第36話

 わたしの世話役として赴任してきたヒナタが最初にしたことと言えば、部屋の掃除と換気でした。


「環境が悪いと、人間ってダメになるのよ」


 ヒナタはそう言って、マットレスからシーツを引き剥がしました。マットレスには、以前嘔吐したジュースと胃液の黄色いシミが、まだ残っていました。


「マットレスも、買い替えてもらいましょう」

「いいって、そんなの」

「ダメよ」


 ヒナタは今までやってきた八人の世話役たちの、誰とも違いました。彼女たちは、サリーも含めて全員が、わたしの意向に沿うように、あるいはお伺いを立てるように仕事をしてくれていました。でもヒナタは違います。いくらわたしが望んでも、ダメなものには徹底的に『ダメ』を突きつけました。このマットレスの件は、序章に過ぎませんでした。


「アレクサ」


 ヒナタは床に掃除機をかけながら、


「あなた、もう少し、自分をだいじにしなきゃダメよ」


 掃除機の音が、ヒナタの声をものすごく遠くのものにしています。わたしは知らんぷりを決め込みました。自分をだいじにするだなんて言葉の意味が、わたしにはよく分からなかったのです。


 自分をだいじにする。

 どうやって?


『楽園』にいたころなら、まだその意味を理解できたでしょう。でも『楽園』から引きずり出されて、もう二年も経過していました。『調整』によって、わたしは『幸福』だった生活のほとんどを忘れようとしていたのに。誰もわたしを『心』の底からだいじにしてくれる人なんかいないのに、いったいどうやったら、わたしはわたし自身のことを、『だいじ』にできるのでしょうか。


「アレクサ」


 ヒナタに呼ばれると、わたしは一瞬、あのフェンスの前で過ごした日々に戻ります。


「今度、また本を持ってくるね」

「読みたくない」

「わたしがあなたに読んであげたいのよ」


 となりにいたはずのイーサンはもういなくて、わたしはたったひとり、ずいぶん遠くに来てしまったのだと感じます。それでもヒナタはあの時と変わらない笑顔で、わたしに『心』を教えてくれようとしているのです。


『シンデレラ』の本は、『楽園』に置いてきてしまいました。

 本を返さなかったことを、謝らなければならないと思いました。


「……ヒナタ」

「うん?」

「……。何でもない」


 絵本の中の、かわいそうなお姫さま。彼女は王子さまと結婚し、いつまでも『幸せ』に暮らしましたとさ。


 めでたし、めでたし。


   ※


 わたしの腐りきった毎日に、ヒナタはあっという間に陣地を築き上げました。


 毎朝ヒナタの声で目覚め、ヒナタに髪を結わかれ、ヒナタの作った朝食を食べました。いくら食欲がない日でも、ヒナタはわたしに「食べなきゃダメです」と言い、わたしの意見は頑として聞き入れてはくれませんでした。わたしはオレンジジュースだけを飲んで、彼女の非難をかい潜りました。そんな時のヒナタの顔は、ドロシーを叱りつけるノーラの顔と、少し似ていました。


 ヒナタはほんとうに本を持ってきました。絵本から青少年向けから、ほんとうに難しそうな小説まで。でもすべての本には共通点があって、それはフィクションだということでした。ヒナタはこの時になってもまだ、わたしに対する『情操教育』をあきらめてはいなかったようです。


 わたしとヒナタの関係性は、あのころとほとんど変わってはいませんでした。それでもほんの少しだけ、変化したことはあったのです。ヒナタが軍に入ったこと、わたしと彼女を隔てるフェンスがなくなったこと。そして、いつも一緒にいたはずのイーサンがいなくなったということ。たぶんほんとうに、それくらいです。



「ねえ、ほんとうにいいの?」

「うん」

「ほんとうに? ほんとうにいいの?」

「いいってば」


 鏡、ケープ、それからハサミ。ヒナタの右手はハサミを握ったまま、鏡の向こうで小刻みに揺れていました。


 わたしはヒナタに散髪を頼んだのです。

 バッサリ切ってくれと、そう頼みました。


「どういう風にしたい?」

「どうでもいい」

「なんかこう、ないの? こういう髪型にしたい、って」

「ない」

「……じゃあ、セミロングくらいにする?」


 セミロングがどのくらいなのか、よく分かりません。


「それでいい。早くして」

「う、うん」


 どうしてふつうの女という生き物は、こうも髪型にこだわるのでしょうか?


 ヒナタもそうですし、ノーラもキンバリーもそうでした。ドロシーはノーラに髪を結ってもらって、楽しそうに笑っていました。ニコールも、長い髪をだいじにしていました。ガブリエルも、髪につけるかわいいアクセサリーを、通販で何個も買っていました。


 軍を脱走するまではニコールに、『楽園』で暮らしていた時はノーラが、こうやってわたしの髪を切ってくれていました。でもそのふたりはもう、この世にはいません。



「行くよ」

「うん」


 ヒナタのハサミを握る手が、ゆっくりと先の刃を閉じていきます。


 チョキン、というあっけない音とともに、わたしの髪は床へと落ちました。


「アレクサ」

「何?」

「なんで急に、『髪型を変える』なんて言いはじめたの?」

「自分じゃ結べないから」

「結ぶくらい、わたしがいくらでも」

「いいの」


 ヒナタの口答えを許さないとでも言うように、わたしはケープの下で、右の義手をカシャカシャ鳴らしました。


「アレクサ」

「……」

「かわいくするね」

「……勝手にすれば?」


 機械義手は便利なものですが、万能なものではありません。少なくともペンもカトラリーも、わたしは左手で持っていましたし、とうぜん、髪を結うなんて細かいことはどうやってもできません。


 ヒナタの手が、わたしの髪束を次々に切り落としていきます。わたしの頭はどんどん軽くなって、そのたびに細い髪がハラハラと床に落ちました。


「染めないの?」

「染めない」

「どうして?」

「めんどくさいから」


 軍に復帰してからの二年の間に、わたしの髪は真っ白になってしまっていました。医療技官いわく、それは『ストレス』が原因なのだと言うのです。


『ストレス』ですって! 心理的ストレス! わたしには『心』がないのに、いったいどうやって、『心理的なストレス』を感じるというんでしょう⁉︎ あの人たちが言うことは、そうやっていつも適当なことなのです。


 それから作業に集中していたのか、ヒナタは黙りこくったまま、少しずつ、わたしの髪を短く切りそろえていきました。わたしの白い髪の半分以上が床に落ちてから、彼女は言いました。


「訊かないのね?」

「何を?」


 空気を読むというのでしょうか。相手の発言の真意をくみ取るということが、わたしは苦手です。


「わたしのこと」

「訊いてほしいの?」

「うん、話したいの」


 話したい。それは聞いてくれる誰かがいるからこそ、成立することでしょう。鏡越し、わたしの髪を切るヒナタの手元が幾分危うくなるのを見ながら、わたしは彼女の歴史を聴きました。


「わたしね、ずっと、あなたやイーサンと同じように戦って、平和を取り戻したいって思ってた。父の役に立ちたいって、そう思ってたの」


 彼女の父は、元東京基地司令でした。


「でも、わたしは戦うとか、争うとか、やっぱり得意じゃなくて……。でも、何かの役に立ちたいっていう、その気持ちはほんとうだったのよ」


 この時、彼女の父はすでに故人でした。日本で最大規模の東京基地が陥落した時、彼女の父もまた、戦没者となったのです。


 殺戮兵器が飛び立つ轟音が聞こえ、窓ガラスがビリビリと揺れました。窓枠に切り取られた空の深い青が、まるで閃光のようにわたしの目を焼きました。まぶしさの中に、部屋の薄闇がものすごく暗く感じられて、鏡越しのヒナタの表情さえ、見えなくなりました。


「それで、看護婦に?」

「うん。人のお世話をするのは、嫌いじゃないから」


 人のお世話。

 嫌いじゃない。


 その通りでした。わたしの知っているヒナタ・カワムラは、どこまでもお節介で面倒見のいい、まるで母親のような少女でした。その少女は大人の女性になっても何ひとつ変わらずに、こうやってわがままなわたしの髪を、文句のひとつも言わずに切ってくれているのです。


「学校を卒業して、東京に戻って、看護学校に入ったの。クラスメイトのほとんどが、本土の病院に就職したわ」

「ヒナタはイレギュラーなんだ」

「そうね、そういうこと」


 ヒナタはたぶん、ふつうの女性として、『心』があるふつうの人間としての人生を歩んできたのでしょう。ふつうに学校を卒業し、ふつうに看護学校に入って、そしてふつうに看護婦になった。彼女の人生において、ふつうでなかったことと言えば、従軍したこと、父親が殉職したこと。そして幼いころに、わたしやイーサンと出会ったことくらいでしょう。


「友だちからは、すごいねって言われたの。……軍に入るなんて、思い切りがいいって」


 友だち。

 その響きを聞いて、わたしはほんの少しだけ頭を動かしました。ヒナタが手を止める気配。暗い鏡越しに、彼女の明るいキラキラした瞳が、不思議そうにこちらを見つめます。

 わたしは言いました。


「友だち、できたんだね」

「……うん」


 彼女はその言葉が、失言だと気づいたのでしょう。


 ヒナタは『ふつう』の女の子でした。かつてわたしがどれほど切望したか分からない『ふつう』の『幸せ』が、彼女の進む道の先には、用意されていたのです。


 わたしは目を閉じました。ヒナタの手がふたたび動き出して、わたしの髪を、チョキンチョキンと、ハサミが切り落としていきました。


 ヒナタの送ってきた生涯を想像します。『ふつう』の女性としての『ふつう』の生活。ヒナタ・カワムラには『心』があります。彼女は兵器ではない、ちゃんとした人間です。少なくともヒナタの生涯において、パイロットとしての過酷な訓練も、『心』を殺される投薬処置の苦痛も存在していませんでした。仲間を撃墜しなければいけないことも、目の前で夫を殺されることもないのでしょう。


 今までも、そして、これからも。


 わたしが聞いていなくとも、ヒナタは学生時代の思い出を語ってくれました。彼女はこうやって、何でも面白おかしく語って聞かせようとしてくれるのです。あのフェンスの向こうでもそうでした。今は看護学校時代の友人が、愛想が悪すぎてレストランのバイトをクビになったという話をしていましたが、わたしはどう相づちを打っていいのか分かりませんでした。だってそもそも、『レストラン』の『バイト』というものが何なのか。まずその言葉の意味が、分からないのですから。


「アレクサ?」

「……」


『ふつう』の生活、『ふつう』の人生。最初から縁がなければ、たぶん何とも思わなかったのでしょう。でも、わたしはそれに触れてしまった。知ってしまったのです。外の世界を、『楽園』での楽しかった日々を。一度得たものを取り上げられるということは、最初から持っていないことよりも辛いものです。


 わたしの視界の中で、鏡の中のヒナタが一瞬、ゆがんだ気がしました。空っぽの胸の中に、言いようもないふつふつとした何かが、泡を立てて沸き上がってくるのを感じました。わたしはそれを知っています。イーサンがヒナタのお守りを持っていたこと、それを持って出撃していく姿を見た時の『感情』に似ていました。たしかそれは、『嫉妬』というものだったはずです。でもその『感情』がほんとうに『嫉妬』と呼べるものなのか、『心』を奪われたわたしにはもう、それが分かりません。


「アレクサは、どうやって過ごしてきたの?」


 そんなの、パイロットとして過ごしてきたに決まっているでしょう。


「……」


 答える必要はありませんでした。ヒナタはわたしの世話役なのですから、おそらくはミハイロワ中尉から、わたしの過去をすべて聞いているはずです。イーサンを撃墜したことも、『楽園』での日々のことも、ジョシュアとショーンのことも。


「アレクサ?」

「……」


 わたしは口を閉じました。閉じてジッと、鏡越しにヒナタの目を見つめました。あのキラキラした薄茶色の瞳は、子どものころと何ひとつ変わらないかがやきを持って、わたしのことを見つめ返してきます。彼女の目に、わたしの姿が反射していました。かつて『楽園』で笑いながら生活していたことがウソみたいに、わたしの表情は荒んでいました。


「知っているんでしょう?」

「?」


 何を? ヒナタはそうやって首をかしげます。小鳥みたいな動き。もしセキレイに乗っていたら、わたしは彼女の首をひねって握りつぶしていたことでしょう。


「とぼけないで」


 彼女は目を伏せました。沈黙は正直そのものでした。すべてを知っていて、それでもわたしの口から語らせるためだけに、ヒナタはこうやって、わたしに問いかけているのです。


「……知っているのよね?」

「……うん」

「知っているのに、なんで訊くの?」

「それは……」


 自分の口で語ることが『心』にいいのだとか、医療技官が吹き込んだのかもしれません。


 ヒナタはハサミを置き、短くなったわたしの髪の毛を、手ぐしで整えはじめました。


「……アレクサから、聞きたかったから」


 彼女がわたしの髪に触れるたび、白く変色した髪が、するすると抜けていきました。


「あなたの口から、あなたの過去を、聞かなくちゃいけないって、そう思ったから。……アレクサ、わたしはバカだから。そうしないと、あなたという人間を理解できないし、支えられないから。だから」

「そういうの、いいから」


 わたしがピシャリと言うと、ヒナタは手を止めました。彼女の顔は見る見るうちにしぼんでいって、泣き出すほんの少し手前で、わたしは言いました。


「理解なんかいらないし、支えるとか、そういうのもいらないから」


 わたしは立ち上がりました。ケープを剥ぎ取り、左手でブラシを取り、乱暴に髪の毛を梳かしました。


「……アレクサ」


 今まで見てきたどの顔よりも悲しそうな表情をしながら、ヒナタはわたしの名を呼びました。


「わたし、あなたの世話、辞めないから」

「そう」

「ずっとずっと、そばにいるから」

「……勝手にすれば?」


 わたしはそれだけ言って、部屋を出ました。扉を閉める時、一瞬だけ、彼女の顔が見えました。


 ヒナタの、『心』の底から傷ついたような顔を見て、わたしの頬は勝手に笑っていました。

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