第51話




 目を開ければ、すぐに見えたのは誰よりも愛おしい人だった。

 私を腕枕して、反対の腕は抱きしめるかのように身体に回っている。その寝顔はいつもより幼くて可愛い。そんなこと言ったら怒られるだろうか。


 彼の腕を起こさないように丁寧に退けて、衣服を身につける。身支度を整えて、洸さんの朝食作りを始めた。これが最後のご飯だ。


 そう考えてしまったら、どうしようもなく涙が溢れて包丁を持つ手にぽたりと落ちた。



「美緒」

 背後から洸さんの声が聞こえたから慌てて手で涙を拭う。


「おはようございます、洸さん」

 最後の朝の挨拶は、普段通りに。彼の記憶に残る私が、できるだけ綺麗であるように。


「おはよ」

 洸さんも“最後”を実感しているのか、複雑そうな顔をしている。


 昨日の甘い時間が嘘のように、静まり返った食卓。淡々と終えた朝食の後片付けをすると、あらかじめ準備しておいたスーツケースを玄関に移動させた。



 タイムリミットがやってくる。彼の“妻”でいられる時間も、この部屋で過ごす時間も。


「洸さん」

(──愛おしい、旦那様)


 もう、“旦那様”と呼ぶこともできませんね。


「そろそろ行きますね」

 腕を組んで壁に寄りかかる洸さんは無表情で何を考えているのか分からない。



(そう、最後まで。あなたが一体何を考えているのか、何を思っているのか──あなたの表情から全てを読み解くことはできませんでした)



「私はあなたと結婚できて幸せでした。好きでもない私を、そばに置いてくれてありがとうございました」



「どうか、お幸せに」



 深く、お辞儀をした。

 顔を上げたそのまま、踵を返して玄関に向かおうと足を動かす。


「美緒」

 でも、思うように進まなかった。掴まれた手首が熱くてたまらない。



「それでいいのか、お前は」

 そんな引き留めるような言葉に喜んでしまう私を誰か叱咤してほしい。

 自分勝手なこの男を、誰か私の心から引き剥がしてほしい。



「私はあなたと結婚した時から多くは望まないと決めたんです。私が望むのは唯一つ。あなたの──洸さんの幸せを」


 振り返って洸さんを見つめる。ここに置いていくと決めた私の想いは、もう全て隠さず伝えきってしまうから。ぽろぽろと落ちて行く涙も、もう我慢するのはやめる。



「いい奥さんじゃなくて、すみません。至らないところばかりでご迷惑をおかけしました。お姉ちゃんの代わりも務まらなくて……ごめんなさい」


 夫の幸せを第一に考えられる奥さんでいたかった。そうありたいと願って、自分を取り繕った。それも苦ではないほどに、愛していた。


「離婚届は後日郵送しますね。両親には私からお伝えします。私の不徳の致すところであると。洸さんのご両親にも、そう伝えていただいて構いません」


 私の決意はもう揺るがないと分かったのか、緩んだ手。少し動かせばするりと解放された。


「──洸さん」


「世界中の誰よりも愛していました」




 さようなら、私の愛する人。


 どうしてもっと、あなたを──。


 後悔しても、もう戻らない時間。



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