第48話 恐怖の癇癪
皆一様にクラーケンとの死闘を繰り広げる中、小さなミカエルはリースに寄り添い、スカートの裾を掴んで、大きなイカの化け物を興味深そうに見つめていた。まるで食べられるか食べられないかを吟味しているかのように。腹ぺこミカエルは虫の居所が悪くなってきていた。物欲しそうに自分の親指を舐めて気を紛らわせている。
カインはミカエルの脇に手を差し込んで抱き上げた。
「さあ、ミカエル。僕のお手伝いをしてくれないか?」
ミカエルは、お遊戯の時間のようにはーい! と元気よく返事をした。
カインは少し困ったように眉をへの字に曲げて見つめた。
ミカエルは不思議そうにカインの目を見つめ返した。
「ニーナ!」
ニーナが不機嫌そうに走ってきて言った。
「なに? 忙しいんだけど?」
「まあまあ、あのさ、悪いんだけどさ、ちょっとミカエルを浮かべてあのゲートまで行かせてくれないか?」
ニーナはなにか魂胆があって言っているんだろうと、あからさまに訝しげにじっと見つめた。やがてニーナはそのミカエルが鍵となる作戦を見抜いて狼狽えた。
「ちょっ……嘘でしょ?……カイン……冗談よね?」
この非常時に冗談を言うものなどいる訳がないことはニーナも分かっていた。それでもあまりの事にニーナの口をついて出たのだ。本気なのだと分かってしまったから。
カインは理解が早いなと頭をかいた。どうやらニーナはその先に待っているものが分かったようだ。次にリースを見て言った。
「ごめんなさい、シスター・リース」
リースはまだ体力が回復していないナナに寄り添いながら、なんの事だろう? とキョトンとカインを見つめた。なにも悪いことしていないのにカインが謝っているのだ。当然リースは小首を傾げ、桃色の髪を揺らした。
カインはミカエルを地面に立たせて腰を屈めた。ミカエルのおでこに輪っかを作った指をそっと近づけて勢い良く弾いた。
ミカエルのおでこでバチンと音がすると、ビックリしたような顔でカインを見つめ、ジワジワとくる痛みに顔が歪み、大粒の涙が溢れてくる。
カインはこれから起きることに背筋を走る寒気に身震いしながら、全速力でその場から走り去った。
「ひっ……ひっく」
ニーナはその様子を恐れおののきながら見ている。過去の苦い思い出が脳裏を過ぎる。
ニーナは不安しかない中、チカラでミカエルを浮かべてグングンと上昇させた。
「うわぁあああああん!」
ミカエルが腕をカインに向け、光が潤んだ青い瞳に灯る。かざした手のひらから大小のガラス玉のようなチカラを生み出し、空間を歪めながらカイン目掛けて飛んだ。
ガチガチと凍りつくような音を立てながら、小さな青い結晶が合わさり、歪な球体を作りながらカインを捕獲しようと乱れ飛ぶ。
「うわっ!」
カインが飛んで避けた先の瓦礫が、何も無いところから発生した青い球体に捕まりゴトリと地面に転がった。青い球体の中で、鋭利な刃物でくり抜かれたかのように瓦礫が転がる。アレに捕まれば同じ目に合うだろう。上半身が捕まればあの中に転がるのは自らの胴体なのだ。
カインが身を隠していた瓦礫から飛び出し、一番近いスケルトンを生み出すゲート目指して走りながら叫ぶ。
「ニーナ! ゲートにミカエルのチカラが当たるように飛ばせ!」
ニーナが両手で精密なコントロールをして、浮いているミカエルを上げ下げしていた。ミカエルの怒りの矛先であるカインとゲートとを、目に見えぬ線で結ぼうとした。
ミカエルのチカラの結晶がゲートの一部を抉りとり閉じると、ゲートが維持できずに
「よし! 成功だ!」
カインのすぐ側で青い結晶が地面を抉りとる。
〈やばい!〉
カインは、弾かれたようにカエルのように飛び上がって避けた。飛んだ先の目の前で空間が歪み始める。まもなくチカラが削り取る予兆だ。
〈しまった! 死……〉
カインが思った瞬間、全てが止まったようにゆっくりと感じられた。子供の頃の出来事が脳裏を駆け巡る。ジャックと手を繋ぐ自分。見上げるとジャックが不安そうに作り笑顔を見せている。ああ、走馬灯だ。そう思った瞬間世界が動き始めた。
目の端で何かが高速でぶつかり、カインは何かに弾き飛ばされて倒壊した建物の瓦礫の中に突っ込んでいく。間一髪カインの頭があった空間が、球体のチカラに包まれて大きなガラス玉のように床に転がった。
カインは倒れたままゾッとしてその球体が転がるさまを見ていた。同時に先程ぶつかってきたものの重みを身体の腹の上に感じる。
「あいたたっ……ってカイン! 何やってるのよ! ミカエルを怒らせるなんて!」
押し倒す格好のまま、アンバーが腹の上で怒鳴った。
「あ、いや、これはだな……。と、とにかく降りてくれ! 重い! 背中が痛い!」
尖った瓦礫とアンバーの体重とで、背中に痛みを感じるカインは呻くように言った。
重いと言う言葉にムッとしながらもアンバーはカインの上から素直に降りた。
その傍でミカエルのチカラが弾ける。建物の残骸のおかげで見失ったミカエルがデタラメにチカラを使っているのだと見て取れる。
「アンバー、僕を連れて走れるか?」
「え? 無理よ。だって、私、か弱くて重い女だし」
ぷいっとアンバーが顔を背ける。その頬が膨らみ唇が鳥の嘴のように尖っている。
「す、拗ねてる場合じゃないだろ! アンバー!」
「フウゥンだ!」
「わ、悪かったよ。アンバー。頼むから僕を連れて走ってくれよ」
アンバーの背後で空間が歪み始める事に気づいたカインは、アンバーを抱きしめて押し倒した。そのすぐ上で球体が出来上がり、カインの頭の上に落ちてきてゴンっと鈍い音がした。
「いってぇぇっクゥゥッ」
カインは涙目で頭を擦りアンバーを助け起こした。カインの声で当たりをつけたミカエルが腕を向ける。涙は止めどなく溢れ出てくる。怒りはちっとも収まらないどころか、当たらない怒りで更に増していく。
カインとアンバーを包むように空間が一気に歪み始める。
「アンバー!」
アンバーはカインに足払いをかけて抱き込み、ステップを踏むように足を動かすとその場から高速で離れた。
カインたちが先程までいた建物のほとんどが球体に抱き込まれるように地面に転がった。
「うわぁぁぁああん! かーいーがぶった~ぁぁあ!」
高速で走るカインとアンバーを掴もうとヤキモキしながらミカエルの小さな手足がバタバタと動く。チカラが手の代わりに空間を歪めて掴んだ。
そのチカラに巻き込まれたゲートが抉りとられて消滅する。
「いいぞ! これで二つ目だ! そのまま他のゲートに向かってくれ!」
カインはアンバーの肩に荷物のように担がれたまま叫ぶように言った。
重い! 速度が出ない! アンバーの額を汗が伝い、空に溶け消えた。
放り出したい気持ちを抑えてアンバーは駆け抜けた。
ジャックは青い結晶玉が雨あられと振る後方の異変に気づくとすぐに察した。ミカエルがお怒りなのだ。背筋をゾッとする冷たい汗が伝う。
ミカエルはあまり泣かないし怒らない。我慢強く、優しい。だが癇癪を起こすと手がつけられなくなるのだ。
以前、ルディが仕掛けたイタズラにマリアが引っかからず、代わりに上機嫌で走り回っていたミカエルが掛かった事がある。
扉に張った糸に引っ掛かると、頭上から枕が降ってくるというしょうもないイタズラ。
それにまんまと引っかかったミカエルがビックリしすぎて痛くもない頭を押さえ、本気で泣きわめき怒った事がある。
そのまま半日、泣き止むか気が済むまで手がつけられず、ひたすら森の中を全員で逃げ回っていた事があるのだ。
ジャックの脳裏にその時の光景が浮かんだ。
どうやら狙われているのはカインのようだ。アンバーが担いで走っているが、明らかに遅い。痩せてはいるが、身長で勝るカインが重いせいだろう。ミカエルのチカラで、ゲートが次々に破壊されていく様子を見て、合点がいく。
ジャックは地面を蹴るように飛んで追いついた。
「カイン! お前、何やってる!」
ズザザザっと地面を撫でてアンバーが止まる。
カインが降りると、アンバーはよろけ、脇腹を押さえてオエッと嘔吐いた。それから、垂れてくる鼻血を啜りながらハンカチを取り出して押さえた。
カインはジャックに説明を始めた。
ジャックは腰に手をあてがい項垂れた。
「……なんてこと思いつきやがる。しかも実践するなんてな」
だが、これしか手がないことも確かだ、と内心思う。
クラーケンはなおも猛威を振るい、兵士の一人が捕食された。
ジャックは歯噛みしてニーナに浮かべられているミカエルを見つめた。その下でオロオロとリースが落ち着くように声をかけている。自分の泣きわめく声でミカエルには届いていないようだ。
「分かった、このまま続行しよう。カイン、背中に乗れ」
カインは渋々、加齢臭と、モサモサと毛むくじゃらな獣臭の混じる背中におぶさった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます