一週間前。君との出会い その三

 何を言ってるんだろう、この人……!

 ていうかいきなり聞かれると、自信なくなっちゃうんですけど。

 私は背中の学校指定鞄に手を伸ばして、サイドポケットに入れているスマホを取り出した。

 ロック画面に表示された日付を読み上げようとすると、真っ白な手袋をした手がぬっと伸びてきて、スマホを持つ私の右手首をギュッと握りしめた。


「うわっ! ちょっと!」

「にせん……にじゅう……!」


 そのまま私の手首ごとスマホをひっぱり、顔を近付けて画面を見始めた。

 ガスマスクが近い! シュコーとかうるさい!

 

 もう……。

「は・な・し・て!」


 つい思いっきり腕を振り払ってしまい、ガスマスク少年は湖の方へと突き飛ばされていった。


 しまった! やりすぎた!


 と、思う頃には、ガスマスク少年はヨタヨタふらふらとバランスを崩して、鳥居の真下の浅瀬に、ばしゃんと尻もちをついてしまった。


「あ。やば……」


 さすがに湖に突き飛ばして逃げるわけにはいかないかな……。

 恐る恐る岩場に立って覗き込むと、浅瀬に尻もちをついている少年のミルクティー色の頭が見えた。

「あの、大丈夫?」

 そっと声をかけると、ガスマスク少年が顔を上げた。

 アッ、ガスマスク外れてる。

 色白な肌にと、重そうな前髪に上半分くらい隠れているのは少しだけ目じりが下がった茶色の目。鼻筋も通って、整った顔立ち。

 ガスマスクとかかぶってなかったら普通にきれいな顔なんじゃない?

 そんなことを思っていると、私を見上げていた少年の目が、大きく見開かれて、そのまま真上を見た。


「本当に……青い……」


 ぼそりと、感極まったような声が聞こえた。


「? 何が?」


 思わず私が聞き返すと、少年はハッとして、慌てた様子で両手で口と鼻を抑えた。

 どうやらガスマスクが外れていることに気付いたようだ。


「え? どうしたの?」


 まるでガスマスクがないと呼吸ができないとでも言うかのように、苦しそうな顔をして、必死な様子でキョロキョロしている。

「ねえ、ガスマスク探してる?」

 もしかして、と思って聞いてみると、少年はこっちを見て、ぶんぶんと頷いた。

「そこに落ちてるけど……」

 彼のちょうどおしりの辺りプカプカと浮いているガスマスクを指さすと、あわあわしながら、息を止めて拾い上げた。

 びしょ濡れになっているので、顔につけるのが嫌なんだろうな。すっかり困ったような顔になっている。

「ねえ。大丈夫? この辺、有毒ガスとかないし、さっき普通に喋ってたんだから、息したらいいじゃん」

 呆れながらそう言うと、少年は私の顔を、責めるような目でにらんできた。

 けど、もう完全に息が限界だったようで、真っ赤な顔でブハッと盛大に息を吐いた。

 よほど辛かったようで、ぜえぜえと肩で息をしている。

「大丈夫? 大丈夫でしょ?」

 涙目でむせながら立ち上がったガスマスク少年は、マントやパンツから水を滴らせて、むすっと私をにらんできた。

 うっ。そりゃ突き飛ばしちゃったのは悪いと思うけど……そもそも君が無理やり私の手首をつかんだからだし……。

「あの、突き飛ばしたのは悪かったけど、初めて会った人に急に手首つかまれたら、誰だって抵抗すると思う。つまり、私の行動は正当防衛」

 後ずさりながら、強めににらみ返してみた。

「う」

 片手に持っているガスマスクからも水をびちゃびちゃとこぼしながら、少年はひるんだ。

「それは……ごめんなさい」

「へ? あ、うん」

 急に頭を下げられて、私は面食らった。

「じゃあ、もういいですか? 私、学校行かなくちゃなんで」

 そうそう。遅刻しちゃう。

 私は話を切り上げ(たつもりで)、スマホを鞄のサイドポケットにねじ込みながら、少年に背を向けた。

「え? 学校?」

 もう、何でいちいち質問系のリアクションしてくるんだこの子。

「そう、学校。銀竜中学校。じゃあね」

 もう振り向かないぞ。

 私は意思を強くもって、階段を速足で駆け上がる。

 上に上り切って自転車にまたがると、ガスマスク少年が、どこからか持ってきたらしい大きなバッグパックを背負って、階段を上ってこようとしているのが見えた。

 げ。追いかけてきてる?

「あの! ここに、学校が、あるの?!」

 うう。必死な声が聞こえた。

 相手してたら間違いなく遅刻しちゃう。

「あるから行くんでしょ! じゃあね!」

 これで最後! 一言返して地面を蹴る。

 自転車のハンドルをぐいっとサイクリングロード側に向けて、ぐるりとターン。さあ全速力で漕ぎ始めるぞ……というところで、少年が階段を上り終えた。

「連れて行って!」

 ……。

 もう~どうしてえ~!

「もう遅刻しそうだから、勝手についてきて! この道を、まっすぐあっちに行けば看板出てくるから!」

 そもそも、学校まではもうほとんど一本道だし。

「わ、わかった」

 少年の返答は、耳をふさぐような風を切る音で、もうよく聞き取れなかった。

 私は勢いをつけて、全速力で学校へ向かう。

 

 湖の外周を四分の一くらい行った先で、左へ。横断歩道を渡って少し行くと、すぐに銀竜小学校と、その奥に銀竜中学校の校舎がある。というか、学校の周囲はほぼ田んぼと畑なので、湖沿いの道路からも校舎はしっかり見える。道路沿いには街路樹というほど整備されたわけでもなく、林というほどではない本数の木があるけれど、木々のすき間から向こう側はちらちら見える。一応、校舎がある一帯は、郵便局や役場もあるし、集落もあるので、この銀竜町の中心地とも言えるかもしれない。山のふもとの町の方が大きいけどね。

 小学校と中学校は隣同士と言うけれど、同じ敷地内にあるので、私みたいに他の地域から来た人が見ると、小中一貫校にしか見えない。校庭とグラウンドは共用だし。

 校門はそれぞれある。手前が小学校の校門。奥が中学校。

 我らが中学校の校門の前には、いつものように校長先生が立っていた。


「おはようございます、たつ姫さん」

 ロマンスグレーって言うのかな? 自然と白髪がまじった髪で、まん丸眼鏡の奥には目じりのたれた笑顔。上品で優しいおばあちゃん! って感じの笑顔の校長先生は、大人たちは車移動が基本の田舎だというのに、自転車で通勤しているそうで、服装はパンツスーツ。

 毎朝誰より早く学校に来て、こうして全校生徒が登校するのをニコニコ見守っているのだ。ちなみに中学校だけでなく、小学生も全員来るまで立っている。

「おはようございます、校長先生」

「たつ姫さん、いつもより遅かったですねえ。何かありましたか?」

 校長先生はニコニコ笑顔のまま、怒ったり咎めたりする声じゃなく、優しく、心配しているのが解る声でそう聞いてきた。

「はい、あの……」

 ちょっと振り向いてみる。うん。ガスマスク君はまだ見えなかった。全速力だもん、追い付けるわけないよね。

「ちょっと変な人に会いまして」

「変な人?」

 校長先生はギョッとした。

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