヴァンはさらに力を込める。チーノの手首だけが白くなっていく。チーノはもがいて抵抗していたが、やがて唇を波打たせ最後には、「分かった分かった。降参だよ」と二つ返事で了承した。
ヴァンが手を離すと、チーノは手首をさすり、恨めしそうにヴァンを見る。
「そんなに強く掴むことなかっただろ」
「チーノが頷かなかったから」
「だとしても看守のいる前でやるか、普通」
「看守のいる前だからやったんだ。こうでもしないとチーノは折れないだろ」
「それはそうだが……」
非難めいた口調だったが、呆れたような笑みが広がっているのは、本気で怒っているわけではないからだと、ヴァンは付き合いのうちに理解していた。
そうしてヴァンは賭けに勝った。肩越しに振り返ると、看守は持ち場に戻っていた。看守は興味を失ったように、彼方を向いている。どうやら、ただの口論だと思ってくれたようだった。 二人は看守に背を向けて、広場を後にした。無言で房に向かっていく。
「条件がある」とチーノがいったのは房の手前に差しかかったときだった。
「後からいうのは褒められたことじゃないな」
「それをいうなら、脅迫だって褒められたことじゃないぜ」チーノは笑った。
ヴァンは仕方なくチーノの条件を聞いた。「何だ、条件って」
「脱獄はいい。正直、お前さんが本気だってことに驚いたが、まあいい。俺も手伝おう。――だが、鉱石探しも本気でやってくれよ。そうじゃなきゃ俺が教えて意味がねぇだろ」
「分かった」
てっきり、金品を要求されると思って身構えていたから、ヴァンは拍子抜けした。房に入り、いつもの定位置に腰掛ける。同房の奴らがやけに静かと思ったら、そろそろ眠る時間だった。藁を敷いた土の上に、ヴァンは横たわった。まともな寝床もないが、まだ横になれる空間があるだけよかった。途中の房には、人が多すぎて重なり合って寝ていることもあった。
「お前さんも結構強引なところがあるんだな」
「それはお互い変わらないさ」
「仲良くやろうな」
チーノの目は重く、ろれつは回っていなかった。
「ああ」ヴァンは頷いた。
それから二言三言交わすと、ぷっつりとチーノの言葉が途切れた。声をかけても反応はない。規則的な呼吸音が聞こえるだけ。寝てしまったようだった。ヴァンはチーノに背を向ける。広場でのやりとりがあったため、ヴァンの目は冴えてしまっていた。寝返りを打ち、なかなか寝つけない。けれど、希望は見えた。これからの脱獄計画を考えているうちに、だんだんと思考がはっきりしなくなり、そして眠りに落ちていく。
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