佐久の城

ここで”その場所”に行く前に触れておきたいことがある



笠原清繁という歴史上の人物について聞いたことがあるだろうか

今から約五百年前の話である

彼は戦国期にあって信濃国佐久郡(現在の長野県佐久市付近)にあった志賀城という小さな城の城主であり、一帯を治める中小国衆の一人である


中小国衆とは中小企業みたいな呼び方をしたが、これはあながち間違ってはいない


戦国期、よく群雄割拠などと言われ、誰もが知る有名な戦国大名という存在が日本の北から南までに割拠してそれぞれの領地を国単位で統治し凌ぎを削ったという印象が強いが、実際はそうではなく、それぞれの土地に土着の勢力が国中に沢山存在しており、これらを味方につけ、あるいは滅ぼし、版図の勢力を拡大していくのが当時の流れである


領土が広がり、人も兵隊も自然に増えるのではなく、そこに元々存在する中小国衆を味方に吸収することで自らの旗下としてその勢力を拡大していくのだ


笠原清繁も信濃国のそんな国衆の一人である


おりしも、当時甲斐の国(今の山梨県)を勢力下に収めたばかりの武田晴信(武田信玄)は、信濃への本格的な侵攻を始めており、いよいよ笠原清繁が治める佐久にも迫ってきていた


笠原清繁は武田への服従を拒み、これに対抗するために関東を中心に大きな勢力を持つ管領上杉家に援軍を要請し、笠原と遠縁にあった上杉家もこれに応じ援軍を送るも武田軍に敗れ壊滅、更にこの合戦で討ち取った上杉勢の数百(一説には三千とも言われる)の首級を笠原清繁が籠る志賀城の本丸から見える場所に並べたという


城外の凄惨な光景に城方の士気は大いに衰え、必死の抵抗も虚しく、遂に武田軍の総攻めを受け落城、城兵はことごとく討ち死にし、城主笠原清繁もその首を取られた


志賀城にはこの時、戦火を逃れるために多くの領民が避難をしていたが、これらは全て捕らえられた


捕らえられた民は安い金銭で血縁や親族が取り戻すことが一般的だが、志賀城の場合はそれは許されなかった


身内がどうにもならないような高額取引とされたため、ほとんど取り戻すことすら叶わず、奴隷として方々(ほうぼう)へ売買されてしまったのだ



そして、佐久の城で捕らえられた民の中から、多くの女性たちがこの時”黒川金山”へ送られたと言われている



これが後に彼女たちを更なる悲劇へ導くことになる始まりともいえるのだ



このようなことは、今では到底考えられないことことだが、当時は当たり前のように行われていた。似たような悲劇はここだけに限らず、悲運を持ってあちこちへ売り飛ばされることは、珍しい事ではなかった


しかしながら、民に何の罪もあろうはずもなく、この志賀城の処遇については武田軍の多くの戦歴をみてももっとも過酷かつ残酷である

これには、侵攻前に何度となく服従勧告を送ったにも関わらず、降伏せず他家を頼りに戦いを挑んできたという経緯から、こういうことをすれば武田は徹底的にやるということを他の国衆に見せつける、いわば見せしめとしたのではないかと言われている



















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