短編集
風詠溜歌(かざよみるぅか)
【ZAW】if 愛と血に溺れ
それは名前も知らない不思議な植物だった。
ディクライット王国の魔法研究の第一人者であるディランは、研究のついでに訪れた場所でそれと出会った。
「やっぱりここらへんには魔宝石の採掘場はなさそうだ。もっと東に行くべきかな」
「そうですねえ。だんだん鬱蒼としてきましたし、そろそろ帰りましょう」
兼ねてから信頼のおける後輩であり、今は彼の研究助手でもあるエインの言葉に頷いたディランは、ふと木の影に何かが見えた気がして立ち止まる。
「先輩?」
「いや、なにかない? あそこ」
指を差して近づいていく彼にエインは子犬のようについていく。そして全貌が見えたとき、歓声を上げた。
「すごい! 綺麗な花畑ですね〜!」
ひっそりと群生していたその花は見たことのない妖艶な形をしていた。うねりを持った花弁はまるで生き物のようで、その鮮血のような赤が新鮮で、みるものを魅了するほど美しい。
「こんなところにこんな花があるなんて! 僕初めてみました」
子供のようにはしゃぐエインを見てディランもつい口の端を緩める。
ふとそれが愛する婚約者が花をもらってはしゃいでいる姿に重なって、ディランはあることを思いつく。
「先輩? それ、持って帰るんですか?」
「うん、ティリスに見せようと思って。それにあっちで増やせたら綺麗でしょ」
「なるほど、いいですね! でもそれなら花よりもまだ成長途中ものの方がいいですよ! 途中で枯れちゃったら悲しいですし」
そう言ってまだ若い芽のそれを土から掘り返すと彼は魔法で簡易的な鉢を作り、ディランに手渡した。
「ティリスさん喜ぶといいですね」
そうして、ディラン・スターリンはその花を国に持ち帰ることとなったのだった。
ディクライット王国の城内にある研究室で、ディランは首をかしげていた。
その花は持ち帰るまでに何度か水をやったが特に芽から成長することはなく、彼女に見せようと思っていた花が咲かないのだ。
庭師に肥料をもらったりもしたが特に効果はなく、このままでは花開くことなく枯れてしまうだろう。
「そういえば」
たった一回、彼が不注意でケガをした際に鉢に血を垂らしてしまった次の朝、全く成長していなかったそれの葉が開いて少し枚数も増えていた。
成長が遅い種なのかとその時は全く気に留めていなかったが、その日以来またその植物は成長を止めてしまったのだった。
「まさかな……」
彼は自分の脳裏に芽生えた考えを否定したがその植物を見つめると段々とその方法を試したくて仕方なくなってきた。
手のひらをナイフで切るとぽたぽたと血が滴り、それを花の植木に垂らしてみる。
「……」
──静寂。
植物は何も語らない。
「……さすがにそんなわけないよね。何やってんだ僕」
血を流したせいか軽く頭痛を覚えた彼は適当に傷を治すと荷物をもって家に帰っていった。
それはゆっくりと成長し、夜のうちに大きなつぼみを付けていたのだった。
翌朝研究室を訪れたディランは植物の変化に驚きそして確信する。
これは血を養分にする花だ、とても面白いものを見つけてしまった。
いてもたってもいられなくなった彼はその日の昼、婚約者を研究室に呼ぶと、その植物を彼女に披露した。
「これがその植物?」
大きな瞳を興味深そうに煌めかせながらティリスはそれをのぞき込む。
「そう、みつけたところにではすごくきれいな花が咲いていたんだ。それでこの花、すごいんだよ。血を吸って成長するの」
「血を? 不思議な花ね」
つぼみはその重みで少し下を向いており、ティリスはそれをつつこうと人差し指を近づけた。
「えっ」
植物について楽しそうに語っていたディランはティリスの小さな悲鳴でそれに目をやる。
つぼみが口を開いていた。文字通り。
二つに裂けたその中にはとがった牙のようなものが二本並んでいて、それは勢いよくティリスの指を噛むと元の形に戻る。
痛みに手をひっこめた彼女は急に力が抜けたように崩れ落ちた。
「ティリス? ティ、ティリス……!」
とっさに受け止めた彼は愛する彼女の体が生きている人間のそれではないことに気づく。
確認したくなかった。しかし氷のように冷たい彼女の胸からは、鼓動も聞こえない。
呆然とした彼の瞳には涙が浮かぶ余裕もなくただ冷たい研究室の床にへたり込むだけだった。
このままではいけない。
しばらく呆然としていた彼は横たわった彼女を置いて、部屋を飛び出した。
彼が真っ先に向かったのはエインの元だった。ディランが最も信頼を置くその青年は、妻であるアメリアと共に書類仕事を整理している途中だった。アメリアはティリスの親友で、現在は騎士団を辞めて家庭に入っている。彼女はたまにこうやってエインの仕事を手伝いがてら顔を出しに来るのだ。
あまりにも取り乱しているディランの言葉を聞いて、親友夫婦は青い顔になった。
「とにかく、ティリスさんをそのままにはしておけません。研究室にいきましょう」
その一言で研究室へ向かった三人は、ドアを開いて驚愕することになる。
彼女が、普通に、立っているのだ。
「みんなしてどうしたの?」
そう言って首を傾げたティリスを見て、アメリアが口を開く。
「なに、ディランくん。疲れすぎて寝ぼけたんじゃないの〜?」
「あはは、ほんとですよ。よかった〜、それじゃあ僕たちはこれで。先輩はちゃんと寝てくださいよ!」
ディランの勘違いだとして親友夫婦は笑いながら去っていき、唖然としている彼をティリスは不思議そうに覗き込む。
彼女は再び首を傾げるとまだ仕事が残っているんだったと部屋を出て行ったが、ディランは見てしまった。
彼女の指には花に噛まれた跡がしっかりと残っていたのだ。
やっぱり夢じゃない。ティリスは植物に血を吸われている。
普通に立って話していた彼女は、自分が愛したその人だろうか。そんな嫌な考えを振り払うと全ての元凶の花が目に入る。
その植物は彼女の血を吸って、目を見張るような美しい花を咲かせていた。
正直、午後は仕事がほとんど手につかなかった。
今日までにこなさなければならないものだけなんとか仕上げ、ぼーっと外を見やる。
そういえば今日はエイン夫婦とティリスで食事をする日だったか。
時間に遅れないようにディランは支度を済ませて彼らと待ち合わせる。
ティリスは至って普通でいつもと変わらず愛らしい。
三人は今日は何を食べようなどと話しながら楽しそうに店へと入っていった。
「で、二人は式の日程は決まったの?」
食事を待っている間、アメリアが少しいじわるそうに微笑んだ。
その一言に真っ赤になって何も話せなくなったティリスの代わりにディランが口を開く。
「一月半後。ティリスの誕生日にできればいいなって」
「え、素敵〜! わたしも誕生日にして貰えばよかったかしら」
「あの時は僕の方が誕生日近かったじゃないですか〜!」
楽しそうに微笑む二人を見てディランとティリスもつられて笑い合う。
「当日は手伝いに行くから、どんな風にしたいか考えておいてよ! そうだ、衣装はもう決まってるの?」
「あ、衣装はね! お母さんが式を挙げたときのベールを用意してくれてたの。だからそれに合うものを見繕おうと思って」
ティリスは嬉しそうに手を合わせて、にっこりと微笑む。
「それなら今度選びに行きましょうよ! もちろんディランくんには内緒で」
「えー、僕も見たい」
「ダメですよ、花嫁姿は僕だって式まで見せてもらえなかったんですから」
ディクライットの婚姻の儀のしきたりについてはなしながら、四人は楽しそうに談笑する。
ティリスの様子が変わったのは料理が運ばれてきてからだ。
「ティリス、お腹すいてないの? さっきから全然食べてないじゃない」
指摘されたティリスはそんなことないよと言いつつ、なおもその手は食事へは伸びることはなかった。
大方彼らが食べ終わり、再び話に花を咲かせようとした頃、ティリスが先に帰ると言って席を立つ。
その顔は少し青ざめていて、明らかに具合が悪そうだ。
「一人だと心配だし、送ってくよ」
ディランも席を立って店を出る。
少し肌寒い。
街灯が薄ぼんやりと照らす夜道を歩いてる途中で、彼女が突然泣き出した。
彼女の白い頬を流れる大粒の涙。
その美しいエメラルド色の瞳を揺らしながら、彼女はポツリポツリと語り始めた。
「わたし……変になっちゃったの。さっき、お腹が空いているのに店のご飯は何も味がしなかった。いつも食べてる大好きなシチューなのに。……そればかりか、ふと自分の指をみたら小さな傷があったの。それを見て私……」
彼女は言葉を切ったが、ディランは傷が? と聞き返す。
彼女は少し間を置いて少し大きな深呼吸をした。
「……人の血が飲みたいんだって……気づいたの。だから怖くなって……店にいられなくなって……」
そこまで絞り出すように言うと彼女は顔を覆った。
辛そうな彼女を抱き寄せると、そこに人の暖かさはなかった。あの花に噛まれて倒れた時と同じだった。自分があんな植物を持って帰ってきたから、それが危険なものだと気づかず彼女に見せようなんて思ったから。だからティリスはこんな体になってしまったんだ。死人のような彼女の体を抱きしめながら、ディランはそう悟った。
「ごめんティリス。僕があんな花なんか持って帰ってくるから……」
「花……? ディランが持ってきた植物のこと? あれが何か関係あるの?」
「うん。あのときのせいだよ」
「あのとき? 蕾を見たところまでは覚えてるけれど、私……その後の記憶があまりないの。気がついたらディランとエインとアメリアが心配そうに私を見ていて……何かあったの?」
彼女はその間の出来事覚えていないようだったが、ディランは詳しく説明する気にはなれなかった。
「……ひとまず、今日のところは家に帰ってゆっくり休んで。急に寒くなったし、きっと調子が悪いだけだよ」
「……うん」
その後彼女を送り届けるとディランは一旦心配しているであろうエインたちの元に戻って彼女は具合が悪いみたいだと説明した。
そして居心地の悪い気持ち悪さとともに、彼も自宅へと向かったのであった。
次の日の昼、彼女に会うと昨日は大丈夫だったと言っていたが、酷く疲れているように見えた。
「本当に大丈夫?」
そんなディランの問いかけに彼女は少し顔をしかめた。
「実は、朝も味がしなかったから昨日の夜から何も食べていないの。お腹は空いているけど……」
「けど?」
「満たしちゃダメだと思う」
それはすなわち、ティリスを満たすことができるのは人の血だと言う意味だとディランは思った。
「……僕の血を飲めばいい」
彼女をこんなにしてしまったのは自分のせいだと思っていた。
今朝昨日花があったところに行くと、花は枯れていた。きっとティリスの血を吸って以来栄養が取れていなかったからだろう。怖くなった彼は花を焼き払って捨てたが、ティリスが花と同じような目に合うのを見たくはなかったのだ。
「え?」
彼女は酷く驚いていた。
目をまんまるくして本当に?と聞き返す表情はいつもの可愛い彼女のままだ。
「君のためなら。それに、これは僕の責任だから」
そう言って彼は彼女を抱きしめ、そして続けた。
「その代わりに、他の誰にもこのことを話さないことを約束して。他の誰かに知れたら、どうなるかわからない。僕は……君を失いたくない」
彼の温かい腕の中で彼女は頷く。
そうして、二人の歪んだ日常が始まった。
彼女が血を飲むときは、普通の歯とは違う尖った牙が二本でてくる。
見ると中は空洞になっているようで、そこから血を吸い上げて体に取り込んでいるようだった。
彼女の牙は花のそれによく似ていて、そして魅惑的だった。
初めは腕を切りつけたりして容器に溜めたものを飲んでもらおうとしていたが、それだと牙ではとても飲みにくいので、体から直接吸い上げる方が効率的だった。
血で汚れた道具を拭きあげたりもしなくていい。そうやって腕等色々な場所を試していく日々。
初めて首筋を試そうとした時、少し勇気が必要だった。血を吸い上げるとは言っても牙が体に刺さるのだ。多少の痛みは伴う。
「こわい?」
ティリスは心配そうにこちらを覗き込む。
「……大丈夫」
心配そうに聞く彼女を半ば強引に受け入れた。
彼の言葉を聞いてティリスは彼の首筋にかかった髪を手で除ける。
彼女の吐息だけが耳元に響く。
鈍い痛みとともに血を吸われていく感覚。
一歩踏み出して仕舞えばそれはとても快楽的で、一種の中毒のようにその行為に溺れていった。
彼女は毎回ギリギリまで我慢していたが、その度に息が上がりいかにも具合が悪い。
それを見ていられなくなったディランが声をかけて、それは始まる。
ああ、自分だけが彼女に血を求められている。彼女を生かしているのは僕だけなんだ。
そんな酷く独占欲に塗れた歪んだ満足感は彼を虜にしていった。
首筋からゆっくりと下に下がっていくその痛みと快楽の境目が、もう彼には分らなくなっていた。
はじめこそ少量の血でよかったが、だんだんと彼女が空腹を我慢できなくなる感覚が狭まっていた。彼女の体がもっと血を求めているのだ。それまでと同じ間隔を維持するのに、自然と吸う量が増えていく。
量が多すぎてディランが途中で気を失いそうになることもあった。
お互いにとって良くないことだというのは頭では理解していた。しかし、彼ら以外にこのことを知られればどうなるかわからない。
それが二人をよくない方向へと突き動かした。
しかし、どんなに血を分け与えても、彼女の柔らかい肌に温もりが戻ることはなかったのであった。
次第に、ディランの体にも変化が見られた。いくら愛し合う二人であろうと、血を吸われれば不具合も起きる。
魔法を中心とした研究業と騎士養成学校の魔法理論の講師の役目を兼任していた彼は多忙もあいまって常に具合が悪い状態だった。
そして、学生への講義の途中に、事件が起きた。
その日は板書を中心に説明していく座学だった。
思考がおぼつかないまま授業を進めていると、次第にどこまで話したかわからなくなって同じ箇所を繰り返し説明したりした。同じことが何度か書かれた板書を見てディランは首を傾げる。
真面目な学生たちは不満げだったが、その時の彼にはそれに気づく余裕もない。そして説明の途中、手に力が入らなくて筆記用具を落とした。
それを拾おうと屈んだところで、そのまま倒れてしまったのだった。
次に目を開くと、自分の研究室だった。仮眠用に置いたベッドに寝かされている。
呻きながら身を起こすと椅子に座っていたエインが声を上げた。
「先輩! 目が覚めたんですね。よかった……」
「僕……どうして」
頭が痛い。あまり鮮明ではないが学生たちに講義をしていた記憶はあった。
「先輩、急に倒れたんですって。学生達が慌てて僕のところまで来て騒ぐので、驚きました。その後みんなでここまで運んで、講義は中止になりました。」
「っ……そっか。迷惑をかけたね」
謝罪するディランを見てエインは少し眉をひそめた。
「先輩。僕に何か隠してますよね。こんなになって、もういい加減話してもらいますよ」
それは半ば非難のような言葉だった。
信用のおける彼らにも気づかれないように続けていた行為を、ディランは白状することにした。
「……あの時、ティリスは死んでしまったんだ。抱きしめても氷のように冷たいんだ」
頬を何か熱いものが走る。
「……まるで死んでるみたい」
弱々しく絞り出した言葉を信じたくなくて、毛布に落ちる水滴を見つめる。
「見てよこれ」
ディランは首筋に残る傷跡を見せた。
「……いくら治しても消えなくなってしまったんだ」
「先輩……」
聞いてしまったはいいが、彼にどう声をかけていいか、エインにはわからなかった。
憧れの人だった。魔法に秀でていて誰よりも勉強熱心で、実験が成功すれば子供のように喜ぶ。普段はそっけなくても、自分が結婚した時には真っ先に祝福してくれた。恋人の隣にいるときには柔らかい微笑みを見せる、そんな素敵な人だった。
もっと早く相談してくれれば何かできたかもしれないのにと言う怒りもある。実際エインの目からも最近の二人は異様だったのだ。
しかし、弱々しく言葉を紡ぎ、輝きを失ってしまった憧れの人に、そんな感情をぶつけることはできなかった。
じっと話を聞いていると、ノックの音が彼らの言葉を切る。
そこには焦った様子のティリスが立っていた。
「倒れたって聞いて……。ディラン、泣いてるの? 大丈夫?」
彼女の顔は心配の色で染まっている。
「だい、じょうぶ。……ごめん、ティリス。エインと二人きりにして」
なるべく気丈に返そうとする彼の声は震えていて、ティリスは頷くと静かに部屋を出ていった。
「エイン。僕、どうしたらいいんだろう。もう、彼女を失いたくない。あのときみたいに、ティリスが動かなくなってしまったら。もう声を聞けない、笑顔を見ることができなくなってしまったらと思うと、どうしようもなく怖いんだ」
顔を上げた彼の表情は、エインが今まで見た中で一番悲愴なものだった。
自分もし同じ立場だったらという考えがよぎり、エインは言葉を詰まらせる。
「先輩……」
「彼女を救う方法が欲しい。僕は……」
「……僕も一緒に考えます。ひとまず食事を持ってきますから、ちゃんと食べてくださいね。話はそれからです」
そう言って、エインは部屋を後にしたのだった。
エインが持ってきた食事をなんとか平らげて二日。
ディランには療養命令が出た。城にいるほぼ全員が兼業による過労だろうと思っていた。
事情を知っているのは当人たちと、親友夫婦の四人だけだ。
アメリアたちはティリスと話をしたらしいが、そのせいかティリスは一度も、ディランのもとには現れなかった。
次に二人が再会したのは療養三日目の夜だった。
まだ家に戻るまでも体力が回復しきっていなかったのでそのまま研究室で寝ていた彼は物音で目が覚める。
そこに立っていたのはネグリジェを着たティリスだった。
彼女の目からは大粒の涙がこぼれ、ディランは言葉を失う。
「私……ディランをこれ以上苦しめたくないから会いに来なかったの。でも、私……このままじゃ他の人を傷つけてしまいそうで、こわい」
そう言って彼女は崩れ落ちた。
ひどく苦しそうに息をする彼女が限界に近いのは明らかだ。どうしたらいいのだろうか。しかし今にも死んでしまいそうな彼女を見て、ディランは何もしないというわけにはいかなかった。
彼はまだ回復しきっていない体で口を開く。
「ティリス、僕の血を飲んで」
「それは……だめ。私、そのために来たんじゃない」
力なく首を振る彼女にディランは続ける。
「今血を飲まなかったらきっと君は死んでしまう。僕は……君に生きていて欲しいんだ。君に笑っていて……欲しい」
涙で潤んだ目でこちらを見上げる彼女に手を伸ばす。
手を取ったティリスは立ち上がると彼のベッドの脇に座って、そして目を伏せた。
「それにね、少し血を飲んでまた考えれば、何か解決方法が見つかるかもしれないでしょ? そのためには今生きなきゃいけない。……じゃない?」
語りかけるように説得し続ける彼に、ティリスはついに首を縦に振った。
「本当に、いいの……?」
「うん」
冷たい手でうなじにかかる髪を避けようと彼女がディランの首筋に触れた時、彼が少し身を引いたのがわかった。
彼女を抱いていた手も震えていた。
「やっぱり、怖いよね。……ごめんなさい」
触れようとした手を離して彼女は悲しそうに笑った。
「ティリス、ちが……」
否定する彼の言葉は虚しい。
彼女は悲しそうに彼の唇に口付けをすると、「愛してる」と、微笑んで彼の部屋から去っていった。
「待って……ティリス、僕は……」
彼の弱々しい声だけが、部屋に響いていた。
ティリスは部屋を出て、親友夫婦の家へと向かっていた。事情を知っている二人に会いたかった。
彼の体が自分を拒絶したことに、胸が張り裂けそうだった。
その間も、空腹は続いていた。
どうしてこんなことになってしまったのだろう。
仕立て屋の前を通ると、婚姻の儀で使うベールが飾ってあった。
母親から譲り受けたはずの純朴なベールを思い出して、また涙が溢れる。
あと少しで、自分も愛する人と結ばれて一生を誓うはずだったのに。
二人で日々を慎ましく過ごして、たまにはアメリアと談笑して、いずれは生まれてくる子供をお母さんに抱っこしてもらったりして。
この後の人生なんて、私にはもうなかった。私が変わってしまったあの時からずっと、生きている心地なんてしてなかった。あるいはもうその時に、死んでしまったのかもしれない。
彼の温もりに触れれば触れるほど、自分は何か違うものに変わってしまったのだという事実を自覚し辛くなった。
けれど彼の血は甘く全てを満たしてくれて……。
過ぎった自分の欲望に大きく首を振った彼女は自分の手に持ったナイフに気がつく。
ディランを間違って襲おうとでもしたら自害しようと思って持ってきたものだ。
刃を握りしめたがそこから血は流れ出なかった。
残る痛みと、やはり人ではないんだという気持ちで再び涙が溢れて、地面に触れて消えた。
親友夫婦の家をノックする。彼らは寝ていたが夜中の訪問者を不審げに伺い、それがティリスだとわかると彼女を招き入れた。
二人の顔を見て彼女は言葉を漏らす。
「もう、どうしたらいいのか、わからないの。大事な人の愛に甘えて……彼を傷つけ続けて、生きながらえて……そんな自分が許せない」
彼女の粗い呼吸が小さな背中を上下させていた。
「ディランがね。……震えていたの。私に血を飲んで欲しいって言いながら、顔を背けたの」
彼女は親友も見たことのない悲痛な表情を浮かべていた。大切な人に拒絶される恐怖。それはどれだけだろうか。
「ティリス……」
私でいいならと言いかけたところでアメリアの肩をエインが掴んで制止した。
彼は何も言わずにただ首を振っていた。アメリアも何が最善かわからなかった。自分が血を分けたところで、ディランと同じ道を辿るのは目に見えている。そればかりかもっとひどい状況になってしまうかもしれないのだ。エインが止めたのはもっともなことだった。
不意に、ティリスが倒れ込む。
駆け寄ろうとするアメリアをまた、エインが制した。
息が荒い。誰が見ても苦しそうだった。
途切れ途切れに、彼女が呟く。
「お母さんに……謝りたい。晴れすが、たを見せられなくて、ベールをつけ、られなくて、ごめんなさい……。二人にも、迷惑、かけちゃっ、た」
二人はただそれを見ている事しかできなかった。物心ついた時からともに過ごしてきた大切な人を失うことに、思考がついていかなかった。
そして、彼女は最期に「ディランに会いたい」と言った。
*****
ティリスの言葉が聞こえなくなってからしばらくして、アメリアが崩れ落ちた。苦しみから解放されたその
その時、半開きになっていた玄関扉をくぐる者がいた。
立ち尽くす青年。
彼は亡骸となった彼女に近寄って抱きしめ、いつもと変わらないやと呟いて笑った。
「どうして」
動けなかった二人に突きつけられたのは非難の言葉だった。
「……どうして、見ているだけで助けてくれなかったの。ティリス……ティリスは」
「先輩……たとえ大事な人を助けるためでも僕はアメリアに傷ついて欲しくない。アメリアも同じでしょう。それに、貴方にもティリスさんにも、これ以上苦しんで欲しくなかったんです」
その声は少し震えていた。
「でも……」
涙で目を曇らせたディランは、床に落ちた小さなナイフを見つけた。ティリスのものだ。きっと誰かを襲おうとしたらこれで自分を止めようと思っていたのだろう。先に、手が動いていた。
気づいたエインが止めようとするも遅かった。
腹を裂く痛み。
彼の鮮血が愛する彼女の白い服を、赤く染めていく。
倒れ込んだ彼はティリスを抱き寄せた。
アメリアが必死で治療しようとするが、死にゆく者に治癒の魔法はかからない。
泣きじゃくる二人にありがとうと呟くと、愛する人の頬を撫でて、彼は安らかに目を閉じた。
*****
腕の中で誰かが呼びかける声で、目を覚ました。そこには愛する人の姿。確かな温もりが、そこにあった。
「僕たち死んだんだね」
「ええ、でも、これならずっと一緒にいられるわ」
柔らかい微笑み。自分が愛した女性の最も美しく、愛らしい姿。
心地よい風が吹いて、美しい花が花弁を揺らす。
あの赤い花が咲き乱れる丘を、二人は手を繋いでどこまでもどこまでも歩いていくのだった。
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