東海道五十三次殺人事件

鷹山トシキ

第1話 日本橋

 安藤

 織江

 天童

 長崎

 鈴木明慶 

 西野敦美

 石田翼 

 津久美早紀

 中山絵里 

 野木とみ子 


 安藤と織江は日本橋にいた。東海道五十三次を旅行することにした。昔は七つに立つのが当たり前だった。現在に換算すると午前4時だ。

 日本橋が掛けられたのは1603(慶長8)年のことだ。周囲には商店が軒を並べて、日本最大級の繁華街として栄えていた。今の渋谷みたいなものだ。

「魚河岸はすごかったみたいよ?竜宮城の港って呼ばれていたみたいね」と、織江。

 安藤は歌川広重という人物を最近、本で読んで知った。

 広重は、江戸の八代洲河岸定火消屋敷の同心、安藤源右衛門の子として誕生。源右衛門は元々田中家の人間で、安藤家の養子に入って妻を迎えた。長女と次女、さらに長男広重、広重の下に三女がいた。文化6年(1809年)2月、母を亡くし同月父が隠居し、数え13歳で広重が火消同心職を継ぐ。同年12月に父も死去。


 幼いころからの絵心が勝り、文化8年(1811年)15歳のころ、初代歌川豊国の門に入ろうとした。しかし、門生満員でことわられ、歌川豊広(1774年-1829年)に入門。翌年(1812年)に師と自分から一文字ずつとって歌川広重の名を与えられ、文政元年(1818年)に一遊斎の号を使用してデビュー。


 文政4年(1821年)に、同じ火消同心の岡部弥左衛門の娘と結婚した。 文政6年(1823年)には、養祖父(安藤家)方の嫡子仲次郎に家督を譲り、自身は鉄蔵と改名しその後見となったが、まだ仲次郎が8歳だったので引き続き火消同心職の代番を勤めた。


 始めは役者絵から出発し、やがて美人画に手をそめたが、文政11年(1828年)師の豊廣没後は風景画を主に制作した。天保元年(1830年)一遊斎から一幽斎廣重と改め、花鳥図を描くようになる。


 天保3年 (1832年)、仲次郎が17歳で元服したので正式に同心職を譲り、絵師に専心することとなった。一立齋と号を改めた。また立斎とも号した。入門から20年、師は豊廣だけであったが、このころ大岡雲峰に就いて南画を修めている。


 この年、公用で東海道を上り、絵を描いたとされるが、現在では疑問視されている。翌年から「東海道五十三次」を発表。風景画家としての名声は決定的なものとなった。以降、種々の「東海道」シリーズを発表したが、各種の「江戸名所」シリーズも多く手掛けており、ともに秀作をみた。また、短冊版の花鳥画においてもすぐれた作品を出し続け、そのほか歴史画・張交絵・戯画・玩具絵や春画、晩年には美人画3枚続も手掛けている。さらに、肉筆画(肉筆浮世絵)・摺物・団扇絵・双六・絵封筒ほか絵本・合巻や狂歌本などの挿絵も残している。そうした諸々も合わせると総数で2万点にも及ぶと言われている。


 鈴木明慶という大正時代をリアルに生きた人が、「魚河岸は大正12年の関東大震災で全焼してさ、都市計画で築地に移転した」と話していた。


 広域地名としての日本橋は、東京都中央区北部で、旧日本橋区全域を指す。江戸時代から武家屋敷が立ち並ぶ山手に対して、町人文化の中心地下町を代表する地域であった。東京は新宿や渋谷などの比較的歴史の浅い街が多い中で、日本橋は江戸時代初期からの歴史と伝統を持つ数少ない地域である。旧日本橋区西側に位置する中央通り沿いが賑わいの中心となっている。


 近代以降も重要な地であった日本橋には、日本銀行本店本館をはじめとした重要文化財に指定されている建築物が多く集積している。江戸時代には日本橋は五街道の起点として江戸における交通・物流の要所であった。現在の日本橋本町を含む一部地域は「江戸本町」と呼ばれており、江戸で最初に町割りが整備された奥州街道沿いの街である(現在の「本町通り」「大伝馬本町通り」が該当する)。日本橋本町は江戸時代から薬問屋が数多く軒を連ね、現在でも「薬の街」として武田薬品工業、アステラス製薬、第一三共などの大手製薬会社の本社及び東京本社(グローバル本社)が多数所在する。


 江戸時代当時から両替商など金融機関がこの地に集積し、金融・商業の中心地であった[3]。1873年に最初の銀行である第一国立銀行が設立された銀行発祥の地の日本橋兜町、日本銀行本店等が所在する日本橋本石町や日本橋室町、奥州街道沿いの金融街として今でも複数の大手銀行の支店が置かれている日本橋大伝馬町や日本橋横山町など、日本橋地域全体が東京都心を代表する金融街として発展している。


 日本最古の百貨店である日本橋三越本店を含む老舗の商業施設も多く、日本橋地域北東部に位置し旧奥州街道沿いの街の東日本橋や日本橋横山町、日本橋馬喰町には日本最大の問屋街が形成されている。関東大震災で倒壊してその後築地に築地市場として移転するまで当地に魚河岸が置かれており、江戸時代から東京の食品流通を担ってきた。


 老舗百貨店の三越(三井越後屋)は旧三井財閥(三井グループ)のルーツと言われており、戦前は三井本館に三井財閥の本拠地が置かれた。歴史的な経緯から三井不動産が当地に数多くのオフィスビル・複合商業ビルを有している。バブル崩壊以降、金融街である日本橋の活気は失われていたが2004年に東急百貨店日本橋店(白木屋)跡地にコレド日本橋を開業して以降、官・民・地域が連携して「日本橋再生計画」と呼ばれる大規模再開発を進めており、首都高速道路の地下化などを通して日本橋川沿いの水辺空間の賑わいの創出を目指している。


 東京駅八重洲口がある「八重洲一丁目」も日本橋地域である。八重洲一丁目はかつて「日本橋呉服橋」の町名で、旧東京市日本橋区に属していた。他の日本橋地域の町内と同様に郵便番号上三桁103を使用している。当然多くの行政施設の管轄や公立中学校の学区も日本橋に属している。


 現在の日本橋を中心とした地域は、古くは武蔵国豊嶋郡に相当し、その中の江戸郷前嶋村と呼ばれる地域だったという。江戸は鎌倉時代の江戸氏の支配から太田道灌、さらに後北条氏を経て徳川家康が幕府を開く。その過程で、早くに町地として開発されたのがこの日本橋周辺の地域であった。さらに上でも触れたように日本橋が架けられ交通の要所として定められてからは、金座や銀座が置かれ、日本初の百貨店三越の前身である越後屋をはじめとする大店が集まるなど、江戸を代表する場所として殷賑を極めた。


 1868年、江戸府内は東京府となり、日本橋の辺りは維新の混乱により一時寂れた。しかしガス灯や鉄道馬車が敷設されるなど程なく息を吹き返し、江戸の昔に変わらぬ繁栄を見せるようになった。1878年施行された郡区町村編制法により、日本橋を中心とした周辺の地域は日本橋区となり、1889年には東京市に属した。1896年には本両替町にあった金座の跡に日本銀行が建てられた。また大店の越後屋や白木屋が百貨店として生まれ変わり、1908年には越後屋こと三越が洋館の店舗を落成させるなど次第に洋風建築も増え、近代的な町並みへと変わっていった。


 1923年、関東大震災により日本橋区は甚大な被害を受ける。震災後定められた土地区画整理事業によって河川や道路の改修、拡幅が行われ、昭和通りや浜町公園ができた。古くから日本橋のたもとにあった魚河岸も築地へと移転した。 第二次大戦において、日本橋区は1945年の空襲により、再び区内の大半を消失する被害を蒙る。終戦後、東京都の主導により日本橋区は南に接する京橋区(現在の中央区のおよそ南半分)と合併することになった。日本橋区会(現在の区議会に相当)では他区との合併に難色を示す議員が多く、統合後も日本橋の名前だけは残したいとの意向から、京橋区との合併決議に町名に日本橋を冠することとする項目が盛り込まれ、中央区発足時に旧・日本橋区内の全ての町名に日本橋が冠称された。現在中央区のおよそ北半分の地区に見られる数多くの「日本橋○○町」という町名は、中央区発足時の町名変更の名残りである。なお、京橋区側の町名はそのままとなった。


 その後、戦災復興期の区画整理により「日本橋呉服橋」は八重洲一丁目に、1970年以降の住居表示実施に伴う町名の統合により、日本橋芳町や日本橋北堀町などが隣接する既存の町名に変更され、日本橋を冠する町名の一部は消滅した。1971年住居表示の実施により、江戸時代から長らく両国と称されていた「日本橋両国」をはじめとした周辺の町々が合併し現在の東日本橋となる。1973年住居表示の実施により「日本橋通」(一丁目 - 三丁目)と「日本橋江戸橋」(一丁目 - 三丁目)の2町を合併し現在の日本橋となった。


 安藤たちは丸善東急ビルをブラブラした。

 日本橋・中央通り沿いに面し、髙島屋東京店の向かいに位置する。


 外環は花崗岩やアルミなどによるスティック状の単一エレメントを使い、幅やピッチを変えることで陰影をつくり出していることが特徴のビルである。


 地下1階から地上3階まで丸善日本橋店(丸善の登記上の本店)が入居しており、書籍は約60万冊を揃える。また書籍のほか文具やメガネサロンなども併設し、3階には丸善創業者である早矢仕有的が考案したという説もあるハヤシライス(早矢仕ライス)等を提供する「MARUZEN Cafe」がある。


 他にはIDC大塚家具日本橋ショールーム、三菱商事パッケージング本店、水戸証券本社などが入居している。


 安藤は織江が無口だな?と、思った。

「何かあったのか?」

「別になにもないけど」

 

 安藤たちは次に榮太樓總本鋪にやって来た。ここは老舗の和菓子店である。創業は1818年(文政元年)。

 1700年代の初め、現在の武州飯能に吉左衛門四世という者がいた。家は士族でありながら農業で生計を立てていた。1700年代なかば頃、吉左衛門四世は先祖代々の士族の位を捨てて菓子業を始めた。名前も善兵衛に変える。これが榮太樓の菓子業の始まり。そのときに作っていたのは煎餅焼。その商いは息子の善兵衛二世や孫に継がれる。この孫の名前が徳兵衛。徳兵衛は1817年に妻を亡くし、その翌年に孫二人(安太郎、安五郎)を連れて江戸御府内に出府。徳兵衛は江戸の九段坂で煎餅焼の商売を開始。店名は「井筒屋」。その井筒屋はのちに安太郎が継ぎ、安五郎は独立して別の菓子店に勤める。安五郎は腕が良く職長をしていた。やがて安五郎は「伊立屋」の看板を掲げて一本立ち。1830年に結婚。1832年に長男、栄太郎が生まれる。栄太郎は子供の頃からよく父の商いの手伝いをしていたので町内では孝子で通っていた。


 1852年、栄太郎19歳のときに流行り病で伯父と父親を同時に亡くす。母と弟や妹など家族もいるので栄太郎は伯父の名である安兵衛を継いで一族の長となる。このとき九段坂の井筒屋はもう傾いていた。栄太郎は日本橋南詰の屋台商売にさらに精を出す(今の西川ビルとコレド日本橋の間)。栄太郎の金鍔は非常に有名で、とくに魚河岸で働く軽子たちには甘くて栄養価も高い金鍔は大人気だった。その後1857年(安政4)、西河岸町に店鋪を構える。当初は井筒屋の屋号で商売を始めたが、お客様が「栄太郎の店」と言うので、数年後に店名も「榮太楼」に変えてしまう。店鋪の場所は現在も本社として同じところにある。


 明治期になると上野で開催された内国勧業博覧会や海外で催された万国発明品博覧会などに商品を出品しながら、知名度を東京一円に拡大してゆくとともに、1940年には有限会社を経て、1972年、株式会社へ改組。1981年には「缶入りあんみつ」を発売。国内の百貨店の各専門店で販売すると共ともに同社を代表する商品へと成長させる。


 安藤たちは武家屋敷の前にやって来た。安藤は他の人間にはない嗅覚を持っていた。

 屋敷の門扉は開いており、戸も開いたままだった。屋敷の中で鈴木明慶が死んでいた。

 

 武家屋敷の原形は公家の住まい(公家屋敷)である寝殿造にあるといわれ、武家が台頭する鎌倉時代から始まったといわれる。武家造とも言われ、寝殿造を簡略化し武家の生活様式に合わせ御家人の集う施設や防衛のための施設を持つのが特徴となっている。なお、現代では侍屋敷の様式を武家造と呼ぶこともあるが、本来の武家造とは言葉の意味が異なっている。


 室町時代になると武家屋敷の様式は寝殿造から独立し、会所や対面所といった建築に象徴される独自の様式を持つようになり、主殿造・書院造へと進化していった。安土桃山時代になると書院造は上段・下段の空間構成や障壁画を始めとする絢爛な装飾を備え、権力者の権勢を示す荘厳で格式の高いものとなった。なお、床の間といった書院造の要素の一部は江戸時代になると武士や上層農民などの住宅にも取り入れられ、明治以降は民家にも普及するようになった。


 明治維新後、諸大名の上屋敷は江戸幕府から与えられたもの(拝領屋敷)であったため、新政府により接収され、殆どが解体され政府の施設などへと姿を変えた。武家個人の所有であった下屋敷は本邸として用いられることもあったが、武家は公家と共に華族へと移行し、また建築の近代化により武家屋敷・公家屋敷といった峻別は意味を成さなくなった。こうして武家屋敷は姿を消していくが、代わりに武士の屋敷(侍屋敷)が武家屋敷と呼ばれるようになり、侍屋敷が多く残る地区(侍町)も武家町や武家屋敷通りなどと呼ばれるようになった。




 

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