akihito先生へ
宮 冨美子
第1話 新緑のころ
*出所後、再会した神谷と北條。翌日北條は長野の実家へ帰省した。その数週間後の二人を妄想してみました。『花に嵐』より↓
神谷の家の前。玄関の引き戸に手をかけたところで、北條の手が止まった。
なんと声をかける? 行ってきますと言って出かけたのだから……。
「ただいま――」
戸を引きながら発した声は、自分でも驚くほどか細く裏返ってしまった。
情けないな。緊張している。
もう一度、腹に力を込めて。
――たった一言なのに何をやっているのだろう。ふと苦笑いする。
しかし返ってくるはずの声が聞こえない。葉書で帰る日を伝えたはずだが。
上がり框に腰を下ろし靴を脱ぎながら様子を伺うが、人の気配を感じない。
出かけているのだろう。そう判断して廊下を進む。
一緒に居てほしいと神谷に言われた。しかし再会した翌日には長野に帰省したため、まだこの家での自分の居場所が分からない。
ひとまず居間で帰りを待つ。そう決めて襖を開けると、縁側で横になっている神谷を発見した。隣には茶色の猫。
「神谷。寝ていたのか」
そっと近づくと、俺が長野から送ったハガキを胸にあてすやすやと気持ちよさそうだ。猫と縁側で昼寝か。寝顔を見ていると思わず頬が緩む。
顔をあげた猫がじっとこちらを見ている。額のあたりを軽くなでて挨拶をする。
腰を下ろして、そのままごろりと横になる。寝ていると幼く見える恋人の顔を片肘をついて眺めていると、胸がじんわりと暖かいもので満たされていく。
庭に目をやると、満開だった桜は数週間の間に若葉に衣替えを終えていた。
新緑の間から差し込む木漏れ日が、苔に反射してキラキラと光っている。
時々、ふわふわと心地よいそよ風が二人の上を通り過ぎていく。
猫が起き上がり大きく伸びた後、にゃあ~と鳴いて庭に降りトコトコと行ってしまった。
その声で目を覚ました神谷が、人の気配を感じたのかゆるゆると顔をとこちらに向けた。
「帰ってきたのか?」
「ああ」
「お母さんは元気だったか?」
「ああ」
「そうか――おかえり」
神谷がふとこちらに右手を伸ばしてきた。
「北條、髪が少し伸びたな――」
その手を取りそっと唇を寄せて言った。
「神谷、ただいま」
完
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