Tさんのこと

ダックロー

第1話

「Tさんのこと」


Tさん…米子に住んでいるTさんとの付き合いは、私が一七年まえに大阪から鳥取県に転勤で越してきて以来のことなので随分長くなった。Tさんは私が勤務していた食品商社の顧客の一つA社の仕入れ担当者だった。

前任者からの引継ぎはたまたま無くて、初めての面談のときは私一人でA社を訪ねた。取引額もそこそこ、大手の下請け工場であるA社は重要な顧客の一つだった。立派な社屋に入りやや緊張して応接で待っていたが、出てきたTさんは体形は少し太っていて上背もあってごつい感じだったけど、表情はおだやかでとても接しやすい気さくなひとだった。当時はお互い三〇代で若くすぐに打ち解けた。私が小さい息子を連れて転勤してきたばかり、という状況を察して当時Tさんが所属していた、ソフトバレーチームに入らないか?とお誘いをいただいた。初対面でありながら嬉しいと感じたのでOKと即答し、次の練習日に早速妻と1歳の息子を連れて練習場となっている近くの小学校の体育館に夜の練習に参加しにいった。

Tさんのチームは保育園の父母の集まりが元にできたようで、同年代のママさんが多数おられた。総勢二〇人くらいのチームだった。男性はTさんと二〇代前半くらいのOくん、二人だけだった。妻は高校時代までバレーボール部に所属していたし、私もずっと野球をやってたりして運動は好きだったので、すぐにチームの練習にも溶け込むことができた。ママさんたちが連れてきた小学校低学年くらいの子供がたくさんいて、そこらじゅうを飛び跳ねて遊んでいた。うちの息子はまだ小さかったけれど練習中は来ていた子供たちだったり、ママさんの誰かだったりが目をかけてくれて、私たち夫婦は安心して練習に参加することができた。週に二~三回、夜七時頃から一時間半程度の練習時間だったと思う。

普段の仕事では、よくTさんの会社を訪問してTさんと面談していたが、ほとんど仕事の話にはならず、もっぱら趣味(お互いプロレス好きという共通点があった)の話題、そしてソフトバレーのことを延々と話し合った。長いときは二時間くらいA社に入り浸って時間を潰していた。ソフトバレーの話題になると熱がこもった。戦術のこと、近いうちにある大会のこと、チーム編成のこと…お互いすっかりソフトバレーに入れ込んでいたので話し合うことが楽しかった。

ソフトバレーの大会はけっこう頻繁にあって、大きい地元の大会だと五〇チーム以上参加していた。うちのチームはそんなに強くはなかったので上に勝ち進むことはなかったが、試合は結構燃えた。私はバレーの技術はそれほどでもなかったけど、当時三〇代前半で体の切れも良かったので動きでカバーしていた。試合には勝てなかったけど、終わってから居酒屋での慰労会に参加したり、とにかく楽しんでいた。

けど、私が参加して二年くらい経った頃、チーム内で内紛がありTさんはチームを去ることになった。一部のメンバーの中で意見の相違が露呈して仲たがいが生じたのが発端だった。Tさんがいなくなると私も参加する意欲が無くなり、丁度妻が娘を妊娠していた時期が重なったことをいいことに、チームを退団する旨を伝えたのだった。

Tさんは運動に対してはまだまだ意欲的だったので、その後はバウンドテニスというインドアスポーツのチームに参加するようになっていた。私はその頃は仕事も忙しくなり娘も生まれたりで夜にスポーツクラブに属して汗を流すことはなくなって、もっぱら所属していた草野球チームに参加していた。A社への訪問時は相変わらずTさんと長い時間かけて面談していた。ソフトバレーはご一緒することはなくなったけど、プロレスを見るのが共通の趣味だったので、地元でプロレスの興行があるときはよく一緒に見に行った。Tさんの息子さんのKくんもよく連れられてきていた。

それからしばらくして、私は転職することとなり、住んでいた米子市から車で一時間ほどの距離にある倉吉市に引っ越すことになった。

仕事の担当から離れることとなったのでTさんとも仕事ではお別れとなった。Tさんは別れを惜しんでくれたが、当時の私の考えを尊重してくれて快く送り出してくれた。

その後私は転職がうまくいかずに何社も転職で渡り歩くことになり、

人生迷走していた。当時松江にあるAK社に転職したときのことだった。AK社も食品業界だったので、Tさんの属するA社とは取引があったのでまたTさんと会う機会が出てくると考えていた矢先、Tさんが脳梗塞で倒れて入院している、という情報を耳にした。病院に担ぎ込まれたときは結構重篤な状態だったらしく、体が不自由な状態になって療養している、とのことだった。Tさんとは取引関係を離れたあともちょくちょく連絡を取り合っていたが、Tさんが倒れた時期、私は東京で働いていたタイミングだったので状況をつかめずにいたのだった。

Tさんの状況を伝え聞いたときは本当に驚いたが、一命をとりとめたと聞いて安心した。また病状が回復して職場復帰されたときは会いに行こうと考えた。AK社に転職して少し経ったとき、Tさんが出社されている、と聞いたので早速会いに行った。Tさんは杖をついておられた。しかも体左半身は麻痺していて喋り方もやや呂律が不安定だった。けど表情はおだやかで笑顔で迎えてくださり、少しの間の立ち話だったけど、元気になられた様子が見られて私も安心した。

その後も私は転職を繰り返して、その過程で精神を病み躁うつ病と診断された。無職となり自宅で療養していた時期もあった。日々不安な毎日を過ごすこととなったがそんな様子はTさんにメールで報告したり、悩ましい気持ちを伝えたりしていた。どんな時でもTさんはそんな私をメールで励ましてくれた。ご自分もリハビリを続けながら日々頑張って通勤されている中で送られてくるTさんのアドバイスや励ましは、当時鬱症状がひどかったときは実のところ私の心に届かなかったことが多かったのだが、今から思えば本当にありがたいことだった。

精神病の症状がやや落ち着いて倉吉のSP社というところに転職し、また営業職として動き始めたころ、Tさんの勤めるA社とは取引がなかったが新規開拓という名目でTさんに会いに行った。Tさんも快く色々話を聞いてくれた。

しかし営業職として働いてはみたものの、落ち着いていた症状がまたひどくなり始めて仕事に支障をきたすほどになっていった。営業まわりも苦痛に思えた中で、A社に訪問してTさんと会って商談という名目で休憩しにお邪魔したりしていた。そんなあるとき、死にたい、自殺したいというようなことを私が口にしてしまったとき、Tさんの顔色が少し変わった。私の話を聞いたうえで、Tさんは、

「俺のことをもっと頼ってくれていいんだよ。我慢しちゃだめだ」

と強い口調で言われたのだった。自分のことだけでもていっぱいだろうに、不甲斐ない私のことをここまで思ってくださっている、ということが分かり、嬉しいというより自分が情けない思いだった。Tさんに初めて叱られた、のだった。

結局その後まもなくSP社を辞めて次は関連会社の農業に取り組む部署に所属することとなったのだが、そうなったいきさつはSP社の社長がたまたまTさんと面談されたときに、以前から私が農業に大変関心を持っているという話をTさんから社長が聞かれて、それならば、と私に御鉢が回ってきた、ということだった。

農業に興味があったとはいうものの、実際やったことは無いしそれで飯が食えるほど甘くはないだろうと感じて一度は固辞しかけたが、また病気が再発するようだと営業の仕事はできないとも感じたので話を受けることにした。

実際農業(梨畑の管理)の仕事をやってみると、自然相手でマイペースでできる部分もあり、精神的には楽な状態で作業できることもあって、精神病の病状は良くなっていった。今から思えばこの選択は間違っていなかった。肉体的な疲労はあったけど、それが精神病の回復には助けになったのだった。梨畑での仕事は三年ほど続けた。

その後、病状がぶり返したりしたときもあったが、全般的には私自身の精神病は回復していった。

Tさんとは頻繁ではないがその後もメールやラインでやり取りは続けている。Tさんは相変わらず体が不自由な状態は続いているが、会いたいと連絡したときにはいつでも応じてくれてカフェで長話をすることもある。Tさんとも長い付き合いになって、出会った頃に小さかったうちの息子も高校を卒業しすっかり大きくなり、月日の流れを感じる。私もTさんもこの一七年間の間、激動の日々もあったけどこうして穏やかにいつでも会える関係性を続けていられるのが、何よりである。多分これからも、お互い爺さんになっても会えばプロレスの話とかお互いの子供、孫の話に花を咲かせていくことだろう。思えばTさんが病院に担ぎ込まれたとき、そしてこの先一生身体が不自由になってしまうという事実に直面したとき、どんな思いだったろう。おそらく病院のベッドで絶望的な思いに見舞われていたのだろうと想像する。今もリハビリを続けておられてはいるが、Tさんの表情はいつも明るい。やりとりするラインの文面からも安定しておられると分かる。そんなとき、Tさんの不屈の精神を思う。私自身も人生に失望してしまった経験はあるが、Tさんほどのハンディを背負って生きていくことができるのか、果たしてと考え込んでしまう。ただ、人生はたとえどんな状況に陥っても生きている限りはいいこともある、決してあきらめてはいけない、ということをTさんから私は学ばせていただいた。これからもいろんな気がかりなことがあるにせよ、何とか乗り切っていけるだろうという楽観的な考えも必要であるということだ。

最後にこの文章を書くことになったいきさつについて。私は最近こんな感じで過去のことを記憶の残っているまま文章にするのが趣味で、読書家でもあるTさんにはいつも書いたものを読んでいただいて感想を言っていただいたりしている。そんな中でTさんから

「次書くときはちょい役でもいいから、俺を登場させてよ」

というリクエストがあった。Tさんとのことは書き出すとこんな感じでエピソードが豊富なので、書き甲斐があった。ここでもTさんに謝意を示して文章を終えたい。


二〇二一年八月二一日


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