バニラとチョコ(夜光虫シリーズ)

レント

第1話

「ここで待っていてね」



 たった1粒の飴玉と引き換えに、俺は素直に頷いた。

両親の顔は思い出そうとすると、鉛筆でぐりぐりと塗りつぶしたような姿になる。

そんな二人のことを、俺は小さい頃からみていたはずだった。

毎日、氷水をかけ合うような日々の中にいた気がする。

怒声は必ずあった。ヒステリックな泣き声も。どっちが悪いかなんて俺は知らない。

ただ、巻き込まれないよう逃げることに長けていくばかりだった。


 そしてあの日、両親はどんな顔をしていただろうか。

真っ黒でぐしゃぐしゃな顔は、その表情さえも分からない。

森の中でおんぼろの車を停めて、俺に飴を握らせて、「待っていてね」と言ったのだ。

両親は振り返りもせず、車の方へ戻って行った。


 俺が腰掛けていたのは、不法投棄された棚かなにかだった。

他にもそこら中に、違法に捨てられ朽ちていく、なにかの棚やら家電やらがあった。

俺は渡された飴を口の中で転がした。

さほどうまくもない。それに光の届かないジメジメしたこの森では気が滅入るばかりだ。


 それでも「待っていてね」という言葉がずっと、頭の中にあった。

どうして素直に信じたのか、今の俺には理解できないことだ。

けれど、そのときの俺は棚の上にうずくまって、夜の森の中で眠った。

普通の子なら怖がって大泣きしているだろうか。

俺はむしろ、あの怒鳴り声もヒステリックな泣き声も聞こえなくて、静かで安心していた。


 そうして、気がついた翌朝。

両親の姿は相変わらずない。朝日は昨日よりかは森の中へ届き、周囲のゴミの山をさらに鮮明に照らした。

ふと、犬のリードのようなものが、粗大ゴミの隙間にちらりと覗いて見えた。

犬は好きだ。飼ったことはないけれど、いつか一緒に暮らしたいなんて、思ったことがあった。

ふさふさのしっぽ、ふわふわの耳、とても憧れていた。


 だから、リードが見えた時、犬に触れられるんじゃないかと俺は期待していた。

ただ、純粋な気持ちで、リードがピクリともしなくても何も疑うことなく、歩み寄っていた。

そして、粗大ゴミの裏側を覗き込んだ。

リードの先には、よごれて乾いた皮がへばりついた、薄茶けた骨が、辛うじて犬の輪郭を保って落ちていた。


 普通なら「うわっ」とか「ぎゃあっ」とか声を上げて、そこから離れると思う。

俺はそのリードの先を目でたどっていた。

捨て犬だったことは分かる。ただそのリードの先は丁寧に、そばの木に結わえ付けられていた。


 木に縛られた犬が生きていけるはずもないのに。

俺は、昨日の言葉を思い出す。

「ここで待っていてね」

食べた飴のことを思い出す。


 あの馬鹿な両親は、それで俺のリードをこの不法投棄場に結びつけたつもりだったのだろう。

俺は立ち上がり、ボーッと歩き出した。

家までの道なんて分かるはずもない。

分かったところで、捨てた粗大ゴミが戻っても居場所はないだろう。


 無意識に涙が流た。

呼吸の乱れを感じた。けれど俺はそれに酷く腹が立った。

だから、泣くことしか出来ないようなガキだから、あんな言葉一つでだまされると思われたんだ。

人は限界が近くなると、泣き声と笑い声の差が曖昧になる。

とくに俺はそのタイプだったのだろう。

怒りと深い憎しみが体の内を支配して、目からは延々と涙がこぼれた。

そして口は、横に開き笑っていた。

泣き声もほとんど笑いに侵食されていた。


 決して5歳が発するような声じゃない。

けれど、森の奥にいた俺の声は誰にも届かなかった。

フラフラとなんの頼りもなく歩き続けた。

笑い憎しみ泣き、憎悪は衰弱と共に強くなる。

何日か森を抜けられなかった。

このまま死んだらアイツらを道連れに地獄へ行こう。


 そんなことを何度も頭の中で唱えながら、俺は視線も定まらず、歩き続けていた。

すると、かすかに車の走行音が聞こえてきた。

それも1台ではない。この先に道路があるのだと、すぐに気がついた。


 ふらふらと速度も変えないままに歩き続け、ついに森の端へとたどり着く。

あと一日遅れていたら、倒れて死んでいただろう。

久々に見た街の灯りや、飯屋の香りが、胃液を泡立たせる。

すぐに飯屋の横のゴミ箱へ歩いた。なんのためらいもなくゴミ箱を漁った。

道行く人も、誰も彼を咎めない。気にもとめない。

そうして得た、辛うじて食べられそうな肉片を口に入れた。


 乾ききった口内や喉に肉片は貼り付き、彼は大きく咳き込んだ。

しばらく咳が収まらず、彼は小さな体を折り曲げて、その場にうずくまる。

やっと呼吸が整った時、自然と口から言葉がこぼれ落ちた。



「殺してやる」



 誰を、なにを、という言葉ですらなかった。

全てへの憎悪を彼はその身に溜めていた。

もちろんあの顔も思い出せない両親も、いつか、あのごみ溜めに放り込み、リードで縛り付けてやる。


 彼は咳と共に転がりでた肉片を拾い上げ、今度こそ噛みちぎった。

目には深く憎悪が底光りしていた。

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