第14話 狂気ひとしずく
小石川の実家で、家族みんなで集まって食事をすることになった。手続きを済ませ希清様が正式に私の兄になったので、その祝宴のためだ。
けれど、私は何だか乗り気がしなかった。藤一郎の話が、頭の中をぐるぐると回っていて。
まだ自分の中で消化も納得もできていなくて、今でも胸が締め付けられる感じがする。私にとってあまりにも重大な話で、とても簡単には受け止められるものではなかった。
私は授業が終わった後、半ば呆然としながらちよと共に荷物をまとめていた。今回は泊まりになるから、少し荷物が多くなる。本や筆記具を詰め、必要なものを重ねる。
「きこさま」
私はぼうっとしていて、一瞬ちよの声が聞こえなかった。
「きこさま」
「えっ?」
私は驚いて振り返った。
するとちよが背後に立っていて、ちょこんと首を傾げていた。
「きこさま、いかがなさいました?」
「え? 私……どうかしてた?」
「何か深くお考えのご様子です。お戻りになることに、何かお悩みなのですか?」
「……いいえ、そんな……。そんなことないわ」
「では、もう少しお顔を明るくなさいませ。それでは皆様がご心配なさいます」
「ええ、そうね。ごめんなさい、ちよ」
「今夜は皆様で集まっての初めてのお食事です。どうか暗いお顔などせずに、お楽しみくださいませ」
「ありがとう」
私は微笑むと、鞄の蓋を閉めた。
小石川の実家に着いたのは、だいぶ日も暮れかかってからだった。
夕食が始まるのはまだもう少し先だ。私は両親に挨拶すると、希清様にご挨拶するように言われたので、そうすることにした。
希清様はご自分のお部屋にいらっしゃるという。私は希清様のお部屋に向かう間、あれこれと考え込んでしまって、あまり前を向いて歩くことが出来なかった。
下を向いて歩きながら、私は希清様と璃子のことを考えた。
藤一郎が明かした、希清様と璃子の過去。家族に殺されかかり、使用人からも弄ばれた……。そんなことが自分の身に起こっていたなどと思うと、私は思わず身震いがした。
殺されかけた、弄ばれた……。考えたくもない……。
そして璃子は、とても耐えられないような現実から逃れようと、希清様の手を引いて逃げ出したのだ。それは死をもって逃げ出すという、尋常では考えつかないような方法だった。
藤一郎の話によると、璃子は、自分が殺されることも、希清様がお心に傷を負うとこも、葵子に生まれ変わった後のことも、全て計算ずくだったという。そんなことを、当時若干四歳だった璃子が、考え出したというのだろうか。
璃子とは、一体、どんな人間だったのだろう。
まるで未来を見通していたかのような計画性、そしてそれを実現できてしまう異様な力。逃げ出して希清様と幸せを手にするためなら、自分が殺されることも簡単に容認できる精神。幼いがゆえの残虐性と思い切りの良さが、あったのだろうか。
まるで、私とは真逆のような存在だ。本当に私自身なのだとは、とても考えられないくらい。
――逃げましょう、お兄様。今度は一緒に、幸せになるのです。
自分で勝手に想像した璃子の言葉が、もう一度頭の中に響いた。
私は今まで、蓮子様のお考えやちよを通して、自分のした魂殺しというものを、何と罪深いことだろうと考えていた。しかし、希清様と璃子の境遇を考えると、璃子が一方的に罪なのだとは断言できない気がしてきた。
璃子にも、悲劇があった。死によって逃げ道を得ようとする程のことが。
しかし、私が真実璃子だというならばなぜ、全ての記憶がなくなっているのだろう?
私には璃子が分からなかった。記憶がなくなることさえ、璃子の計画の中にあったのだろうか。
――今度は一緒に、幸せになるのです。
幸せになるために、璃子は殺された。幸せになるために、幸せになれる家を選んで、黒川葵子を殺した。
私は……。
これが事実なのだとして、どう考えたらいい?
私には分からなかった。抱えきることもできない気がした。私はふるふると頭を振って、ため息をつきながら顔を覆った。目の前など見えやしないが、何だかまっすぐに前を向く気分ではなかった。
そんな状態なものだから、目の前を歩く人の背中に、頭からまともにぶつかってしまったのだった。
「きゃっ」
「んっ?」
私がぶつかったのは希清様だった。希清様は驚いて振り向かれて、びっくりなさったように私の顔をご覧になった。
希清様はいつもの学生服ではなく、少し立派な洋服をお召しになっていた。学生服を見慣れたような気になっていた私には、そのお姿は何だか新鮮な感じがした。
「あ、ああ。誰かと思った。葵子か」
「は、はい。申し訳ありません、ぼうっとして……。ぶつかってしまいました」
「いや、いいんだ。どうかしたのか?」
「いえ、その、家に着いたので希清様にご挨拶をと……」
「そ、そうか。その……どうだ、葵子。部屋に来て、少し話さないか」
「は、はい。ぜひ……」
とは言ったものの、一体何を話したらいいものか。
私は希清様の後について、希清様のお部屋にお邪魔した。希清様のお部屋は随分と綺麗に片付いていて、勉強机の上には本や筆記具が几帳面に並べられている。筆記具のお手入れでもなさっていたのか、削られた鉛筆と共に肥後守が置かれていた。
「まあ、見ての通りだ。おもしろみもない部屋だが、座ってくれ」
「ありがとうございます」
部屋の中央にはお茶を飲むための机があり、そこに二脚椅子があったので、私達はそれぞれの椅子に腰を下ろした。
私達は暫く無言でいて、私は自分の指先をいじり、希清様は視線を泳がせていた。やがて口を開いたのは、希清様のほうだった。
「その……なんだ。手続きを済ませて、正式に兄になることになった。だから、まあ今更なんだが、これからもよろしく頼む」
「は……はい。どうぞ、よろしくお願いいたします」
私がぺこりと頭を下げると、希清様は少し恥ずかしそうに頬を赤くなさって、白い御髪に手を触れた。
私はそんな希清様のご様子を、上目遣いにうかがった。希清様はごく普通に見える。今までの苦しかったことなど、思わせないような感じだ。
しかし、そのお顔の向こうには、想像を絶する苦しみがある。それを知った今、私は希清様にどう接していいのか、少し迷ってしまった。
それで、つい無言になった。希清様は私が黙り込んでしまったので、少し不安そうなお顔をされ、ちょっとだけ眉を寄せた。
「どうした、葵子。何かあったのか」
「え? いいえ、何もありません」
「そうか? 何だか、少し覇気がないように思えたんだが……」
「大丈夫です。お気遣いくださって、ありがとうございます。希清様は本当にお優しいですね」
「そ、そうだろうか」
希清様は照れたように頬を赤くなさった。それはとても普通の希清様の反応で、私は少し不思議な気持ちになった。
「何もないなら、うん、いいんだ。ところで葵子、この前はカフェエに行ったが、今度はどこに行こうか。少し友人達から話を聞いて、出かけられる場所を増やしてきたんだが、どこがいい」
「お出かけするところ……ですか? そうですね……」
「何かを見物に行くのでも、観劇するのでもいい。葵子は普段、友人とどんなふうにしているんだ?」
「お友達とですか? そうですね、あんみつ屋さんに行くことが多いです」
「あんみつ屋?」
「はい」
「そういうのが、女学生の間では流行なのか」
「流行というか……ただ単に、私達が甘いものが好きなだけです」
「なるほど、甘いものか……。俺はどうも、甘いものは苦手でな。付き合えそうもないな……」
「お気になさらないでください。私は希清様とご一緒なら、どこでも楽しいですから」
「そ、そうか」
希清様は普通だった。本当に普通。希清様がごく普通にしてくださるので、私もだんだん緊張が解けてきた。
……今は、希清様とのお話を楽しもう。せっかくこうして家に集まれたのだから、私の悩みは、置いておくのだ。
そうしようと思うと、幾分心が軽くなった。そうだ、今は兄と妹として、ごく普通に会話をすればいい。そうしていれば、今だけは楽しくしていられる。
私と希清様は、それから少し他愛のない話を続けた。本当に些細な話題で、お互いの学校に植わっている草木の話や、普段学校でどうしているかということを話しあった。そうしているうちに一人でどう過ごしているかという話になり、希清様は基本的に勉強ばかりしているとおっしゃった。
「お勉強以外には、何かなさらないのですか?」
「何かしようとは思うんだが、なかなか思い付かないな」
「そうですか……。本はお読みにならないのですか?」
「本は読む。なかなか勉強になるな」
「まあ。お勉強のつもりでお読みになっているんですか?」
私は思わずくすりと笑った。
私に笑われて恥ずかしく思ったのか、希清様はちょっと頬を赤くなさった。
「やはり、そういう読み方ではだめかな」
「いいえ、そんなことはありませんよ」
「そうだろうか……」
「ふふ」
「葵子は、一人でいる時どうしているんだ」
「そうですね、やっぱり本を読んだり、お茶を飲んだり……。ゆっくりしています」
とは言え、最近はもっぱら考え事をしていることが多い気がするが……。
「あ、そうです、希清様。桜の押し花がもうすぐ完成しそうなのです」
「そうなのか」
「はい。できた後どうしようかは、まだ決めていませんけれど……。でも、きっと素敵なものにしようと思って、それを考えることも多いです」
「そ、そうか。まあ、その、うまくできるといいな」
「はい」
私は微笑んで頷いた。
希清様は何か照れたように頬をおかきになると、暫し明後日のほうを見て考え込まれてから、私の顔を見た。
「ところで、葵子、あの神隠しなんだが……」
「藤一郎ですか?」
「まだ、藤一郎と呼んでいるのだな」
「ええ……。他に呼び方が思いつきませんから」
私は思わず苦笑いをした。
「そうか……。藤一郎……。いや、それは、まあ、……」
「……希清様?」
「……藤一郎、藤一郎……」
「希清様、あの……どうかなさったんですか?」
希清様が無心にぶつぶつと呟かれているので、私は思わず身を乗り出しながら首を傾げた。
何をお考えになっていたのか分からないが、希清様はそれを振り払うように首を振った。
「……あ、ああ、すまない。それより葵子、あの神隠しが憑いていて、本当にお前には何もないのか? 一人でいる時に、何かあったらと思うと、心配になるんだ」
「あ……そうですね」
……いや……何もないわけではない。しかしそれは、私が自分から藤一郎に色々なことを尋ねて、引き起こされていることだ。私の業罪の話も、私が璃子としてやってきたことも、全て自分から藤一郎に訊いた。藤一郎は口も態度も悪いが、藤一郎には一応責任はない。
それにそんな話を藤一郎としているなどと、希清様にお話しできようか。
私は少し考え込んで、それから頷いた。
「はい。藤一郎がそばにいても、特に悪いことは起こっていません」
「……そうか?」
「はい。藤一郎は確かに、口は悪いですけれど……。でも、藤一郎は本当に普段は姿を見せないので、藤一郎がそばにいるというのが信じられないくらいなのです。それに、藤一郎は、」
「……藤一郎」
ぼそりと呟かれた、希清様のお声。
「……え?」
あまりにも冷たいお声だった。
私は思わず話していたのをとめて、希清様のお顔を見た。
希清様はまっすぐに私をご覧になっている。その目のあまりに普通でない光に、私はたじろいだ。
まるで、狂おしいほどの怒りをたたえているかのような、目。
……なぜ? 突然、どうなさったというの?
「……藤一郎」
「……希清……様?」
希清様はふっと笑い声を漏らした。
「……希清様。希清様か」
「あの……希清様……? どうか、なさったのですか? あ……藤一郎の話が、お気に障った、」
「藤一郎……。……藤一郎、藤一郎藤一郎!」
希清様は突然、力の限り机を叩いた。そのあまりの音と行動に私は肩を跳ね上げ、息を呑んだ。
希清様は肩で息をなさっている。
「……あの神隠しを藤一郎などと言うな! それは存在していないお前の兄の名だ! お前の兄は俺だけでいい、お前の兄は俺だけだッ!!」
「ま……まれ……」
「……俺を兄とは呼んでくれないのだな、葵子……どうしても」
希清様は頭を抱えるように両手で御髪をわしづかみになさり、うめいた。
「……なぜだ、葵子。ようやく会えたというのに、どうして何も覚えていてくれなかったんだ……俺は兄だ、お前の……もう死んだ藤一郎などではない、お前の兄は俺だけなんだッ!」
「……ま、まれきよさま……」
「俺は兄だ、お前の兄だ……それなのにまるで他人のような……」
「た……他人など、そんなつもりは……」
ただ、いきなり兄と呼ぶのは気恥ずかしかった。それだけだ。
希清様のこの感情の
希清様は暫く激しく息をなさっていた。やがてその荒い息も落ち着いてくると、今度はくすくすと笑い声を漏らした。
「……ああ、大声を出したりして悪かった……。だがな、葵子、お前は本当に、どうして何も覚えていないんだ……」
「……申し訳、……申し訳ありません……」
「……いや、いいんだ。仕方がないことだからな。あんなことがあっては、覚えていたくないのも無理はない。あんなことがあってはな、無理はないんだ……」
あんなこと。あんなこととは、どのことだろうか。家の中であまりにも酷い扱いを受けてきたことか、それとも、璃子が殺されたことか。そういったあらゆること、全てだろうか。
希清様はやはり、私に璃子としての記憶がないことを、悲しくお思いだったのだ。そうでもなければ、こんなお言葉が出てくるものか。
「無理はない……仕方がない……。そうだろう、葵子……。むしろ、覚えていないほうが、お前のためなのだ……俺のことを忘れても、そのほうが、お前の……」
希清様のご様子は尋常なものではなかった。私は思わず背もたれに背を密着させて、小刻みに息をしていた。
――怖い。
希清様は再びくすくす笑われると、お顔を上げた。その笑みを浮かべたお顔に、私は背筋がぞっとした。
――黒川希清は狂気だ。
藤一郎の声がした気がした。確かに、この希清様の目は、正気のそれではない……。
でも、どうして、突然……。
希清様は笑顔のまま首を傾げた。
「どうした、葵子? 何を怯えている?」
「い……いえ……」
「どうしたんだ。言ってみろ」
「いえ……私、何も……」
希清様は反対側に首を傾げると、席を立って勉強机に歩み寄った。そしてそこから肥後守を取り上げて、刃を抜いた。
くるりと私のほうを向き、悲しんでいるような、安心させようと無理に笑っているような、そんな複雑な表情をなさった。
「もう、何も怖くない。もう二度と、お前を誰かに傷付けさせたりしないから」
「あの……私は、大丈夫ですから……」
「葵子は俺が守るから……。だから、もう何も怖くない。もう絶対に、お前の冷たい手に触れるようなことは、絶対に……だから必ず守るから、お前にとって怖いことも悪いことも、全部俺が取り除いてやるから」
「あのっ……私は、本当に大丈夫ですから……!」
私は思わず椅子から立ち上がり、後退ってしまった。
それが悪かった。
希清様は狂気のように目を開いて、暫く何も言えないかのように黙っていた。
「……どうしたんだ、葵子」
「どうも……しません……」
「いいや、何かに怯えているな。何が怖い。言ってみろ。葵子を傷付けるやつはみんな殺す。だから言ってみろ」
「いいえ、いいえ……何でもないのです」
「葵子……葵子、何を怯えているんだ。どうして後ろに下がるんだ。葵子……」
「何でもないのです、希清様、本当に……」
「兄と呼んでくれ、葵子……他人のように希清などではなく、昔と同じに……」
「……希清様、私は、まだ……お許しください、まだ恥ずかしくて……」
「恥ずかしい? なぜ? 昔は兄と呼んでいたじゃないか。……どうした、葵子? さっきから何に怯えているんだ。まるで恐ろしいものでも見ているようだ」
「い、いえ、違います」
私はじりじりと扉に近付いて、後ろ手にドアノブを探った。手が震えて、なかなかドアノブに手が触れない。
「大丈夫ですから、ご心配なさらないでください。その、希清様、お忙しいところを、お邪魔してしまって……」
「いいんだ。まあ待て、葵子。何も隠すことはないんだ。何が恐ろしいのか、言ってみろ」
「いいえ、何も恐ろしくなどありません」
その時、やっとドアノブを掴むことに成功した。私はノブをひねって声を上げた。
「ごめんなさい希清様、失礼いたします!」
「葵子!」
私は慌てて廊下に飛び出した。背中に希清様の声が突き刺さる。
……怖い。怖い怖い!
希清様は、一体どうなさったというのだろう! 藤一郎の話をしていたら、突然態度か豹変した。いや、藤一郎の話をしていたせいではなく、私が藤一郎という亡き兄の名を口にしたことが、希清様の感情を刺激したのだ。
――黒川希清は狂気だ。
……本当に? まさか、本当に?
私は廊下を走った。その私の足音に混じって、追いかけてくる足音がある。
「葵子、一体どうしたと言うんだ!」
希清様が追ってくる。私の部屋はこの階の突き当たりだ。そこまで戻れれば、部屋にこもってしまえる! そこで希清様が落ち着かれるまで待つのだ。希清様は、正気にお戻りになれば、真面目でお優しい方なのだから!
しかし廊下を走っている最中、あまりに焦ってしまって、長い服の裾が脚に絡んだ。
「きゃあっ!」
私は冷たい廊下に倒れ込んだ。その後ろから、希清様の高い足音が響いてくる。
希清様は倒れ込んだ私にゆっくりと近付いてきて、私の足下に立ち止まった。
「……葵子。何を逃げるんだ」
私は震えながら体を起こして、希清様を見上げた。
希清様は悲しんでいるような、安心させるような、あの複雑な笑みを浮かべられている。その希清様の手には、刃を抜いた肥後守。
「葵子……」
あごが震える。奥歯がかちかちと鳴った。
「葵子……?」
希清様は首を傾げながら、私の顔を見下ろした。
「……葵子……。守ってやる、お前を傷付ける全てのものから守ってやる。葵子……葵子、必ず守る、……お前を失うなど耐えられない。もしそうなったら、俺は……」
「希清……様……」
「……希清」
希清様はすうっと無表情になられた。そして突然感情が突沸したかのように、肥後守を持っていないほうの手でご自分の髪の毛をかきむしった。
「希清、希清希清! そんな名で呼ばないでくれ! そんな他人のような呼び方をッ!! 俺は兄なんだ、他人などではない!!」
私は思わず尻餅をついたまま後退った。
するとそれに反応して、希清様は私のほうに手を伸ばし、ふらふらと足を踏み出した。
「葵子……失いたくない、もう二度と失いたくない……だから葵子、いなくなるな、俺の前から……葵子、葵子……」
「希清様……やめてください、どうか正気に……」
「葵子……葵子を傷付けるやつは殺してやる……璃子を殺すなら殺してやる、殺してやる、殺してやる……」
希清様はもう完全に正気ではない。私はさあっと血の気が引く音を聞いた。恐怖で耳の中が無音になる。心臓が冷たく脈打つ。
希清様は肥後守を振り上げられ、その切っ先を私に向けた。
「璃子を殺すなら殺す……璃子を殺すなら殺す」
「い……いや……」
「璃子、……璃子、璃子……」
「やめて、いやです、いや……」
希清様が肥後守を振り下ろす。
私はとっさに逃げることが出来ず、ただ顔を覆って悲鳴を上げた。
「きゃああぁっ!」
「――まったく」
その時、黒い布がばさりと音を立ててはためいた。そして、固いものが廊下に落ちるからりという高い音。
私は暫く身動きがとれなかった。
どこにも痛みは……ない……。
私はおそるおそる目を開いた。
希清様の肥後守が、私の足下に落ちている。その抜き身の刃が廊下の照明を反射してぎらりと光った。
気付くと藤一郎が立っていて、何があったのか、力を失った希清様を支えていた。
「……と……とう、とう……」
まともに口が回らない。
藤一郎は背中越しに私に横顔を向けて、呆れたようにため息をついた。
「貴重な
「……藤一郎……」
藤一郎の言ったことはあくまでも自分の都合なのだけれど、私は何だかほっとした。
「藤一郎、希清様は……」
「眠らせた」
「眠っ……た……」
私は全身の力が抜けていくのを感じた。
普段は本当に嫌味な藤一郎の横顔なのに、今それを見上げると、心底安堵を感じた。
「……希清様……どうして……」
「単純な狂気の発作だ」
「狂気……」
「ところで、こいつをどうする。ここに転がしておくか」
「……そんなことしないで……。お部屋まで運んで、お願い」
藤一郎は再度ため息をついた。
「世話の焼ける」
とは言うものの、藤一郎は希清様を抱え上げるとお部屋まで運んで、ベッドに横たえさせてくれた。
私も希清様を放っておくことが出来ず、その後ろについていった。その時肥後守を拾い上げたが、その温度に悲しくなった。肥後守は勉強机に元の通りに置いておいた。そして椅子をベッドの枕元に据えると、そこに腰を下ろした。藤一郎は一瞬姿を消すと、机の上に再度現れて足を組んだ。
閉じられた希清様の瞳。それを見下ろしていると、何だか視界が潤んできて、私はあふれてくるものを止めることができなかった。ぽろぽろ、ぽろぽろと、私の頬を熱い滴が伝った。
「何を泣く」
「……泣いてない」
「じゃあ何をしている」
「分からないわ」
本当に分からなかった。ぽろぽろ、ぽろぽろ、頬を伝った滴が手の甲に落ちてくる。
滴が頬を伝ってくるほど、私は恐ろしかったのだろうか? 確かに、怖かった。本当に怖かった。けれど、恐怖からの滴ではないという感覚があった。だから余計に理由が分からなかった。どうしてか分からないけれど、希清様を見ていると、あふれてきて止まらないのだ。
……本当に私は、黒川璃子なのだろうか……。ふと、そんな考えが浮かんできた。
この滴は黒川葵子ではなく、黒川璃子が流しているのだろうか。
私は前世のことなど何も覚えていない。だから自分が黒川璃子であるということを自覚することができない。希清様と逃れて幸せになるために殺されたということも、幸せを手にするために黒川葵子を殺したことも、私にとっては覚えのないこと。
けれどどこかに黒川璃子が残っているとしたなら、この涙なのではないだろうか。私には理由の分からないこの涙が、黒川璃子が希清様に対して抱いた、罪の意識の感情なのではないだろうかという気がした。
だって希清様が狂気を抱えたのは、全て璃子の計画のせいなのだから。幸せな兄と妹になるために様々なことを成してきたが、そのために希清様が苦しむことになったことを、今ようやく目の当たりにして心苦しく思っているのではないだろうか。
だからこうして、涙が流れて止まらないのだとしたら……。
「……藤一郎」
「何だ」
「助けてくれて……その、ありがとう。希清様と、私のこと……」
「結果としてはそうなったが、僕はただ自分の餌場を守っただけだ。礼を言われるような筋合いはない」
と言うと、藤一郎は消えてしまった。
室内がしんとする。
すると暫くしてから、慌ただしい足音が駆け寄ってきた。そして慌てたように部屋の扉を開けたのは、私の両親だった。
「葵子……!」
父がそう言いながらこちらへ歩み寄ってくる。眠っている希清様のお顔を見下ろして、慌てて駆けてきたせいで荒れてしまった呼吸を整えた。
「……葵子。大事はないか」
「はい。大丈夫です」
母は私の両肩に手を乗せて、抱き寄せるようにした。
「ちよが知らせてくれたのよ。希清の様子がおかしくなったと……」
「すまなかった、葵子。希清は幼い頃から狂気の発作を起こすことがあったのだが、ここ暫くは落ち着いていたのだ。だから、すっかり安心して話していなかった」
「そうなのですか……」
「鴉を殺したときはまさかと思ったが、それでももう酷い発作が起こることはないと思っていた……。ともかく、怪我がないようで、よかった、葵子」
「……はい。ご心配をおかけして……」
私の目からあふれてくる涙はもう止まっていた。私は涙が伝った後をぬぐうのを忘れて、両親に言った。
「暫く、希清様と二人きりにさせください」
「……大丈夫なの、葵子?」母が心配そうに顔を覗き込んでくる。
私は頷いた。
「はい。希清様が発作をお起こしになったのは、私のためなのです。だから、私は希清様のおそばにいたいと……そう思います」
「……そう。何かあったら、言うのよ」
「はい」
私の様子を見てどう判断したのか分からないが、両親はお互いに顔を見合わせると、希清様のお部屋を出て行った。そして暫くすると、希清様が小さくお声を漏らした。
私は思わず身を乗り出した。
「希清様!」
「ん……」
希清様は目を開けて、ぼうっとした瞳で私の顔をご覧になった。
「葵子……」
希清様は頭を支えながらお体を起こされると、下を向いたまま低く言った。
「……すまない、葵子……。恐ろしい目に、遭わせてしまった」
「……いいえ。私は大丈夫です」
「もう、狂気の発作など起こらないと思っていた。油断していたんだ。本当にすまなかった」
「いいえ、お謝りにならないでください」
「葵子……」
希清様は指の隙間から私の顔を見た。
「……泣いているのか」
「いいえ、これは」私は慌てて顔をぬぐった。「ち、違います。少し、その、汗をかいてしまいました」
「葵子……」
希清様は少しお疲れのようだった。ただでさえ切なさをたたえた面差しが、より悲しげな影を落としていた。
「優しいな、お前は」
「い、いいえ、そんな」
「……もう二度と、こんなことはないようにするから」
「希清様……。どうか、気を病まれないでください」
私は頬をぬぐった手のひらをすりあわせて、涙を乾かした。
「……希清様」
「……ん?」
「あの……。桜の押し花、完成したら、見てください。素敵なものに、仕上げますから」
私がそう言うと、希清様は微笑まれた。
「……ああ。楽しみだな」
「……はい。楽しみです」
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